「マーケット感覚」がない人ほど、戦略の本質を間違える
「戦略を立てよう」と言われた瞬間、ホワイトボードに3C、4P、STPを書き始める人がいます。
枠を埋め、矢印を引き、図がきれいに完成する。一見、戦略らしい戦略が出来上がります。
ところが、その図を見ても、顧客の顔は1人も浮かんでこない。
「誰が、何のために、いくら払うのか」が、なぜか抜け落ちている。
なぜこんなことが起きるのでしょうか。原因は能力でも経験でもありません。「マーケット感覚」という土台が欠けたまま、戦略の作法だけを覚えてしまったからです。

フレームワーク戦略が、なぜ顧客から離れていくのか
ちきりんは『マーケット感覚を身につけよう』のなかで、興味深い指摘をしています。
ANAの競合は、JALやLCCだけではない。テレビ会議システムも競合になりうる。なぜなら顧客は「移動」ではなく「相手と話す」という価値を買っているからです。
ところが論理的に競合分析をすると、同業他社のリストばかりが並びます。顧客が実際に何を比較し、何にお金を払っているかが見えなくなる。これは分析力の問題ではなく、「市場で何が価値になっているか」を肌で感じる力が欠けているから起きる現象です。
ちきりんはこの力を「マーケット感覚」と呼びました。価値を認識する能力。論理思考と対になる、もう一つのアプローチです。
論理思考は分解と整理が得意ですが、目の前にある「価値」そのものに気づく力ではありません。値札が貼られた瞬間に「これは1,000円の価値がある」と判断はできても、まだ値札が貼られていないものの価値には気づけない。フレームワークの枠を埋めるほど、現場から離れていく構造があるのです。
知見1: 戦略の「常識」の多くは、エビデンスで否定されている
芹澤連の『戦略ごっこ』が衝撃的なのは、マーケティングの常識とされてきたフレームワークの大半が、市場データで裏付けられていないと指摘している点です。
たとえばSTP(セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニング)。「特定セグメントに深く刺さるブランドが成長する」と信じられてきました。しかしデータが示すのは逆で、ブランドが成長するときは、特定セグメントではなく、あらゆるセグメントから新規顧客を獲得しています。
「上位20%のヘビーユーザーが売上の80%を生む」というパレートの法則も、実データで見ると上位20%の貢献は50〜60%程度。「新規獲得は維持の5倍コストがかかる」も、明確な裏付けはありません。
決定的なのは、ダブルジョパディの法則です。シェアの小さいブランドは、顧客数が少ないうえに、その少ない顧客のロイヤルティもやや低い。
つまりロイヤルティはシェアの結果であって、原因ではない。ロイヤルティだけを高めようとしても、顧客数は増えないということです。
ここで重要なのは、フレームワークが間違っているという話ではありません。フレームワークを「正しい手順」だと信じて使うと、市場の現実と矛盾する戦略が出来上がってしまうということです。
マーケット感覚があれば、「うちのファンは熱量が高いから大丈夫」というロイヤル顧客信仰の違和感に、データを見なくても気づけます。感覚がなければ、エビデンスを並べられても受け入れられない。これがゼンメルワイス反射と呼ばれる現象です。
知見2: 顧客は「製品」ではなく「価値」を買っている
では、顧客は実際に何を見て買っているのでしょうか。
西口一希は『顧客起点の経営』で、価値は2つの要素で決まると整理しています。便益(顧客が買う理由)と独自性(他を買わない理由)。この2つが揃って初めて「価値」になる。
ここで多くの企業がつまずきます。「うちの製品は高機能だ」「他社にはない技術がある」と言う。しかしそれは供給側の論理です。顧客から見て便益として認識されていなければ、価値として存在していないのと同じなのです。
西口は、経営判断を狂わせる原因として「顧客の心理・多様性・変化」が見えなくなることを挙げています。組織が大きくなるほど、数字の向こうにいる一人の顧客が見えなくなる。施策が成功しても失敗しても、なぜそうなったかが特定できなくなる。
これに対する処方箋が、N1分析です。たった1人の顧客に深くインタビューし、その行動の裏にある心理を掘り下げる。サンプルサイズではなく、深さに価値を置く手法です。
なぜ1人なのか。マーケット感覚は、統計値を眺めても育たないからです。具体的な人間の、具体的な購買シーンを想像できる力。これが戦略の起点になる。フレームワークを埋める前に、顧客の利用場面を1つでも生々しく描けるかどうか。ここが分かれ目になります。
実践への橋渡し: マーケット感覚は鍛えられる
マーケット感覚は才能ではありません。ちきりんは、後天的に鍛えられると明言しています。

実務で取り入れやすいのは、次の3つです。
1つ目は、脳内プライシング。日常の買い物で、値札を見る前に「自分にとっていくらの価値か」を考える。相場ではなく、自分の価値基準で値付けする習慣です。コスト計算は供給者の発想であり、マーケット感覚は需要者の発想だからです。
2つ目は、N1で顧客を語る。会議で「ユーザーは」「顧客層は」と複数形で語るのをやめ、特定の1人の話に置き換える。あの店長は、あの主婦は、あの担当者は。具体の解像度が、戦略の精度を決めます。
3つ目は、競合をフレームワークの外から探す。同業他社ではなく、「顧客の予算と時間が他に何に流れているか」で競合を捉え直す。スマホゲームの競合は別のゲームではなく、Netflixや睡眠かもしれない。マーケット感覚は、この問いの立て直しから生まれます。
フレームワークを捨てる必要はありません。ちきりんが言うように、論理思考とマーケット感覚は両輪です。ただし順番は逆です。先に顧客と市場の現実を肌で感じ、その後でフレームワークに整理する。この順番だけで、戦略は変わります。
おわりに
戦略の本質は、フレームワークの精緻さではなく、市場で起きていることに気づける感覚にあります。
枠が埋まると安心してしまう。きれいな図ができると、考えた気になる。しかし顧客はその図を見て買うわけではありません。価値を感じるかどうか、ただそれだけです。
エビデンスは、私たちが信じてきた「常識」の多くが幻だったと教えてくれます。N1分析は、数字の向こうにいる一人を取り戻す方法を示してくれます。マーケット感覚は、この両方をつなぐ土台です。
まずは今日の買い物から、値札を見る前に値付けしてみる。小さな習慣の積み重ねが、戦略を見る目を変えていきます。
この記事で参考にした本
『マーケット感覚を身につけよう』ちきりん
論理思考だけでは見えない「価値を認識する力」をどう鍛えるか。プライシング能力など5つの方法を提示。
『戦略ごっこ』芹澤連
STP、パレート、ロイヤルティ戦略など、マーケティングの常識をエビデンスで検証。ダブルジョパディの法則が示す成長の原理。
『顧客起点の経営』西口一希
便益と独自性、N1分析、5セグズなど、顧客起点で戦略を再構築するためのフレームワーク。
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