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【短編小説】退職代行『ISSHINJO Global ワシントンD.C.』

※単体でも読めますが、前作を読むとより楽しめます。
新堂路務さんの書いた前作はこちら


プロローグ 総理を辞めさせた男


霧ヶ谷きりがやが、総理大臣を辞めさせた。
正確には、辞めさせた。選挙で、歴史的な大敗を演出して。依頼どおりに。完璧に。

その一件から、六年が過ぎていた。

霧ヶ谷は、いつものスーツで、いつものオフィスにいた。ただ、名札の肩書だけが変わっていた。「執行役員」。総理を辞めさせた男に、会社が用意した椅子だった。

あの頃、彼を妬んだ同期は、もう一人も残っていない。皆、いつのまにか消えた。辞めたのか、辞めさせられたのか、それすら曖昧なまま。

「見たか、これ」

社長が、タブレットを掲げて駆け込んできた。六年経っても、朝から声が大きい。

画面には、英字のニュース。『ISSHINJO Global、ワシントンD.C.に支店開設』

「アメリカだよ、アメリカ! お前が総理を辞めさせた話がな、いまだに向こうで語り草だ。一国の首相を辞任させた退職代行ってな。おかげでとうとう、ワシントンにまで看板を出せた」

霧ヶ谷は、記事をざっと目で追った。自分の名前が、ローマ字で並んでいた。KIRIGAYA。実物より、ずいぶん立派な男の話に読めた。

「向こうの支店には、日系の若いのを立てるそうだ」

社長は満足げに、手のひらで顔を扇いだ。

「コスギとかいったな。腕はいいらしい。だがまあ、お前ほどの伝説はつくれんだろう」

伝説。

霧ヶ谷は、その言葉を、口の中で転がした。

総理を辞めさせた。たしかに、そうだ。だがあの仕事の最中、彼はずっと、妙な感触を拭えずにいた。自分は本当に、依頼人の意思を代行したのか。それとも――誰か別の人間の意思を、依頼人の意思に見せかけて、代行させられていたのか。

選挙で負けたのは、本当に総理が望んだ結末だったのか。

答えは、出なかった。出さないほうがいい、とも思った。この仕事は、深く考えた者から辞めていく。

そういえば、と霧ヶ谷はふと思った。あの案件の途中で、ふっと姿を消した男がいた。浅野。にやけ顔で扇子を煽いでいた、食えない上司。あの男は今、どこにいるのだろう。

「霧ヶ谷さん」

若い社員が、受話器を手に呼んだ。

「アメリカから、国際電話です。ワシントン支店の件で、確認したいことがあると」

霧ヶ谷は、受話器を受け取った。

回線の向こうは、無音だった。かすかな息づかい。遠くで、聞き覚えのない訛りの英語が、ざわめいている。

「もしもし」

数秒の間があって、低い声が言った。訛りのない、やけに達者な日本語だった。どこかで聞いた気がする。ずっと昔、同じ空気を吸った人間の話し方に、似ていた。

「霧ヶ谷さん。あなたが総理を辞めさせた手際を、こちらで高く評価している方々がいます」

「はあ。どちら様で」

「近いうちに、もっと大きな椅子から、人が降りることになる。あなたの評判が、その舞台を用意しました。感謝を伝えておきたくて」

霧ヶ谷の背筋を、冷たいものが這った。

「……どういう意味です」

「ISSHINJOという看板は、便利だ。人を穏便に辞めさせる、良心的なサービス。誰も疑わない。だからこそ、いろいろなものを、あの看板の裏に隠せる」

「あんた、誰なんだ」

短い笑い。それから、こう続いた。

「私どもは、あなた方とは、少し違うやり方の同業でしてね。円満に辞めさせるのが『一身上』なら、うちは――辞めるべき者を、こちらの都合で、送り出す」

回線が、切れた。

霧ヶ谷は、しばらく受話器を握ったまま、動けなかった。

窓の外、東京の空は、いつもどおり濁っていた。

自分が六年前に開けた小さな扉の向こうで、何かが、とてつもない速さで転がりはじめている。その予感だけが、確かにあった。そしてその転がる先に、会ったこともないコスギという男の名が、なぜか浮かんで消えた。

――ワシントンD.C.

同じ頃。あの街の摩天楼の、十四階。

一室だけ灯のついたオフィスで、一本の電話が、鳴りはじめようとしていた。



第一章 深夜の受話器


深夜二時。ワシントンD.C.の摩天楼が、灯を落として黒い墓標のように並んでいた。

そのビルの十四階、一室だけ蛍光灯が生きている。

秘匿専用回線が鳴った。

ケント・コスギは、書きかけの契約書から顔を上げなかった。指だけを伸ばして受話器を取る。この時間、この回線にかかってくる電話に、ろくなものはない。それでも彼は出る。それが仕事だからだ。

「はい、退職代行『イッシンジョウ ワシントン支店』、コスギでございます」

受話器の向こうは、無音だった。

回線は繋がっている。かすかな息づかい。遠くでエアコンが唸るような、広い部屋の反響。ケントは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。こういう沈黙は珍しくない。辞めると決めた人間ほど、最初の一言を切り出せないものだ。

「お時間は気にされなくて結構です」

彼は静かに言った。

「どんなお立場の方でも、辞めるという決断には、それなりの重さがあります。ゆっくりで構いません」

さらに数秒。

やがて、低い男の声が言った。

「……話がしたい」

ケントはペンを置いた。

この回線は、本社の役員と、ごく限られた顧客しか知らない。ホテルのコンシェルジュ経由でもなければ、たどり着けない。声の質が、ただの富裕層ではないことを告げていた。年齢を重ね、人前で話すことに慣れ、しかし今は、その訓練された喉が、微かに乾いている。

「弊社は、依頼人の過去を詮索しません」

ケントは答えた。

「私どもが扱うのは、過去ではなく、出口です」

「出口、か」

男は、笑うような息を吐いた。

「気に入った。では聞こう。――人間、辞めたくても辞められない立場というものがある。それを、君は代行できるか」

「立場によります。役職、契約、身分。手続きはそれぞれ違います」

「そうか」

沈黙。エアコンの唸り。

そして男は、言った。

「私の役職は、この国で、たった一つしかない」

ケントの指先が、机の上で止まった。

窓の外、遠く。ライトアップされた白い建物のドームが、闇の底で青白く浮かんでいた。


第二章 依頼人


翌朝、ケントは眠れないまま出社した。

コーヒーの湯気ごしに、テレビのニュースが流れている。大統領ホイットフィールドが、また外遊の日程を延期したという速報。健康不安説。政権内の不協和音。キャスターの声は、いつもの通り勿体ぶっていた。

「昨日の電話だがな」

背後から、扇子を煽ぐ音がした。

深野だ。東京本社から目付役として送り込まれてきた、五十がらみの男。この蒸し暑くもないオフィスで、なぜか年中、扇子を手放さない。

「聞いていたんですか」

「壁は薄い。この支店はな」

深野は、にやりと笑った。

「で、受けたのか」

「まだ、正式には」

「受けろよ。面白いじゃないか」

ケントは答えなかった。面白い、で済む話ではない。それに——ずっと引っかかっていることがある。なぜ本社は、こんな食えない男を、たかが海外支店の目付役に送り込んだのか。

深野の経歴を、ケントは知らない。誰も知らない。ただ、扇子を煽ぎながら、この男はいつも、起きる前の出来事を知っているようなそぶりを見せる。

昨夜の電話も、そうだ。

正午、専用回線がまた鳴った。

今度は、迎えの車が来るという。行き先は告げられなかった。

黒塗りのSUVは、ケントを乗せて市街を抜け、やがて見慣れた鉄柵の前で停まった。ゲート。武装した警備。金属探知機。そして、あの白い壁。

案内された執務室で、その男は窓を背に立っていた。

テレビで何百回と見た顔だった。ホイットフィールド大統領。だが画面ごしの威厳は、ここにはなかった。目の下の隈が深く、握手を求めて伸ばした手が、わずかに乾いていた。

「電話の、退職代行くんか」

「コスギです」

「座ってくれ」

大統領は、自ら椅子を引いた。

「単刀直入に聞く。私は、辞めたい」

ケントは、内心で首をかしげた。

「大統領。失礼ながら、あなたのお立場でしたら、辞任に代行は要りません。会見を開いて、そう仰ればいい。前例もあります」

「そう思うだろう」

大統領は、窓の外に目をやった。

「だが、私は――辞めさせてもらえない」


第三章 辞め方が、すべてを決める


「一つ、聞かせてくれ」

大統領は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。まだ署名のない、辞表の草案だった。

「会見を開いて『辞めます』と言うだけなら、簡単だ。だがそれは、ただのパフォーマンスにすぎん。この国で辞任を本物にするのは、たった一枚の紙だ。国務長官に届ける、私の署名した辞表。――連中が欲しがっているのは、その一枚に書かれる、私の名前だよ」

「連中?」

ケントは、当然の疑問を口にした。

「辞めれば、次に座るのは副大統領です。あなたが自分で辞めても、誰かに引きずり下ろされても、後任は同じヴァンス氏でしょう。手続きが違うだけで――結果は、変わらないのでは?」

「そこだ」

大統領の目に、初めて光が戻った。追い詰められた人間が、ようやく話の通じる相手を見つけた、あの光だった。

「結果は同じだ。次はヴァンスに渡る。それは、私も、連中も、わかっている。だからこそ連中は、椅子を奪うことには興味がない。奴らが奪いたいのは、その先だ」

「その先」

「私が、どう辞めたか、という国民の記憶だよ」

大統領は、辞表を、指の腹でゆっくりと撫でた。

「私が自分の意思で、正気のまま身を引いたのなら、私はまともな大統領として歴史に残る。私が署名した法も、任命した人間も、正気の大統領が遺したものとして、その後も生き続ける。――だが、もし『あの男は判断力を失っていた』という筋書きにされたら。私が最後に遺したものは、すべて壊れた老人のたわごとになる。後から、いくらでも消せる。なかったことにできる」

声が、低くなった。

「連中が本当に消したいのは、私の椅子じゃない。私が正気で遺した、たった一枚の仕事だ」

大統領は、一度だけ言葉を切った。それから、初めて私的な声でこう続けた。

「医者に、あと一年もつかどうかと言われた。残った時間を、あの椅子で浪費したくない。だが"病で判断力を失った大統領"として消されるのだけは、我慢ならん」

ケントは、ようやく理解した。この男は、辞めさせてもらえないのではない。正気のまま辞めさせてもらえないのだ。

「なら、ヴァンス氏を先に更迭すれば――」

「できれば、とっくにやっている」

大統領は、乾いた笑みを漏らした。

「閣僚なら、私は明日にでもクビにできる。だが副大統領は違う。あれは私の部下じゃない。私と同じ、選挙で選ばれた男だ。私に、あれを辞めさせる力はない。議会を動かして弾劾するしかないが――その議会はもう連中に握られている」

大統領は、続けた。

「だが、まだ終わっていない。私にも、まだ動かせる議員が何人かいる。連中の握った数を、切り崩せるかもしれん。それだけが、今の私に残された、細い糸だ」

執務室が、静まり返った。

「だから、私の辞めたいが、まぎれもなく私自身の、明晰な意思だったと――その証拠を、残したい」

大統領は、まっすぐケントを見た。

「政府の人間では駄目だ。連中の息がかかっている。必要なのは、どこにも属さない第三者だ。人が辞めるその瞬間に、ただ立ち会うだけの、中立の証人が」

「退職代行、ですか」

「異例なのは、わかっている。辞表に立会人など、この国の歴史に前例はない。だが今の私には、それしかないんだ」

大統領は、伏せていた辞表を、そっと裏返した。

署名欄は、まだ、白いままだった。

「頼めるか。私の最後の正気を――記録してくれ」

執務室を出るとき、廊下の向こうで、一人の男がこちらを見ていた。長身。銀縁の眼鏡。作り笑いの奥で、目だけが笑っていない。

秘書官が、小声でささやいた。

「ヴァンス副大統領です」

副大統領は、ケントに向かって、ゆっくりと会釈をした。まるで、すべてを知っているかのように。

その笑みを見た瞬間、ケントは悟った。これは退職の代行ではない。もっと大きなものの入口に、自分は片足を踏み入れてしまった。


第四章 扇子の男


「大統領の退職代行、ねえ」

オフィスに戻ると、深野が待ち構えていた。扇子の動きが、いつもより速い。

「なぜ知っているんです」

ケントは声を落とした。

「行き先も告げず出たのに」

「勘だよ、勘」

深野は笑ったが、目は笑っていなかった。

「一つ、忠告しておく」

深野は扇子を閉じた。

「この依頼はな、おそらく途中で人が消える。辞めたい人間、辞めさせたい人間、辞めさせたくない人間。三つの意思がぶつかる場所では、必ず誰かが行方をくらます。――お前も、気をつけろよ」

その夜、ケントは初回の面談を録音した音声を、繰り返し聞いた。だが彼が耳を澄ませていたのは、ただ一点――声に、迷いがないかどうかだけだった。

「私は、辞めたい」――そのトーンに、揺らぎはない。判断力を失った老人の声ではない。意思は明晰だ。それさえ確認できれば、証人としての仕事は足りる。ケントは、そう思っていた。

依頼から三日後、ケントは再び官邸に呼ばれた。今度は、正式な署名の立会いだった。 だが、署名そのものは大統領お一人で、と秘書官に告げられた。

証人が手元を覗き込むものではない、記録だけ残せばいい、と。ケントは録音機を机に置き、数歩離れて、窓の外へ目をやった。

それが立会いの作法だと言われれば、疑う理由もなかった。 背後で、ペンが紙を滑る音が始まった。しばらくして、それは止まった。署名は、つつがなく終わった――少なくとも、そのときは、そう思えた。

ケントは振り返り、署名済みの辞表を封筒に納めた。録音機を回したまま。それが、証人の作法だった。

だが、翌朝。

深野の席に、人の気配がなかった。 上着は椅子の背に掛かったまま。読みかけの新聞は、昨日の日付で開かれている。だが、あの扇子だけが、消えていた。

「深野さんは?」

支店長は、書類から顔を上げなかった。

「本社に呼び戻された、と昨夜メールが来た。それきり、連絡がつかない」

妙だ、とケントは思った。呼び戻されたのなら、なぜ上着を置いていく。あの男は、外出のときでさえ扇子を忘れない。その扇子だけを持って、上着も新聞もそのままに、どこへ消えたのか。

まるで、席を立った一瞬に、後ろから何かに連れ去られたかのようだった。 ケントは、深野の机のひきだしを開けた。

整理された書類の上に、ただ一枚の名刺が不自然に残されていた。

白い紙に、小さな紙コップのマーク。一瞬、どこかのカフェの名刺かと思った。だがロゴの下に、社名があった。

『TO GO』

裏に、深野の走り書き。

《本物の敵は、官邸の中にはいない。海の向こうを見ろ。――深野》

消えたのではない。ケントは、なぜかそう感じた。あの男は、姿を隠しただけだ。まだ、どこかでこちらを見ている――そんな気配だけが、扇子の消えた席に残っていた。


第五章 来客


海の向こう。

その言葉の意味を、ケントが理解する前に、来客があった。

CIA分析官を名乗る、リーという男。東洋系の顔立ちで、物腰は柔らかい。だが名刺の肩書は曖昧で、所属部署の記載がなかった。

「大統領と、面白い話をしたそうですね」

リーは、コーヒーを断りながら言った。

「守秘義務があります」ケントは短く答えた。

「もちろん。ただ、一つだけ助言を。あの録音、悪いことは言いません、私たちに預けなさい。政府機関のほうが、安全に保管できる」

録音の存在を、この男は知っている。官邸での会話は、盗聴されていた。そう考えるのが自然だった。それに——リーの英語には、ごくかすかだが、母語の匂いが残っていた。この国で生まれ育った人間の発音ではない。

「お断りします」

リーは笑って引き下がった。だが去り際、こう言い残した。

「賢明な判断を。海を渡る風は、あなたが思うより、ずっと遠くから吹いている」

その言葉の意味を、ケントが噛みしめる間もなく、入れ替わりに女が現れた。FBI特別捜査官、マヤ・オルテガ。三十代半ば、無駄のない目つき。彼女は身分証をしっかりと開いて見せた。CIAのリーとは、そこが違った。

「あの男を、玄関で見送ったところ」

オルテガは椅子に腰を下ろした。

「この建物を張ってた。リーがあなたに接触するのを待ってたのよ」

「張ってた? 僕を?」

「あなたじゃない。リーを、よ」

オルテガは声を低めた。

「CIAは国外担当。国内で市民に接触して、こんな真似をする権限はない。それに、あいつの経歴は途中から改竄されてる。誰かが、内側からリーを守ってる」

オルテガは、机に一枚の写真を置いた。

リーが、ある人物と並んで写っている。どこかのレセプション。相手の男の顔に、ケントは見覚えがあった。

副大統領ヴァンスの、首席補佐官だった。

「大統領の失脚を仕掛けてる連中と、正体不明のCIA分析官が、繋がってる」

オルテガは言った。

「そしてリーの改竄かいざん記録の出所を追うと、線は国内で切れて――海の向こうに消える。コスギさん。あなたが持ってる録音は、この絵の全体像を証明する、たった一つの物証かもしれない」

海を渡る風は、遠くから吹いている。

リーの残した言葉が、ケントの耳の奥で反響した。


第六章 二つの辞意


翌週、事態は思わぬ方向に転がった。

副大統領ヴァンスから、直々に面会の申し入れがあったのだ。

指定されたのは、官邸ではなく、郊外の目立たないレストランの個室。ヴァンスは、あの作り笑いを浮かべて待っていた。

だが近くで見ると、その手が、テーブルの下で小刻みに震えているのがわかった。ネクタイの結び目がわずかに曲がっている。テレビで見る、あの隙のない男とは別人だった。

「率直に話そう」

ヴァンスは前置きした。

「君は、大統領の辞任を代行しようとしている。だが、やめておけ」

「脅しですか」

「逆だ。忠告だ」

ヴァンスは、水を一口飲んだ。グラスの縁が、歯に当たって鳴った。

「私が大統領を追い落とそうとしている――君はそう思っているだろう。半分は、当たっている。だが私は、望んでこれをやっているわけじゃない」

「望んで、いない?」

「ある方面から、命じられて動いている」

ヴァンスの声が、掠れた。

「従わなければ、私の家族に何が起きるか――君には想像もつかないだろう。私だって、こんな椅子は、もう降りたいんだ」

震える手。曲がったネクタイ。追い詰められた目。ケントの中で、絵の構図が音を立ててずれた。

首謀者だと思っていた男が、脅されている。ならば、この男を操る「ある方面」こそが、真の依頼人だ。誰かが、この国の政権交代そのものを――「発注」している。

「その方面とは、誰です」

「言えば、私も、君も、消える」

ヴァンスは立ち上がった。

「ただ一つだけ言っておく。連中が欲しいのは、ヴァンス政権じゃない。私が昇格して最初に署名する、ある一枚の書類だ。それが署名されれば――私の役目は終わる。用済みになれば、私も静かに消されるだろう。大統領と同じように、な」

個室を出る間際、ヴァンスは振り返った。

「君の会社に、日本人がいたな。扇子の。――あの男が、たぶん、唯一の出口だ」

深野。

なぜ、ヴァンスが深野を知っている。


第七章 署名の筆跡


その夜、ケントは大統領から預かった辞表を、あらためて机に広げた。

署名の立会いのとき、彼が封筒に納めた、あの一枚。ケントはこれを「本物の意思の証拠」として保管してきた。

だが、ヴァンスの言葉が、頭を離れなかった。

《連中が欲しいのは、私が最初に署名する、ある一枚の書類だ》

ケントは、ふと、手元の署名を見つめた。

大統領の署名。何度もテレビで見た、あの独特の筆跡。だが――拡大鏡を当てて、彼は息を呑んだ。

署名の末尾、ペンの運びが、不自然に途切れている。まるで、書いている途中で手を誰かに掴まれ、引かれたような乱れ。あの日、大統領の手元を見つめていたはずの自分は、なぜこれに気づかなかったのか。

ケントは、署名立会いの日の録音を、もう一度再生した。

初回の面談ではない。ペンを走らせた、あの二度目の音声だ。

今度は、声を聞かなかった。声の向こう側を聞いた。

万年筆が紙を滑りはじめ、そして――止まった。ほんの数秒の、ためらいの空白。次の瞬間、布が擦れるような、誰かがすっと背後に回り込む気配。

ペンが、再び動きだす。

だが今度の運びは、さっきまでとは違った。ぎこちなく、引きずられるように。そして、大統領の、押し殺した呻き。

あの日、署名が「つつがなく終わった」と信じていた自分の耳は、この音を、ただの衣擦れとして素通りさせていた。

あの日、私は背を向けていた。証人の作法だと言われて。その数歩の距離と、逸らした視線の隙に――大統領の背後で、何かが起きていたのだ。

理解が、氷のように落ちてきた。

自分は、利用されていた。

大統領は確かに「辞めたい」と言った。初回の、あの明晰な声のとおりに。だが、実際にペンを持たされたあの瞬間――署名する手を、誰かが掴んでいたのだ。意思と、サインが、切り離されていた。

そして自分が集めたものは――辞表も、二つの録音も――すべて、大統領が「正気で、自らの意思で辞任した」と見せかけるための、偽装の材料に変えられていた。

無理やり引きずり下ろせば、議会が要る。だから連中は、遠回りの手を選んだ。大統領自身の辞表。それなら議会も投票も要らない。 だが、辞めさせるだけでは足りなかった。

強要がひとかけらでも疑われれば、その後に続く政権移行ごと、不正な政変として巻き返される。連中が本当に欲しかったのは、大統領の椅子ではない。

ヴァンスが署名する、制裁撤回の一枚だ。それを誰にも覆させないためには、その入口――大統領の辞任が、まぎれもなく本人の自由な意思だったという、疑いようのないお墨付きが要る。 そのお墨付きを作るための、中立の第三者。

退職代行という顔をした、立会人。 ケントは、辞めさせる道具ではなかった。辞任を正しいものに見せかける、信用の証人として、選ばれたのだ。

震える指で、名刺を裏返す。紙コップのマーク。『TO GO』。深野の走り書き。

海の向こうを見ろ。

ケントは、オルテガに電話をかけた。呼び出し音が、やけに長く感じた。

「オルテガです」

「僕は、聞く場所を間違えていた」

開口一番、そう言った。

「立会いの録音――声じゃない。声の裏で、大統領は署名を強要されてた。ペンを持つ手を、掴まれてたんだ。僕は意思を守る証人じゃなく、強要を本人の意思に見せかける証人として、雇われた」

回線の向こうで、オルテガが息を呑む音がした。

「……今すぐ、その録音のオリジナルを持って逃げて。あなたは、生きた証人になった。連中は、証人を、生かしておかない」

窓の下、路肩に、見慣れない黒いセダンが停まっていた。エンジンは切られていない。

ケントが凍りついた、その時、部屋の固定電話が鳴った。ケントは反射的に受話器を取った。

「非常階段だ。今すぐ」

聞き慣れた声だった。扇子を煽ぐ、あの食えない男の。

「深野さん――消えたはずじゃ」

「いいから動け!表のセダンはお前を狙ってる。裏から降りろ!下に車を回してある」

ケントは録音機だけを掴み、部屋を飛び出した。非常階段を駆け下りると、裏路地に一台のセダンが待っていた。

運転席で、深野がハンドルを握っていた。ケントが乗り込むなり、車は静かに滑り出す。バックミラーの中で、表に停まっていた黒い車が、一拍遅れて動きはじめた。

「あいつらは、俺が引きつける」

深野は前を見たまま言った。

「お前は、その録音を持って、オルテガのところへ行け。降りたら、二度と振り返るな」

角を曲がり、路地の死角でケントを降ろすと、深野の車はそのまま、追手を誘うように別の方向へ走り去った。

それが、ケントが深野を見た、最後だった。


第八章 継承順位という商品


オルテガの手引きで、ケントはFBIのセーフハウスに移された。

そこで、彼女は事件の全貌を、地図のように広げてみせた。

「あなたが預かった辞表は、大統領を自らの意思で退場させる。副大統領ヴァンスが昇格する。ここまでが、表向きの筋書き」

オルテガはペンを走らせた。

「無理やり引きずり下ろす手もあった。でも、それだと議会が要る。ところが大統領が水面下で議員に働きかけて、連中に必要な数が足りなくなった。だから急遽、本人の辞表に路線変更したのよ。辞表なら、議会も投票も要らないから」

「そのために、僕が使われた」

「あなたの立会いが、辞表を正真正銘、本人の意思に見せかける、最後のピースだった」

オルテガはうなずいた。

「そしてヴァンスは、脅されてる駒に過ぎない。彼が昇格して最初に署名する書類――それが、この絵の本体」

「その書類とは」

「対中制裁の、全面撤回」

ケントは、リーの顔を思い出した。曖昧なCIA分析官。改竄された経歴。母語の匂いの残る英語。海を渡る風。

「制裁を撤回させたい勢力が、海の向こうにいる」

オルテガは続けた。

「彼らは、暗殺なんて古い手は使わない。もっとスマートだ。合法的な手続き――この国の憲法の隙間を使って、意のままの政権を発注する。ヴァンスを脅して駒にし、あなたの会社のような中立の代行業を使って、意思の偽装に正当性を貼りつける」

政権交代が、商品だった。

継承順位という国家の背骨が、外国の情報機関に、静かに買い占められていた。そして退職代行という、人の意思を代わりに処理する仕事は――その最後の仕上げに、うってつけの道具だった。

「深野は」

ケントは訊いた。

「あの男は、何者なんだ」

オルテガは、少し間を置いた。

「日本の、内閣情報調査室。あなたの会社が、この計画に巻き込まれることを、東京は早くから掴んでいた。深野は、あなたを監視するために来たんじゃない。あなたが引き返せなくなる前に、逃がすために来たのよ」

海の向こうを見ろ。本物の敵は、官邸の中にはいない。

深野の走り書きの意味が、今、ようやく繋がった。食えない男が、なぜ本社から寄越されたのか。答えは、監視ではなかった。護衛だった。

「僕に、何ができる」

ケントは立ち上がった。

「証言して」

オルテガは言った。

「三日後、連邦議会でヴァンスの副大統領承認の手続きが始まる。公聴会で、あなたが録音データを公にすれば――この絵は、崩れる」


第九章 公聴会


三日後。議会の公聴会場は、テレビカメラで埋め尽くされていた。

証言台に立ったケントは、水を一口飲み、マイクに向かった。

「私は退職代行『イッシンジョウ ワシントン支店』の、コスギと申します」

ざわめきが起きた。「退職代行」という言葉の場違いさに、記者たちがどよめく。

「私は、大統領の辞任意思が本人の明晰な判断であることを記録するために雇われました。辞表への立会いなど、本来この国の手続きには存在しない、異例の依頼でした。しかし調査の結果、私が立ち会った署名は――大統領の意思を守るためではなく、偽装するために利用されたものでした」

ケントは、鑑定書と、二つの録音を提出した。筆跡の不自然な途切れ。署名の瞬間に混入した、背後に回り込む衣擦れと、押し殺した呻き。初回の明晰な意思表明と、署名時の強要。二つを並べれば、答えは明白だった。

「大統領は、辞めたいと確かに言いました。ですがその署名は、外部の圧力のもとで、手を掴まれて書かされたものです。ゆえに、この辞表は――本人の自由な意思の産物ではありません」

議場が、爆発した。

副大統領ヴァンスは、その場で顔面を蒼白にした。首席補佐官が、無言で退席しようとして、入口のオルテガに阻まれた。

政権交代の絵は、崩れた。

ヴァンスの承認は暗礁に乗り上げ、彼自身は間もなく、司法取引と引き換えに、脅迫の構図を洗いざらい供述することになる。首謀者の一角は、崩れた。

だが。

公聴会の後、廊下でオルテガが、苦い顔でケントに囁いた。

「リーは、昨夜、国外に出た。外交パスポートでね。私たちには、手が出せない」

「捕まえられないのか」

「CIAとうちで、証拠の管轄を争ってる間に、消えたのよ」

オルテガは吐き捨てた。

「制裁撤回の書類は、確かに止まった。でも、あの絵を描いた本体は、無傷。次の駒を、もう探してるでしょうね。ヴァンスの代わりを。あなたの会社の代わりを」

勝った。だが、何も終わっていなかった。

政権は守られた。制裁は残った。けれど、この国の背骨を外から買おうとした手は、傷ひとつ負わずに、闇へ引っ込んだだけだった。次の獲物を選ぶために。

ケントは、灰色の空を見上げた。勝利の実感は、どこにもなかった。ただ、疲労だけが、重く肩に乗っていた。


第十章 一身上の都合


事件から、二週間が過ぎた。

ホイットフィールド大統領は、公聴会での証言を受けて、あらためて――今度は正真正銘、自らの意思で――辞任を表明した。

大統領は、辞めた。だが今度は、誰にも手を掴まれてはいなかった。同じ辞めるでも、これは、まるで逆のことだった。

会見での声には、迷いも震えもなかった。あの日、執務室で聞いた「私は、辞めたい」と、同じ。ようやく、彼の意思は、彼のものに戻った。

ケントのもとに、深野から一度だけ、連絡が来た。

知らない番号。国際電話。

「生きてたか。よくやったな、コスギ」

「あなたがいなければ」

ケントは受話器を握り直した。

「僕は、あの部屋で消えていた。録音ごと」

「仕事だよ、仕事」

深野は、いつもの調子で笑った。

「だがな、一つだけ覚えておけ。今回、お前は絵を一枚壊した。だが連中は、何枚でも絵を描く。政権交代を発注する市場は、まだ、そこにある。――他人の意思を、代わりに処理してくれる便利屋がある限り、な」

回線が、切れた。

ケントは、しばらく受話器を握ったまま、動けなかった。

他人の「辞めたい」を代わりに処理する仕事。円満な出口を用意する、良心的なサービス。それが、いつのまにか、人の意思そのものをすり替える道具に、変えられていた。自分は、その最前線に立っていた。知らずに。

意思は、本人のものだと、誰もが思っている。だが、辞める瞬間だけは違う。人は、辞めるときにいちばん弱くなる。その一瞬の隙に、他人の手が、そっとペンを握り直させる。

彼は、自分の名刺を見つめた。『イッシンジョウ ワシントン支店 コスギ』
そして、机のひきだしを開けた。

深野の残した、もう一枚の名刺がそこにあった。紙コップのマーク。『TO GO』

ケントは、それを手に取った。

トゥ・ゴー。『去れ』という意味。そして――『そろそろ逝く時間だ』という意味。円満に辞めさせる『一身上』の、ちょうど裏返し。人を、その意思ごと、どこかへ連れて行く。

自分は、もう、この仕事を続けられない。人の出口を用意するはずの椅子に座り続ける限り、誰かの意思をすり替える駒に、また選ばれてしまう。そうなる前に、降りる。自分の意思で。誰にも偽装されない、まぎれもない、自分の意思で。

彼は受話器を取り、番号を押した。

呼び出し音。三回。

「はい、お電話ありがとうございます」

低い声が、応じた。

「退職代行を、お願いしたいのですが」

ケントは、静かに言った。

「勤め先は――『イッシンジョウ ワシントン支店』です」

一瞬の、沈黙。

そして受話器の向こうで、訛りのない、やけに達者な日本語が応じた。日本で長くこの仕事をしてきた人間の――どこか草臥くたびれた、それでいて妙に軽い響き。ケントの知らない声だったが、初めて聞く気がしなかった。

「はい、退職代行『TO GO』でございます。――お待ちしておりました、コスギさん」

窓の外、遠く。あの白い建物のドームが、夕陽を受けて、静かに燃えていた。

誰かの意思を、代わりに処理する仕事。

それは今夜も、この街のどこかで、電話を鳴らし続けている。

「了」



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