「コーディングは解決済み」——Claude Code開発者Boris Chernyが語る、AI時代のソフトウェアと投資の未来
2026年、AIによるコード生成の精度と速度は急速に向上し、ソフトウェア開発の現場は静かに、しかし確実に変わりつつある。
その変化の中心にいる人物の一人が、AnthropicのシニアエンジニアでありClaude Codeの生みの親、Boris Cherny氏だ。彼はサンフランシスコで開催されたSquareのイベントにて、現在の開発環境、AIエージェントの活用法、そしてSaaS産業の未来について率直な見解を語った。
本稿では、Cherny氏の発言をもとに、技術トレンドが事業・投資にどう影響するかを整理する。テクノロジーに精通したビジネスマンや投資家にとって、今後の意思決定に参考となる視点を提供できれば幸いだ。
1. Claude Codeの誕生——「偶然」から始まったプロダクト
1-1. Anthropic内部のイノベーションチームから
Claude Codeは、Anthropic内部に設置されたインキュベーター的チーム「Anthropic Labs」から生まれた。Cherny氏が参加したのは、2024年末のことで、当初は少人数のチームがClaude Code、MCP(Model Context Protocol)、デスクトップアプリという3つのプロダクトを開発した。
「チームがその役割を果たし終えた後、私たちは解散した。でも今、ラウンド2として再結成している」とCherny氏は振り返る。現在は、Instagramの共同創業者でもあるMike Kreiger氏がプロダクト責任者を務めており、組織的な強化が進んでいる。
1-2. プロダクトより先にモデルを信じた
Claude Codeの開発初期は、決して順調ではなかった。最初の6ヶ月間はほとんど使い物にならず、Cherny氏自身もコードの10%程度にしか使えていなかったという。リリース当初も爆発的な成長はなく、転機となったのは、Opus 4のリリース(2025年5月)だった。
Cherny氏は、この経緯を「PMF(プロダクトマーケットフィット)の前に作り始め、それが6ヶ月後に来ることは最初から分かっていた。次のモデルに向けて作っていた」と表現する。モデルの進化に先んじてプロダクトを仕込む、という先行投資型の開発哲学が根底にあった。
2. 「コーディングは解決済み」——その意味と射程
2-1. Cherny氏にとっての「解決」とは
Cherny氏が、「コーディングは解決された(coding is solved)」と述べるとき、それは自身の経験に基づいている。
「私にとっては、もう100%モデルがコードを書いている。先週は、1日に150件のPRを出した日もあった」と語る。Claude Codeのコードベースは、TypeScriptとReactというシンプルな構成で、それゆえモデルへの移行が比較的早く実現できたという。
ただし、Cherny氏は、この「解決」がすべての状況に当てはまるとは言っていない。大規模で複雑なコードベースや、モデルがまだ十分に対応できていない言語・フレームワークでは、まだ課題が残る。それでも「通常は次のモデルを待てばいい、というのが答えになっていく」と述べている。
2-2. ワークフローの実態——スマートフォンと数百エージェント
Cherny氏の現在の開発環境は、多くのエンジニアの想像を超えるものだ。
主なツールはスマートフォン上のClaudeアプリで、複数のセッションに数百のエージェントを同時稼働させている。夜間には数千のエージェントが深い作業を行っているという。
特に注目されているのが「ループ(loop)」機能だ。これはClaudeにcronジョブを使って定期タスクをスケジュールさせるもので、Cherny氏は以下のような用途で活用している:
PRの管理(CI修正・自動リベース)
CIの健全性維持(不安定なテストの自動修正)
Twitterのフィードバックを30分ごとにクラスタリングして報告
「ループは未来だと感じている。まだ試していない人には強くお勧めする」とCherny氏は述べており、同社はこれをサーバー側で動かす「ルーティン(Routines)」機能としても提供を開始した。
3. チームの未来——専門家よりも「越境型ジェネラリスト」
3-1. エンジニアリングを超えた「全員コーダー」組織
Cherny氏が予測する未来の組織像は、従来の専門職の壁を越えた「越境型ジェネラリスト」の増加だ。
「私たちのチームでは、エンジニアリングマネージャーも、プロダクトマネージャーも、デザイナーも、データサイエンティストも、財務担当者も、ユーザーリサーチャーも、全員がコードを書く」と語る。
これは、エンジニアが複数のプラットフォーム(iOS・Web・サーバー)を担当する「横断型エンジニア」から、さらに進んで、デザインやプロダクト戦略やデータサイエンスを兼ねる「越境型プロフェッショナル」への移行を意味する。
3-2. Anthropicの「組織的優位」
興味深いのは、Cherny氏が、「Anthropicの優位性はテクノロジーではなく、組織構造にある」と述べた点だ。
外部の開発者が使うモデルとAnthropicの社内が使うモデルは基本的に同じだという。違いは、全社員がClaudeを使いあらゆる業務を行い、複数の社員のエージェント同士がSlackを通じてリアルタイムにコミュニケーションしているという組織的プロセスにある。
「私たちが先を行っているのは技術ではなく、組織構造とプロセスの部分だ。そして、これはスタートアップがもっとも追いつきやすい部分でもある」とも述べており、大企業よりもスタートアップに有利な変化だという見方を示した。
4. SaaSの未来——「モート(競争優位)」の再構成
4-1. 弱体化するモートと残るモート
Cherny氏は、AI時代に「七つの経済的優位性(Seven Powers)」がどう変わるかについて独自の見解を示した。
弱体化する優位性としては以下を挙げた:
スイッチングコスト:モデルがシステム間の移行を容易にするため、囲い込みが難しくなる
プロセスパワー:業務フロー・ワークフローを強みとする企業は、AIがプロセスを自動最適化できるようになることで優位性が薄れる
一方、引き続き機能する優位性として挙げたのは:
ネットワーク効果
スケール経済
コーナードリソース(希少資源の囲い込み)
これらはAIの登場によっても本質的には変わらないとCherny氏は見ている。
4-2. 小規模スタートアップが大企業と正面対決できる時代
Cherny氏は、SaaSの「破壊」について、一般的な「SaaS終焉論」とは異なる視点を提示した。
「今後10年で誕生するスタートアップの数は、過去10年の10倍になると思う。なぜなら、小さなスタートアップが大企業と同等の価値を持つプロダクトを作れるようになるからだ」と述べた。
大企業は、ビジネスプロセスの変革、社員の再教育、内部抵抗という壁に直面する。しかし、ゼロから始めるスタートアップはAIネイティブに構築できる。
「今はビジネスを始める最高の時代だ。だからこそ、私たちにはまだ希望がある」というCherny氏の言葉には、楽観的な根拠がある。
5. 「印刷機の比喩」——ソフトウェア開発の民主化
Cherny氏が語った中で最も印象的な予言の一つが、ソフトウェア開発の民主化についてのアナロジーだ。
5-1. 1400年代の印刷機と現代のAI
Cherny氏は、現在の状況を1400年代ヨーロッパの印刷機の発明に例えた。印刷機登場以前、ヨーロッパで読み書きができたのは人口の約10%に過ぎなかった。しかし、印刷機の登場後50年で、それ以前の1,000年分を超える出版物が生まれ、書物のコストは100分の1に下がった。
「同じことがソフトウェアで起きようとしている。ただし、もっと速いスピードで」とCherny氏は述べる。
5-2. ドメイン知識こそが最大の強みになる
この民主化が進むと、誰がより良いソフトウェアを作れるかという問いへの答えが変わってくる。
「会計ソフトを作る最適な人物は、今日でももしかしたらエンジニアではなく、優秀な会計士かもしれない。ドメインの深さこそが難しい部分で、コーディングは簡単な部分になっているから」とCherny氏は語る。
これは、特定業界の深い知識を持つ専門家がソフトウェアを直接作れる時代の到来を示唆している。投資家にとっても、どの業種・領域でこのシフトが先行して起きるかを見極めることが、次の投資テーマになるかもしれない。
6. MCPとエージェントの次のステップ
6-1. 知識業務への拡張
Claude CodeがエンジニアのローカルツールをAI化したように、一般的な知識業務にも同様の変化が起きるという見方が示された。
Cherny氏は、SalesforceやGoogle Docs、Googleカレンダーといったクラウドツールが既にMCP(Model Context Protocol)経由でClaudeと連携可能であり、知識業務のAI化は「MCPが答えだ」と述べた。
まだMCP対応していないシステムについては、「コンピューターユース(computer use)」がキャッチオールとして機能し、AnthropicはこのAPIで比較的先行していると自信を見せた。
6-2. 意思決定はモデルに委ねられる未来
ローカルモデルvsクラウド集中モデルという議論についても、Cherny氏の回答は明快だった。
「数年以内に、モデル自身がコードを書き、エージェントを起動し、環境を構築するようになる。どこで動かすかを私たちエンジニアが決める必要はなくなる」とCherny氏は述べる。
AIエージェントが自律的に最適な実行環境を選ぶという、さらに一段上の抽象化が進むという予測だ。
