still. quiet rebellion|万博の副産物
万博が終わってから、見え始めたもの
夏といえば昨年の万博を思い出します。
暑い中外に出ることも行列に並ぶことも避けてきて、この歳になってからそれを破るなんて今考えても自分で信じられない。
それほど2025年の夏は、☀️私にとって人生の転換期でした。
大阪・関西万博が閉幕して、もうすぐ一年になります。
けれど、私はまだ、万博で撮った写真すら整理できていません。
その一方で、今年に入ってから、アフター万博と呼ばれる催しに、時々足を運ぶようになりました。
開催中には見ることのできなかったパビリオンの展示。
それぞれの国の伝統工芸や食文化。
日常生活では、ほとんど接点のない国の名前を知り、その国で暮らす人たちの文化に触れる。
万博は終わったはずなのに、私の中では、むしろ閉幕してから見え始めたものがあります。
今日、MBSのドキュメンタリー
「万博と分断〜イスラエルとパレスチナ 声は交わるのか〜」を見ました。
番組が取り上げていたのは、大阪・関西万博の会場にあった、イスラエルとパレスチナのパビリオンです。
二つのパビリオンは、同じ万博会場の中にありながら、遠く離れた場所にありまし
それぞれが、自国の文化や歴史、未来への思いを展示していました。
けれど、その二つの声が交わることは、ほとんどありませんでした。
昨年、私も同じ会場にいました。
それなのに、このような側面があったことを知りませんでした。
大阪・関西万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」でした。
世界中の国や地域が一つの会場に集まり、それぞれの文化や未来を見せていました。
けれど、世界の文化が一つの場所に集まっても、それぞれが背負っている歴史や分断まで、自然に交わるわけではありませんでした。
会場の外では、今も人が殺され、家を奪われ、安心して眠る場所すら失っています。
ニュースでは、停戦合意や空爆、死傷者の数が伝えられます。
けれど、なぜ争いが始まり、何が積み重なって現在に至ったのか。
その背景まで、毎日の短い報道の中で知ることは、なかなかありません。
私は番組を見たあと、イスラエルとパレスチナの歴史を調べました。
そして、改めて気づきました。
遠い国の出来事として見ていた場所にも、私たちと同じ人間が暮らしている。
朝起きて、家族と食事をする。
仕事や学校へ行く。
夜になれば、自分の家で安心して眠る。
大きな理想を望んでいるわけではありません。
ただ、普通に暮らしたい。
それだけの願いすら、許されない場所があります。
その苦しみを、私が本当の意味で理解することはできません。
目の前で大切な人を殺されること。
長く暮らしてきた家を奪われること。
今日眠る場所も、明日生きている保証もないこと。
そして今この瞬間も、輝く未来ではなく失望の現実を生きている人たちがいる。
日本で日常生活を送っている私に、その恐怖や怒り、喪失を分かったように語ることはできません。
理解はできなくても、知ることはできます。
遠い国のニュースとして処理せず、そこに暮らす一人ひとりの生活を想像することはできます。
番組の終盤、ひとりのパレスチナ人と、ひとりのイスラエル人が向き合いました。
二人は最初、それぞれの側にある正しさを主張していました。
自分たちが何を奪われたのか。
何を恐れているのか。
なぜ怒っているのか。
どちらにも、それぞれの歴史と理由があります。
もちろん、双方の武力や権力、責任まで同じだということではありません。
力に差があるとき、強い側の判断は「正しいこと」として押し通されやすくなります。
弱い側の声は、最初から存在しなかったかのように扱われることがあります。
それでも最後に残ったのは、どちらの正義が勝つのかという話ではありませんでした。
ただ普通に暮らせる「平和」という日常を取り戻すために、何が必要なのか。
そのためには、
ただ、対話を続けるしかない。
私は、そう受け取りました。
一度話したからといって、長い歴史の中で生まれた分断が消えるわけではありません。
互いを理解できるとも限りません。
それでも、対話をやめた瞬間に残るのは、武力や権力を持つ側が押し通した結論です。
表面上は静かになったように見えても、理不尽は消えません。
声を奪われた側に、怒りや絶望として残ります。
そしてそれが、次の分断や争いの火種になります。
これは、戦争だけの話ではないのだと思います。
もちろん、戦争と日常の問題を同じものとして扱うことはできません。
失われる命も、被害の規模もまったく違います。
けれど、火種はそこらかしこにある。
その手前にある人間の行為には、身近な場所でも見覚えがあります。
自分は間違っていない。
自分には、そうする理由がある。
悪いのは相手だ。
自分が譲れば、さらに不利になる。
それぞれが自分の正しさだけを握りしめ、相手の声を聞かなくなる。
立場の強い人が、力で結論を押し通す。
都合の悪い声を、聞かなかったことにする。
話し合った形だけをつくり、結論は最初から決まっている。
こうした小さな分断は、家庭でも、職場でも、地域でも起こります。
だから、遠い国で起きている出来事を知ることは、理解したつもりになるためではありません。
自分の足元にある問題に、目を向けるためです。
相手のことを考える。
自分と相手の立場を置き換えてみる。
自分が同じ扱いを受けたら、どう感じるのか。
自分の家族や大切な人が、同じ立場に置かれたらどうなのか。
共通のルールを守る。
けれど、ルールがあるから正しいと決めつけない。
そのルールは誰を守っているのか。
一方にだけ我慢を押しつけていないか。
力を持つ人に都合よく使われていないか。
理不尽が残るなら、ルールの方を考え直す。
そして、失敗したら検証する。
誰が悪かったかだけで終わらせず、なぜ起きたのかを考え、次の行動を変える。
平和を願うだけでは、何も変わらないのかもしれません。
平和を願う自分に満足するだけでは、何も生まれません。
必要なのは、目の前にある小さな分断を見つけ、相手を人間として扱い、面倒でも対話を続けることです。
平和を願うことから、
平和を壊す構造を減らすことへ。
大きなことはできなくても、自分のいる場所で、誰かの声や日常を力で奪わないことはできます。
万博が終わってから、私はようやく、開催中には見えていなかった万博を見始めました。
あの場所で受け取ったものは、楽しかった記憶だけではありません。
遠い国の出来事を、自分の足元へ持ち帰って考えること。
それもまた、万博が残した副産物なのだと思います。

事実関係として、万博は2025年4月13日から10月13日まで開催され、公式テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」でした。
MBSの番組紹介でも、離れた二つのパビリオンと、会期終盤に生まれたイスラエル人・パレスチナ人の対話が中心に置かれています。

