まだ、似合う色がある
88歳の母にピンクが戻った日
たったひとつのファンデーションが、母の心に春を連れてきた
母の顔に、ひとさじの春
そんな日が、少しずつ訪れるなんて、この時はまだ想像もしていなかった。
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コロナ禍で、母は鏡の前で化粧をしなくなった。
「どうせ、マスクするからいいかと思って」
私も、つい同じ穴のなんとかだと思うのだが。
この頃、高齢者は特に行動を制限され、母も健康やボケ防止のために続けていたフラダンスをやめてしまった。
社交的で面倒見の良い母のもとには、いつも人が集まっていた。
けれど、思慮深い高齢者は遠慮して、寄り合うのを控えるようになった。
常に笑い声や談笑に包まれていたお茶の間も、昼間はひとり。
人の声は鳴り止み、聞こえの悪い母に合わせたテレビの音だけが響く。
いつも予定でいっぱいだったカレンダーは、病院の予約日だけになった。
それでも母は、変わらぬ調子で静かな日々を受け止めていた。畳のぬくもりの中でひっそりと。
コロナ規制が5類になり、お仲間や親戚が母の元へ戻ってきても、化粧はしないまま。
持病のため、外出時は今でもマスクが手放せない。
「誰に見せるわけでもないし、すぐにお迎えがくる身だし、いいんだよ、楽だしね」
そう言って、淡々と日常を過ごしていた。
「マスクしていても紫外線は肌に届くらしいよ。いくら歳でもスッピンで外に出るのは良くないよ」と私が言っても、どこ吹く風。
少し笑って聞こえないふりをする。
補聴器してるのに、笑笑。
楽しみにしていた連続ドラマも、「今度のシリーズは若向きで理解できなくなった」と観るのをやめ、
朝のニュースだけが日課になった。
ガラス越しに入る淡い光が、少しやつれた母の顔を映し出す。
ここ何年か、意欲的だった母はすっかり後ろ向きになっていた。
親姉妹をはじめ、2日前に「元気でね」と言葉を交わした同世代の、突然の訃報――
年齢とともに増える、別れの記憶。
母は言い知れない寂しさを抱えていた。
その分、ひとりの時間も増え、大好きな花々の世話に時間を費やすようになった。
庭いじりに夢中になりすぎて眩暈を起こし、二人の弟に抱えられて病院へ。
診察後、ドクターは穏やかに言った。
「大丈夫。命にかかわるものではありませんよ」
ほっとしたものの、不安は残る。
母はますます家にこもるようになった。
朝、淹れたてのお茶と炊き立てのご飯を供えながら、母は仏前の父にこう話す。
「お父さん、今日もお迎えに来てくれなかったのね」
言葉とは裏腹に、どことなく伝わってくる安堵感。
そう感じたのは、私の勘違いだろうか。
ろうそくの炎がゆらりと揺れ、香炉の煙がふんわり立ち上る。
般若心経を唱える声が、無機質になった静かな部屋にどこからともなく溶けていった。
そんな日々を重ねるうち、母の背中は小さく、そして丸くなっていった。
肩の力を抜いても、どこか寂しげなその後ろ姿には、過ぎていった時間の重さが滲む。
その背中を見るたび、胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。
それを悟られないよう、わざと大きな声で「おはよう」と挨拶する。
「固いものは食べられなくなってね、情けないよ、まったく」と笑いながらも、
好きな沢庵も我慢してお茶をすする横顔。
湯気と茶葉の香りが、きちんと片付けられた居間にふんわり漂う。
前のような、はつらつな母にどうしたら戻る?
私は毎朝、父の遺影に向かい、お願いする。
「母をまだまだここにいさせてください」と。
空の上で父は、どちらの願いを聞くべきか迷っていることだろう。
私は母の小さな笑顔を、毎日探していた。
そんなある日、母がぽつりと言う。
「最近、鏡を見たら顔中すごいシミなの。これでは人前に出るのが恥ずかしいから、
ファンデーションでも買おうかなと思って。
何がいいかしら?」
その一言で、私の胸は躍った。
私の身体中のスイッチが入った。
夢中でドラッグストアに駆け出す。
買いなれていない店。
気ばかり焦る。
ドラッグストアの自動ドアが開くと、冷たい空気と甘い化粧品の香りが混ざって流れ込んできた。
足早にその香りの元へと進む。
ヒールの音がやけに大きく響く。
閉店間際で店内は静まり返り、遠くでレジの電子音がかすかに鳴る。
蛍光灯の白い光が棚いっぱいの色を照らしている。
ベージュ、オークル、ピンクオークル。
整然と並ぶ小さな箱たち。
母の顔を思い浮かべる。
庭で帽子をかぶり、土に触れる横顔。
紫外線を気にせず笑っていたあの頃。
指先でテスターにそっと触れてみる。
焦りと気負いで、微かに手が震えている。
しっとりとした下地の感触。
パフの柔らかさ。
粉のほのかな匂い。
ガーデニングが好きだから、UV入りで肌に優しいものを。
薄づきでも、血色が戻るピンク系がいいかもしれない。
ヨレないサラサラのパウダーも。
焦りとワクワクがせめぎ合う。
10分ほどのはずなのに、ずいぶん長い時間そこにいた気がした。
慌てて買い物かごに押し込む。
小さな箱が、ことりと音を立てた。
その瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
急がなくちゃ。
心が囁く。
たったひとつのファンデーションが、母の心に春をもたらす。
レジを通り、わき目もふらず母の元へ。
母の気持ちが変わらないうちに。
小さな春と一緒に。
家に帰ると、母は嬉しそうで、でもどこか申し訳なさそうに笑った。
「悪いねえ、散財させちゃって」
無駄に気を使わせたくない。
私は笑って言った。
「今日より若い日はないんだから」
そして続けた。
「明日からどんどん綺麗になって、お仲間をびっくりさせてね」
母は新しいパッケージをそっと開けて、大事そうに引き出しにしまった。
照れくさそうに、ほんのり赤くなった頬。
その顔に、乙女の面影を見た。
翌朝、母から電話。
いつもより半音高い、明るくてシャープな声。
「昨日はありがとう。
これ使ってどんどん綺麗になっちゃうよ。
次に会ったらびっくりするんじゃない?」
私は笑ってすかさず返す。
「いいねぇ、初めましてって声かけちゃうくらい、やっちゃって」
笑顔だけでなく、母の心にもピンクが戻ってきた日。
それから数週間。
毎日化粧をする母の姿を見て、宅配の人や友人たちが
「まあ、きれいねえ」と声をかけてくれるという。
少し誇らしげに言うそうだ。
「娘のおかげなの」
改まって「育ててくれてありがとう」とは、言えない。
でも、心から伝えたい。
あなたの娘でいられる時間が、私の宝物です。
今日も、母は鏡の前に立っている。
あなたが元気で、笑っていてくれること。
それが、私にとって何よりの幸せ。
だから、
どうか、この日々が、少しでも長く続きますように。
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