still. Coffee Break|スポーツは進化していた。さて、こちらは。
今年は、冬季オリンピックから始まり、WBC、サッカーのワールドカップ、VNLと、スポーツの大きな国際大会が続いています。
私は、普段から熱心にスポーツを追いかけているわけではありません。
ワールド戦になると、テレビでもネットでも大きく取り上げられるので、世間の盛り上がりにつられて観る程度です。
でも、たまにしか観ないからこそ、変化がよく見えることがあります。
まず驚くのが、選手の体格です。
以前は、アジアの選手が欧米の選手と並ぶと、どうしても小さく見える印象がありました。
ところが今は、ほとんど見劣りしません。
大谷翔平選手を見たときにも思いましたが、それは野球だけの話ではありませんでした。
競技によって違いはあるものの、身体の大きさも、強さも、スピードも、世界の選手と堂々と渡り合っています。
技術についても同じです。
素人ながら昔は、
「なんとなく世界との差があるなあ」
などと思いながら観ていました。
かなり上から目線ですがw
しかし今では、追いついたというより、競技によっては世界を凌ぐほどの勢いがあります。
選手が大きくなったというより、育成や栄養、トレーニング、競技環境など、選手を支える仕組み全体が変わったのでしょう。
また情報を身近に取り入れる事が可能になったという時代背景もあると思います。
そして、もう一つ面白くなってきたのが、スポーツを見せる技術の進化です。
ドローンによる、選手を追いかけるような迫力のある映像。
選手紹介は、写真と文字だったものが動きのある映像になりました。
試合内容でもサッカーでは、主審の視点から見た映像まで中継されます。
VARや半自動オフサイド判定など、複数のカメラやセンサーを使って判定を支援する仕組みも進化しています。
ゴールラインやコートの境界をめぐる、ほんのわずかな差まで映像で確認できるようになりました。
選手の位置やボールの動き、試合中のデータも、ほぼリアルタイムで画面に表示されます。
会場の設営や競技ごとの入れ替えまで紹介され、競技の裏側も一つのコンテンツになっています。
挙げればきりがありません。
競技そのものだけではなく、
「どうすれば、観る人にもっと伝わるか」
「どうすれば、より正確に判断できるか」
「どうすれば、初めて観る人も楽しめるか」
そのための工夫が、次々と取り入れられています。
たまにしか観ない私でも、十分楽しめました。
スポーツでは、何よりフェアプレーが重視されます。
勝敗を競うからこそ、判定への信頼が必要です。
審判の一つの判断ミスが、選手の人生や大会の結果を左右し、ときには観客同士の衝突にまで発展することがあります。
だから、映像判定やセンサーを使い、少しでも正確に、公平に、誰が見ても分かる形に近づけようとする。
もちろん、技術を使えば、すべての誤審がなくなるわけではありません。
それでも、失敗が起きれば仕組みを見直し、次の大会では改善する。
長い歴史を持つスポーツは、競技の精神を残しながら、周囲の仕組みを更新しています。
すべてを変えるのではなく、守るものは守る。
その一方で、判定方法や映像技術、伝え方は、新しいものを取り入れていく。
伝統を守ることと、古いやり方を守り続けることは、同じではありません。
スポーツを観ながら、そんなことを考えていました。
戦後から80年以上。
情報を届ける手段は、新聞からラジオ、テレビ、インターネット、そしてSNSへと変わりました。
私たちの生活も、仕事も、情報の受け取り方も、ずいぶん変わりました。
ところが数日前、国会中継を観た時、時間が止まったような、いや、昭和時代のままの様な感覚になりました。
何も変わってないな。
本来なら1番、さまざまな対応すべき議論をする場が未だに変わっていない。
もちろん、全てだとは言いません。
時間をかけて追及しなければ見えてこない問題もありますし、意見が対立すること自体が悪いわけではありません。
国会で決められることは、私たちの暮らしに大きな影響を与えます。
税金。
医療。
年金。
教育。
災害対策。
安全保障。
一つの企業で決める案件よりも、影響を受ける人の数ははるかに多く、慎重な議論が必要なのは当然です。
けれど、
重要だから時間をかけることと、
仕組みの悪さや政局によって、何年も決まらないことは同じではありません。
決めない間にも、問題は進んでいきます。
制度からこぼれる人が増え、現場の負担が積み重なり、後から修正する費用も大きくなります。
決めることには責任があります。
けれど、決めないことにも、責任とコストがあるはずです。
同じ質問を何度も繰り返す。
質問に対して、答えになっていない答弁を返す。
言葉尻をとらえて、本来の論点から離れていく。
誰が勝った、誰が失言したという話ばかりが残る。
そんな場面を見ると、失望してしまいます。
スポーツの世界では、わずか一ミリの違いを正確に判断するために、技術も仕組みも更新されています。
一方で、人の生活や国の未来を左右する議論では、肝心の論点がどこにあるのかさえ見えなくなることがあります。
そして、議論だけではなく、意思決定の方法そのものにも驚くことがあります。
木札を持って列に並び、一人ずつ投票する。
賛成する人が起立する。
挙手の数を目で確認する。
長く続いてきた方法には、それなりの理由があるのでしょう。
本人確認。
公開性。
不正を防ぐこと。
一票の重みを、目に見える形で示すこと。
そうした意味があるのかもしれません。
けれど、それは本当に、今も最も正確で、安全で、効率的な方法なのでしょうか。
守るべき伝統なのか。
それとも、検証されないまま残っている手順なのか。
何でもデジタルにすればいいとは思いません。
システム障害や不正アクセス、誤操作への備えも必要です。
けれど、
昔からそうしてきた。
という理由だけで残すのなら、それは伝統ではなく、停止です。
正確性。
所要時間。
記録の残し方。
不正や障害への耐性。
国民への分かりやすさ。
かかる費用。
今の方法と新しい方法を、きちんと比べればいい。
検証した結果、木札や起立が最善なら残せばいい。
けれど、比べることすらせず、変えない理由だけを探すのは違うと思います。
ただ、これは新しい機械を導入すれば解決する、という単純な話でもなさそうです。
スポーツでは、
より正確に判定すること。
競技を円滑に進めること。
観客に分かりやすく伝えること。
少なくとも、その目的はおおむね共有されています。
一方で政治では、全員が早く結論を出すことだけを目的にしているわけではありません。
追及すること。
相手の矛盾を見せること。
支持する人に向けて、自分たちの立場を示すこと。
ときには、決定を遅らせること。
それらも政治の一部なのでしょう。
だから問題は、単に機械や制度が古いことではなく、
議論のあり方を更新する動機が、弱いこと
なのかもしれません。
技術が進んでも、それを使う人間の目的が変わらなければ、仕組みは変わりません。
逆に、変える理由が共有されれば、長い伝統を持つスポーツでさえ、ここまで大胆に更新できます。
変えることは、伝統を壊すことではありません。
守るべき価値を守るために、方法を変えることもあります。
スポーツは、競技の精神を守るために、判定の仕組みを更新してきました。
国の意思決定も、民主主義の精神を守るために、手順を更新してよいのではないでしょうか。
世界のスポーツは、伝統を残しながら進化していました。
私たちの社会も、守るものと変えるものを、そろそろ見分けてもよさそうです。
批判ではありません。
久しぶりにスポーツを観て、その進化の速さに驚いたあと、国会中継を観て失望してしまっただけです。
ただの、落差酔いです。

でも
それじゃぁワクワクする未来は期待出来ないよね。
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