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♯43 南海の鎮(しずめ)を担う・和歌山城

 豊臣兄弟ゆかりの城として脚光浴び始めている和歌山城。浅野家が築いた黒板張りの天守閣を寛政年間に白壁に改修。その天守が落雷で焼失するも,南海の鎮(しずめ)たる紀州徳川家の意地だろうか,幕末に至ってなんとか再建。和歌山大空襲で再び焼失するまで国宝として存在感を放っていた。昭和33年に天守郭が空襲前の外観で復元され,フォトジェニックな城として,訪れる人を魅了している。(和歌山県和歌山市)


なにかとフォトジェニックな和歌山城

 南海の鎮たる和歌山城は,どこから眺めても絵になるわけだが,御橋廊下が復元されたことで,自分の中では御橋廊下越しのショットがベストかなと思える。そのライトアップされた姿が,また美しい。これぞ,フォトジェニック。

御橋廊下越しに天守曲輪を見る(2026.1.22)
ライトアップされた御橋廊下と天守閣(2026.1.23)
朝焼けの天守郭(2026.3.21)

 市役所の展望スペースからは,大小の天守と櫓が連なる天守郭を間近に見ることができる,ビュースポットとして,なかなかの場所だ。和歌山城ホールから望むのもよいらしいが,城が間近に迫る感じは市役所の方に軍配が上がるだろう。

市役所ロビーからみる天守曲輪

 石垣越しに見る天守郭の姿も良いし,築城当初は,こちらが大手だったという岡口門越しに見える大天守閣の姿も良い。結局,どこから見ても美しいので,自分なりのビュースポットを見つけてみるのが楽しいだろう。

石垣越しの天守閣(2026.1.22)
岡口門越しの天守閣(2003.8.21)

和歌山城の築城と紀州の青石

 天正13年(1585)に紀州を平定した羽柴秀吉が弟の秀長に築城させたのが和歌山城の始まりだという。織田信長をも苦しめた根来寺や雑賀衆などの厄介な勢力から大坂城を守るのが使命だった。ただし,秀長自身がここに居城したわけではなく,桑山重晴が城代を務めていた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後には,浅野幸長が入城。城には改修が加えられ,黒板張りの天守閣も築造された。
 和歌山城には,羽柴秀長,浅野幸長,長晟と続いた豊臣系の城主の時代に築かれた石垣が多く残っている。その特徴は,紀州特産の青石(緑泥片岩)が使われていることである。押しつぶされたような扁平な形をした青緑色の石で築かれた石垣は,和歌山城や紀伊水道を挟んで対岸にある徳島城にも見られるものである。

羽柴・桑山期に山裾に築かれた鶴の渓辺りの野面積み(2026.1.22)

 石垣の隅が直角ではなく,鈍角になっているのも古い時代の石積みの特徴だ。もともとの岩盤に合わせて積んだ結果こうした形になったと考えられるようだ。

鈍角になっている石垣の隅部(2026.1.22)

 大天守閣の石落としの下辺りには,周囲の石とは明らかに形状や色味の違う石が積まれており(写真中赤丸内),NHK『絶対いきたくなる!ニッポン不滅の名城:和歌山城』では,これは墓石であり,いわゆる転用石だとしている。工事を急いだのか,呪いなのか。

大天守下石垣の転用石(2026.1.24)

 城を大規模改修した浅野時代になると,新たな石切場が開発されて,石材が砂岩へと移行し,徳川時代になると花崗斑岩も用いられるようになった。様々な時代の石垣を見ることができるのが,和歌山城を巡る楽しみだ。

砂岩が用いられた一中門の打ち込みハギ(2026.1.22)
同じ一中門だが花崗斑岩を加工した切り込みハギ(2026.1.22)

「和歌山城の石垣」
 和歌山城の石垣は、時代によって石材や積み方の技法が違います。和歌山城は天正13(1585)年に羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きますが、豊臣秀長家が断絶した後、大名化した桑山氏が和歌山城を増築します。もっとも、その範囲は虎伏山の山嶺部分と岡口方面ぐらいであったと思われます。この時代は、岡公園や和歌浦等で採れる緑色片岩(紀州青石)を中心とした結晶片岩を用い、加工せず自然石のまま積む「野面積み」の石垣です。
 慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が城主となり城の大規模な改修を行ないました。砂の丸、南の丸、二の丸西側四分の一ほどを除き、和歌山城内郭は浅野時代に基本的に整備されたと考えてよいでしょう。友ヶ島等に石切場を開発し、石材は結晶片岩から砂岩(和泉砂岩)へと移行します。技法は、石を加工し「接ぎ」合わせて積む「打込みハギ」となりました。この時代の特徴は、刻印のある石材が多く見られることです。
 元和5(1619)年徳川頼宣が入国し、和歌山城をさらに増築・拡張します。徳川期も当初は砂岩を用いた「打込みハギ」の石垣ですが、その後、精密に加工して積んだ「切込みハギ」の石垣となり、熊野の花崗斑岩も用いるようになりました。

現地説明(2026.1.22)

和歌山城築城のバックヤード・岡山

 和歌山城の初期の石垣石となった紀州の青石が調達された場所が意外なほど近かった。和歌山城主郭の南側にある岡公園のあたりには,緑泥片岩の岩山があり,弁財天山と呼ばれる標高24mほどの独立した小丘陵となっている。ここが,和歌山城の石垣石を切り出した石切丁場だったのだ。岡公園の岩山の風景は,なかなかのもので,和歌山城を見に来たのなら,ぜひ,道路を一本越えて,見ておきたい場所である。

岡公園の巨岩越しに見る天守閣(2026.1.24)
御作事所跡付近(2026.1.24)
矢穴が残る岩(2026.1.24)

和歌山城石垣石材の石切丁場跡
 岡公園は、かつて和歌山城の石垣に使う石材を切り出す石切丁場であったことが知られています。現在でも付近では、石を割るために開けられた矢穴を見ることができます。
 石質は結晶片岩(主に緑泥片岩)で、「紀州の青石」と呼ばれています。ここで切り出された石材は、天守台や本丸周辺の石垣などに用いられたと考えられます。
 岡公園北西の位置には、紀州藩の建築・修理などに携わった御作事所も置かれており、岡公園はかって和歌山城の築城・修理などに密接に関わるバックヤードのような場所だったのです。

天守郭と本丸

 和歌山城は,浅野時代に基本となる形が出来上がったと言われる。縄張りで特徴的なのが本丸とは別に,天守郭を持つところである。多くの城は,天守閣を本丸のどこかに築いているが,和歌山城では,本丸とは別に設けた天守郭に天守閣を築いている。古絵図を見てもわかるように山上に大きく2つの郭が設けられ,本丸には御殿が建ち,天守郭には大天守,小天守,その他の櫓や門などが連立し,和歌山城の姿を優美なものにしている。

本丸跡から天守郭を望む(2026.1.24)

 元和5年(1619)に徳川家康の10男・徳川頼宣が55万5000石で入城したことで,和歌山城は,徳川御三家仕様でその姿をバージョンアップさせていく。天守閣は長らく浅野時代の黒板張りのままだったが,江戸後期の寛政10年(1798)に10代藩主・徳川治宝(とくがわ はるとみ)によって白漆喰の白亜の天守閣になる。しかし,この天守が弘化3年(1846)に落雷で焼失,通常再建は許されないパターンだが,治宝は粘ったらしく,幕末の嘉永3年(1850)年に再建され,それが昭和の和歌山大空襲まで現存していたという。天守閣からは和歌山市街が見渡せ,遠くに紀ノ川の河口までが見える。

大天守と多聞櫓,二之御門(楠門)(2026.1.24)
大天守と小天守(2026.1.24)
二之御門櫓,多聞櫓,乾櫓越しに紀の川を望む(2026.1.24)

 小天守に続く御台所と呼ばれる櫓の下には,水の手へと通じる門として埋門が造られており,いざ籠城となれば,黄金水と名付けられた井戸から水を汲むことができたらしい。

埋門(2026.1.24)
埋門を城外から望む(2026.1.22)

天守閣と天守郭
 天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのが、虎伏山の山頂部分です。秀長は家老の桑山重晴を城代として置き、ここに天守を建てました。天守閣の一段下の北西にあった蔵が、その時の天守だとの説があります。慶長5(1600)年、関ヶ原のいの後に城主となった浅野幸長は、高さ約49mある西方のこの峰を「本丸」とし、黒板張りですが、ほぼ現在の形に返い天守閣を建てました。
 元和 5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、「天守郭」と呼ぶようになります。天守閣は大天守から時計回りに多門、天守ニ之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。三階建ての大天守は不定形な地盤に制約され、一階の東側と西側が二棟を結合した珍しい比翼入母屋造りとなっています。
 寛政10(1798)年に黒板張から白壁となりますが、弘化3(1846)年の落雷で焼失しました。天守再建は通常は許可されませんでしたが、御三家ということで認められ嘉永3(1850)年にほほ元のまま再建されます。ただし、楠門へ入る階段の位置が異なるなど、一部違いがありました。天守閣は昭和10(1935)年に国宝に指定されますが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。しかし昭和33年、市民の努力で復されたのです。

 本丸があった場所は,和歌山城の最初の築城部分であったという。現在,本丸跡には給水場か何かの施設があるらしく,立ち入れない。廃藩に伴って解体されるまでは立派な御殿があったという空間を実感することができない。本丸御殿の中庭にあった石組み・七福の庭が松の丸跡に再現されている。

天守閣から本丸跡を望む(2026.1.24)
再現された七福の庭(2026.1.24)

本丸御殿跡
 和歌山城のある虎伏山はラクダの背のように東西に峰があります。天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長が先ず築城したのは、この山頂部分でした。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修築を行ないます。山頂部分では、西の高い峰に現在の形に近い黒板張りの天守閣を新たに築いて本丸とし、東の低い峰に御殿を建てて二の丸としました。東のこの部分は東西29間(約57m)、南北27間(約53m)で、不等辺五角形の形をしています。
 元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、山頂全体が本丸となり、東の峰は本丸御殿と呼ばれます。しかし、地形的に不便で手狭なため、ときたま謁見の場として利用するぐらいで、ほとんど空屋敷となりました。ただし、正月行事である三日の謡初は、本丸御殿で開いています。また、幕末に短期間でしたが、参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると、本丸御殿を一時使用しています。
 明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。本丸御殿の中庭は七福の庭と呼ばれ、七福神を表現した石組がありましたが、給水場が設置されることになり、大正12(1923)年に工事が始まると、現在地の松の丸へ移されました。

現地説明(2026.1.24)

天守閣へ至る道・裏坂

 和歌山城の天守郭・本丸への登城口は,現在は,表坂,裏坂,新裏坂の三ヶ所ある。城の正面入り口と言えば,大手門だ。明治42(1909)年5月に倒壊してしまった大手門が昭和57(1982)年3月に再建され,翌年3月には一の橋が架けかえられ往時の姿を取り戻している。

一の橋(2026.1.22)
現地説明板中の古写真(2026.1.22

 大手門から城内へ歩を進めると,右手には樹齢400年以上という大きなクスノキが見え,やがて切り込みハギの石積みが見事な一中門跡に至る。

クスノキ(2026.1.22)
一中門跡(2026.1.22)

 一中門からさらに進むと,虎伏山(とらふすやま)に突き当たる。和歌山城は,もともと,この虎伏山の上に築かれた城だ。山裾に昭和34(1959)年に造られたコンクリート製の伏虎像が置かれている。もとは,大正10(1922)年に銅像で造られていたようだが,例に漏れず昭和17年に金属供出で失われたらしい。

伏虎像(2026.1.22)
台所門跡(2026.1.22)

 伏虎像から右手へ,虎伏山の山裾沿いに進むと台所門の跡があり,そこから天守へと至る坂道が裏坂である。けっこうな急勾配で九十九折りの坂道になっている。途中,銀明水と名付けられた井戸を見ることができる。城内には,40ヵ所以上の井戸があったらしい。ちょっと薄暗い感じや苔むした石垣が,古城の雰囲気を伝えるルートだ。

裏坂(2026.1.24)
銀明水井戸(20206.1.24)

天守閣へ至る道・表坂

 裏坂に対するのが表坂だが,こちらのルートは,築城時には大手門だったという岡口門からスタートする。江戸時代初期の建築物ということで,もとは,両脇にも櫓が続いていたらしい。この門の北側に残る土塀と共に昭和32(1957)年に重要文化財に指定されている。

岡口門(2026.1.24)
岡口門北側の土塀(2003.8.21)

 岡口門を入り,南の丸に進むと,本丸下に設けられた松の丸の高石垣が見え,岡中門へと進もうとする者を威圧する。岡中門跡からは,こちらも九十九折りの坂道を登って,本丸下の松の丸に至り,そこから天守郭へと向かうことになる。

松の丸の高石垣(2026.1.24)
高石垣から岡中門跡枡形,岡口門を見る(2026.1.24)
表坂(2003.8.21)

西の丸庭園と復元された御橋廊下

 西の丸御殿から御橋廊下を渡って行く西の丸紅葉渓庭園は,徳川頼宣の時代に築庭された池泉回遊式の大名庭園だ。池端の釣殿風の小亭,鳶魚閣が優雅な庭園の雰囲気を今に伝えている。

茅門(2026.1.24)
鳶魚閣(2026.1.)

 御橋廊下は,藩主とお付の人だけが行き来するために架けられた橋で,部屋の廊下のような作りになっている。滑らないようにするためか,床板がギザギザしている。江戸時代の図面や発掘調査の成果などを元に,平成18年(2006)3月に復元された。

西の丸と紅葉渓庭園をつなぐ御橋廊下()
御橋廊下の内部()

名勝西ノ丸庭園沿革
 この庭園は,紀州徳川藩祖頼宣公が西之丸御殿に築造したもので昔から紅葉渓の名で親しまれてきた。浅野時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の山陵地形を巧みに利用した起伏の変化に富んだ庭で,南西の高台地には,雄健な三つの滝とその落水を導く渓流,美しい出島と巨大な舟石が浮かぶ池,柳島のある堀池からなり,急峻な斜面や護岸には緑色や紫色などの紀州の名石で,豪快な石組みが施されている。
紅葉渓橋,土橋,石橋をかけ鳶魚閣,腰掛,茅門の建物が要所にそなわり古い樹林が興趣を添えその破墨山水的景観は,江戸時代初期に作庭された名園である。なお,茅門南の鶴之渓は浅野氏により造られた城壁に囲まれ,当時「鶴之餌鉢」を置き,鶴が飼育されていた由緒あるところである。

現地説明(2026.1.24)

城中で鶴を飼う

 西ノ丸庭園の沿革に記された鶴之渓は,浅野時代に築かれた山裾の石垣と西ノ丸庭園との間の空間を指すようだ。昔は池もあったらしく,どうも,このあたりで鶴が飼育されていたらしい。ちょっとした動物園空間だったのか。城中に鶴というのは,あまり聞いたことがなく,いったい何羽くらいが,どんなふうに飼育されていものか,興味深い。

鶴の渓(2026.1.24)
現地説明板より紀伊国名所図会に描かれた鶴の渓(2026.1.24)

鶴の渓
鶴の渓は砂の丸から二の丸へと通ずる道です。天守閣がたつ虎伏山と吹上砂丘の間に位置し、くぼんだ地形になっています。慶長5(1600)年関ヶ原の戦い後、城主となった浅野家がここで鶴を飼っていて、この名前がつきました。「紀伊国名所図会」を見ると、右下に鶴を飼うのに適した池や「餌入」が描かれています。これは現在天守閣で展示されているものでしょう。「御大典記念和歌山公園設計」(大正4年)では「鶴の谷の池を埋め立つべし」とあり、池はこの後で埋められたようです。
鶴の渓の石垣は結晶片岩を自然石のまま積んだ野面積みで、緩やかな勾配をえがいています。浅野家以前の城主であった桑山家の普請だと考えられます。石垣の上には山吹が植えられていました。現在も4月から5月にかけて黄色の花が咲き、静かな渓の風情に彩りをそえています。「紀伊国名所図会」では周辺に松、西の丸(紅葉渓)庭園の土塀にそって檜椿も描かれています。檜椿は「幹も枝葉も檜葉に似たる」と名所図会で紹介され、紅や白の花が咲きました。
鶴の渓は「紀伊国名所図会」で唯一内郭の中の様子が描かれており、渓の風景のほか、奥には切手側門や切手御門続上御櫓が見えます。「切手」とは通行証のことです。商人などはこの門で通行証を見せ、生活の場である二の丸に出入りしたので、この名前がついたのでしょう。

現地説明(2026.1.24)

砂の丸って…

 城の西側には,旧藩時代の数少ない遺構の一つ,追廻門がある。裏鬼門にあたり魔除けのために赤く塗られている。この追廻門から勘定御門に至る虎伏山の西側一帯を「砂の丸」と呼ぶ。徳川頼宣の紀州入国後に拡張した郭なのだが,「砂」の丸というその名称が気になる。砂の丸の南部には松林が広がっていたという。

旧藩時代の遺構・追廻門(2026.1.24)

 虎伏山の南,南の丸も砂の丸と同時期に造られている。どうも,徳川頼宣入国時は,城の南側は砂丘になっていて,この砂丘を掘り割って三年坂を造り,その北側に堀と石垣を築いて南の丸設けたようだ。つまり,今では想像できないが,南の丸や砂の丸の辺りには砂丘があり,それを分断するなどして城を拡張したということなのだろう。

不明門跡から見る天守閣(2024.1.24)
不明門前の三年坂(2026.1.24)

 和歌山城のある虎伏山の南に砂丘が伸びていたことの証が,和歌山大学附属小・中学校付近に残っている。県指定の天然記念物となっている,根上り松だ。根元が露呈した特異な姿を示している。虎伏山から現在の堀止付近まで及ぶ岡山は古い和歌山湾の海浜に添って形成された何本かの砂丘のひとつで,クロマツ林が自生していたらしい。砂丘の風景は,和歌山城や城下町の建設によって多くが失なわれたのだが,その頃の名残ということだ。現在の街の様子を見てもよく分からないが,和歌山城は,砂丘が伸びる海岸線近くに築かれ,南海に睨みを効かせていたのだ。

岡山の根上り松(2024.1.31)
砂丘の名残だろうか(2026.3.22)
和歌山大学附属中学校のグランドから見る天守閣(2024.1.31)

戊辰戦争と紀州藩,会津藩との縁

 8代将軍・徳川吉宗,そして14代将軍・徳川家茂を輩出した紀州藩は,どのように明治を迎えたのか。
 紀州藩は,第2次長州征伐に先鋒隊として従軍するも,将軍・徳川家茂の死によって帰藩する。鳥羽・伏見の戦いに参戦することはなかったようだが,戦いに敗れた旧幕府軍兵が,徳川御三家である紀州藩を目指して大坂から落ち延びてきた。紀州藩では逃げてきた人々を手厚く保護し,多くの船を動員して江戸へ送り届けたらしい。そのために藩主・徳川茂承(もちつぐ)は明治政府の怒りを買い,15万両という莫大な献金を命じられるなど難題を突きつけられるが,政府の役人となっていた陸奥宗光の働きで,なんとか切り抜けたようである。こうした幕末から明治の紀州藩の動きには,将軍を輩出した徳川御三家の矜持のようなものを感じる。
 紀州藩によって保護された会津藩の山川大蔵(浩)は,宿所での手厚い看護によって体力を回復して会津へと戻り,日光口で戦い,会津若松城での籠城戦の指揮をとった。その後,明治陸軍においても,賊軍として差別された会津人ながらも少将に昇進するなど活躍した。山川は,紀州で受けた恩を忘れることなく交流を続けたようで,そうしたエピソードが,和歌山県御坊市の市長メッセージに記されている。

 紀州藩は,残念ながら南海の鎮めとして,討幕を目指す西南諸藩の進撃を食い止めることはできなかった。しかし,鳥羽・伏見の戦いに敗れて落ち延びてきた会津藩兵を手厚く保護したというエピソードには,心が温まる思いがする。

和歌山城天守郭(2026.3.21)

<関連情報・御三家の城>

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