表現は、どこまでも続く|創作大賞感想
花邑 灯火さんの作品を読んだ。
実は、ファンタジー小説を読むのが久しぶりだ。
大丈夫かなと思っていたら、あらすじのこの文言に興味を持った。
共通言語が「絵を描く力」に変わった世界。言語化能力への評価は地に落ちた。
一体どういうことだろう。言語化能力がもてはやされている現代とは、違う世界の話のようだ。気づけば、第1話だけでなく全話読み通してしまった。
主人公は、言語化が大好きで絵を描くのが苦手なトモ。絵が苦手なせいで、周りから見下されている。何せ、絵を描く力が共通言語なのだから、言語化がいくら得意でも認めてもらえない。言語で気持ちを表現できるのに、表現方法が絵に限られている世界のせいで、トモは劣等生のレッテルを貼られてしまう。
そんなトモが、藝述部に入部して理解のある仲間たちに出会い、表現のあり方に一石を投じようとする。しかし、騒ぎが大きくなり予想もつかない顛末を迎える…というのが、本作の大雑把なあらすじだ。
言語でコミュニケーションをとっていた時代もあるのに、それが衰退して「絵を描く力」が幅を効かせる時代になったと言う設定が、とても面白いと感じた。本作では、AIが衰退して、日本語以外を話すクラスメイトもいる中で、意思疎通の手段として絵が重宝されている。それが、今私たちが生きている世界と逆転しているよう思えた。と同時に、本作の「絵を描く力」へ表現が偏った世界にひっかかりを感じた。
もしかしたら、今私たちが生きている世界でも、言語化の苦手な人たちは、本作のトモと同じような気持ちを抱えて生きているかもしれない。言語も絵も、どちらも表現であることに変わりはない。どちらか一方に偏重される世界は、アンフェアなのかもしれない。絵で表現できることと、言語で表現出来ること。どちらにも限界があるから、お互いを補う関係が本当は望ましいのではないだろうか。
本作でトモたちが行おうとしているのは、絵画が優位になっている世界への反抗とも言える。弱者が声を上げ、社会の仕組みに一石を投じたことで、大きなうねりを生み出していく。
本作を読んで、表現の優劣について考えさせられた。おそらく、どの表現にも優劣は無いと思う。ただ、どの表現でも限界はある。たとえば言葉で説明できないことは、絵で説明できるかもしれない。絵で説明できないことは、言葉で説明出来るかもしれない。それぞれの表現で不可能なことを、他の方法で補えばいいのではないだろうか。
最終話の最後、トモの台詞に、作者の思いが凝縮されていた。
私も『絵にも描けないぐらい』の感動に出会ったら、トモと同じ行動をとる。
自分だけの言葉で、もがきながらでも表現したい。
自分だけの言葉で、描くように、綴るように伝えたい。
表現を探す道は、まだこれからも続く。
「伝えたい」気持ちがある限り、探すのはやめられない。
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