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なぜ父が通した川を、息子は通れなかったのか——三十年の善政と、凍る黄河・劉宋文帝 劉義隆(りゅうぎりゅう)前

結論:黄河は、冬になると壁をやめて道になる

 前回は、劉裕(りゅうゆう)を取り上げました。京口(けいこう)の草鞋(わらじ)売りから身を起こし、東晋(とうしん)を滅ぼして宋(そう。劉宋)を建てた男です。

 そして私は、彼が洛陽(らくよう)と長安(ちょうあん)に届いた理由を、こう書きました。彼は北伐を「戦(いくさ)」としてではなく、「水運の事業」として設計した。淮河(わいが)から泗水(しすい)へ、泗水から巨野沢(きょやたく)へ、巨野沢から清水(せいすい)へ、清水から黄河(こうが)へ。浅ければ掘り、途切れていればつないだ。だから船が兵糧を運べた。

 そして彼が長安を1年で失った理由も、同じ地理でした。洛陽の西には三門峡(さんもんきょう)の砥柱(しちゅう)という難所があり、南から来る船はそこで止まる。船が届いた場所までが、彼の帝国でした。

 記事の最後に、私は南宋の詞人・辛棄疾(しんきしつ)の一節を引いておきました。もう一度、書いておきます。

 「元嘉(げんか)草草、狼居胥(ろうきょしょ)を封ぜんとして、贏(か)ち得たるは倉皇(そうこう)として北を顧みるのみ」——元嘉年間のあわただしい北伐。かつて霍去病(かくきょへい)が匈奴(きょうど)を破って封禅(ほうぜん)した狼居胥山を目指すつもりが、得られたものは、あわてふためいて北を振り返る姿だけだった。

 元嘉は、劉裕の三男・劉義隆(りゅうぎりゅう)の年号です。廟号(びょうごう)を太祖、諡(おくりな)を文帝といいます。

 今回と次回で、この人を取り上げます。

 さて、劉義隆という皇帝には、奇妙なところがあります。彼は元嘉というただ一つの年号のまま30年にわたって在位し、その治世は「元嘉の治」と呼ばれて、南朝を通じて最良の時代とされました。暗君ではありません。むしろ名君として数えられる人です。

 ところがその名君が、父の獲った河南(かなん。黄河と淮河のあいだの土地)を、二度にわたって取り返しに行って、二度とも失いました。それどころか二度目には、逆に北魏(ほくぎ)の太武帝(たいぶてい)に長江(ちょうこう)の北岸まで攻め込まれ、建康(けんこう。現在の南京)の対岸に敵の篝火(かがりび)を見ることになります。

なぜ、父にできたことが、息子にはできなかったのでしょうか。

 先に結論を言ってしまいます。彼が河南を守れなかったのは、彼が凡庸だったからではありません。彼が守ろうとした黄河という防衛線が、冬になると存在しなくなる線だったからです。

 黄河は凍ります。凍った川は、渡河点を守る意味を消してしまいます。どこでも渡れるからです。壁だったものが、そのまま道になる。

 そしてこれは、私の推測ではありません。この記事のいちばん大事な一行を、先に出しておきます。

 430年3月、劉義隆は北伐に先立って北魏へ使者を送り、河南はもともと宋の土地なのだから取り返す、と通告しました。これに対して北魏の太武帝・拓跋燾(たくばつとう)は激怒し、面と向かってこう言い返したと『資治通鑑(しじつがん)』は伝えています。

 「必ず若(も)し進軍せば、今当(まさ)に権(かり)に戍(じゅ)を斂(おさ)めて相避(あいさ)け、冬寒く地淨(きよ)く、河冰(かひょう)堅く合するを須(ま)ちて、自ら更に之を取らん」——どうしても攻めてくるというなら、こちらは一時的に守備兵を引き揚げて避けておく。そして冬になって寒くなり、大地が固まり、黄河の氷がしっかり張るのを待って、改めて取り返してやる。

 北魏は、氷を待つと宣言していたのです。しかも、これから攻めてくる相手に向かって、面と向かって。

 そして、そのとおりになりました。彼らは宋軍と戦って河南を渡したのではありません。冬までの数か月間、貸していただけでした。

 この記事の合言葉を、先に置いておきます。父は川をつなぎました。息子は、凍る川を守ろうとしたのです。

 前編にあたる今回は、劉義隆が即位してから、第一次北伐に失敗し、そして自分の国で最も優れた将軍を自分の手で殺すまでを追います。

まず地図の上に、南北朝の「国境」を置いてみる


 本題に入る前に、また地図の話をさせてください。前回と同じ地図を使いますが、今度は違う線を引きます。

 前回は、中国の大河がほぼすべて西から東へ流れることを確認しました。黄河も、淮河も、長江も、みな西の高地から東の海へ向かって走っています。南から北を攻める軍は、この三本の巨大な横棒を、縦に串刺しにしていくことになります。

 今度は、その三本の横棒のどこかに、国境を引いてみてください。

 候補は二つです。

 一つは黄河です。ここまで取れれば、洛陽も、河南の平野も、すべて南朝のものになります。父・劉裕がいったん実現した線でもあります。ただしこれは、南朝にとって攻撃的な国境です。取りに行かなければ手に入らないし、取ったあとも押し返されないように支え続けなければなりません。

 もう一つは淮河です。こちらは現実的な国境です。淮河から南は水路と湖沼が入り組んでいて、騎兵が力を出せません。謝安(しゃあん)の回で見た淝水(ひすい)の戦いは、まさにこの土地の性質が前秦(ぜんしん)の大軍を無力にした戦いでした。

 そして、この二本のあいだに広がっているのが河南平原です。黄河と淮河に挟まれた、広大で平坦な土地。ここが南北朝の緩衝地帯であり、150年にわたって血を吸い続けた場所でした。

ここで、この記事の背骨になる話をします。

 この河南平原という同じ土地が、南から見るのと北から見るのとで、まったく違う性質を持っているのです。

 南から北へ向かう軍にとって、河南は「線」です。前回書いたとおり、古代の軍隊にとって兵糧を運ぶ手段は圧倒的に船が有利でした。陸路で運べば、運搬する人馬自身が食べる分でどんどん目減りしていきます。ですから南朝の軍は水路を使いたい。

 ところが南北方向に走る川は数えるほどしかありません。淮河に注ぐ泗水、黄河から分かれて東南へ流れる汴水(べんすい)、済水(せいすい)の系統である清水。せいぜいこの程度です。南朝にとっての河南は、この細い数本の線でしかない。線から外れたところへは、そもそも行けないのです。

 ところが北から南へ向かう軍にとって、河南は「面」です。騎兵が必要とするのは、平坦であることと、馬に食わせる草があることだけです。川筋に沿う必要はありません。どこを通ってもいい。

 同じ土地が、進む向きによって、細い線になったり、広い面になったりする。私は、これが南北朝という時代の構造そのものだと考えています。

 そしてもう一つ、この記事の後半で効いてくる話を、ここで書いておきます。

黄河は、冬に凍ります。

 現在の黄河下流では、流氷や結氷に警戒する「凌汛(りょうじん)期」は、おおむね12月から2月末までとされています。ただし、川面が本当に閉ざされる「封河(ふうが)」となると、話はもっと不安定です。下流の利津(りしん)の記録では、封河した日数は年によって数日から3か月近くまで大きくばらつき、そもそも封河しない年もあります。

 ここには注釈も要ります。現代のデータは1855年の大改道より後の河道のものであって、5世紀の黄河は後漢の王景(おうけい)が整えた別の流路を流れていました。河口の緯度は近いのですが、同じ川ではありません。ですから「毎年きっかり百日凍る」というような書き方は、できないのです。

 ですが、私は、この不安定さこそが本質だと考えています。

 もし黄河が毎年必ず同じ日に凍るのなら、それはただの季節の行事です。暦に書き込んでおけばよい。しかし実際には、凍るかどうかも、いつ凍るかも、その年によって違います。つまり南朝の軍は、いつ落ちてくるか分からない締め切りを首に掛けたまま、北で戦わなければならないということです。

 要点はこうです。南朝が黄河を防衛線にできるのは、凍らない季節のあいだだけです。そして、その季節がいつ終わるのかは、行ってみなければ分かりません。

 私たちは「防衛線」という言葉を、つい静止画で考えてしまいます。地図の上に引かれた一本の線として。しかし川は生き物です。季節によって水位が変わり、冬には固まって別のものになる。国境線は、静止画ではなく動画で見なければならない。私は、これが元嘉の北伐を読み解く鍵だと考えています。

元嘉という三十年——「一歳或いは稔れば、数郡飢えを忘る」

 劉義隆は407年に生まれました。劉裕の三男です。

 彼が皇帝になった経緯は、あまり穏やかなものではありません。

 422年に劉裕が死ぬと、長男の劉義符(りゅうぎふ)が跡を継ぎました。少帝です。ところがこの少帝は、遊びにふけって政務を顧みないと評され、424年、劉裕の遺した重臣たち——徐羨之(じょせんし)、傅亮(ふりょう)、謝晦(しゃかい)——によって廃位され、まもなく殺されます。次男の劉義真(りゅうぎしん)も、これに前後して殺されました。長安を守りきれずに失った、あの次男です。

 そして三番目の子である劉義隆に、迎えの使者が来ました。当時18歳、荊州刺史(けいしゅうしし)として江陵(こうりょう)にいた彼は、船で長江を下って建康に入り、即位します。

 ここで、この連載を読んでこられた方に、一つ気づいていただきたいことがあります。

 彼は、上流から下ってきて皇帝になったのです。

 前回、私は劉裕が東晋百年の宿痾(しゅくあ)である「上流の呪い」を解いた、と書きました。長江上流の荊州に置かれた軍事力が、川を下って下流の都・建康を呑み込むという構造です。王敦(おうとん)も、桓温(かんおん)も、桓玄(かんげん)も、すべてこの型でした。劉裕は上流と下流の両方を自分の手に収めることで、この構造を解消しました。

 しかし劉義隆の即位のしかたは、まさにその型の再演です。この点は、この前後編の最後で、もう一度戻ってくることになります。

 即位した若い皇帝は、しばらく身を潜めていました。そして426年、自分を擁立した徐羨之と傅亮を誅殺し、荊州にいた謝晦には檀道済(だんどうさい)を差し向けて討たせます。兄を殺した者たちを片づけ、親政を始めたわけです。

ここから、元嘉の治が始まります。

 彼は農桑(のうそう。農業と養蚕)を奨励し、租税を減免し、地方官の綱紀を締め直しました。父・劉裕が断行した義熙(ぎき)土断(どだん)——戸籍を整理して課税と徴発の対象を確定させる作業——の方針も引き継いでいます。

 文化事業も盛んでした。裴松之(はいしょうし)が『三国志』に膨大な注をつけて上表したのは元嘉6年、429年のことです。今日われわれが読む『三国志』の面白さの半分は、この注のおかげだと言ってもいいでしょう。のちには儒学・玄学(げんがく)・史学・文学の四つの学館も置かれました。

 その繁栄ぶりを、『宋書』の史臣は有名な一節でこう讃えています。

 「江南の国たる盛んなり……地広く野豊かに、民は本業に勤め、一歳或(ある)いは稔(みの)れば、則ち数郡飢えを忘る」——江南という国は盛んである。土地は広く野は豊かで、民は本業に励み、一年でも豊作があれば、いくつもの郡が飢えを忘れてしまう。

 さらに「絲綿布帛(しめんふはく)の饒(ゆた)かさ、天下を覆衣(ふくい)す」——絹や綿や布の豊かさは、天下じゅうに着せられるほどだ、とも書いています。

 これは間違いなく、六朝時代を通じて最良の三十年でした。

 ですが、ここで一つ、気をつけておきたいことがあります。

 この豊かさは、あくまで「社会の豊かさ」です。国庫の豊かさとは、必ずしも同じではありません。

 どういうことでしょうか。土地が豊かで民が働いていても、その富を国家が取り出す仕組み——徴税の配管とでも言うべきもの——が十分でなければ、国庫には入ってきません。南朝は、大族が広大な荘園と隠された戸口を抱え込む社会でした。劉裕が義熙土断であれほど苦労したのも、まさにその配管を通すためです。

 このことは、後編で一気に効いてきます。450年、劉義隆が二度目の北伐を決めたとき、彼が何をしたか。国庫から出したのではありません。民から借りたのです。三十年の善政で社会に貯まった富を、国家が一度に吸い上げにいった。そのやり方は、後編で詳しく見ます。

 私は、元嘉の治について、こう整理するのが正確だと考えています。損益計算書は立派でした。毎年きちんと黒字が出ていた。しかし貸借対照表の現金の欄は、思ったほど厚くなかったのです。そして戦争というのは、損益計算書ではなく、現金で戦うものです。

 なお、歴史を財務諸表とキャッシュフローの目で読み直す試みについては、拙著『皇帝の財務諸表』でも扱っています。

なぜ文帝は北を目指したのか——「父が獲った土地」という負債

 ここで一つ、素朴な疑問が浮かびます。

 これほど国内がうまくいっていたのなら、なぜ北伐などしたのでしょうか。淮河を国境として守りに徹していれば、元嘉の治はもっと長く続いたのではないでしょうか。

 その答えは、彼が即位する前年にさかのぼります。

 前回の記事の最後に、私はこう書きました。制度ではなく一人の個人の力量に支えられた版図は、その個人が死ねば消える、と。

 まさにそのとおりのことが起きていました。422年に劉裕が死ぬと、北魏の明元帝(めいげんてい)・拓跋嗣(たくばつし)はただちに南下を開始し、423年までに滑台(かつだい)、虎牢(ころう)、洛陽といった河南の要地を次々に奪ったのです。父が命がけで手に入れた土地は、父の死の翌年には、もうありませんでした。

 つまり劉義隆は、即位した時点ですでに、父より小さな国を受け継いでいたことになります。

 これが、どれほど重いことか。

 前回、私は劉裕という人物の歴史的意味を、権力の根拠を家格から軍功へと移した点に見出しました。司馬睿(しばえい)の時代の東晋は「王与馬、共天下(おうとばと、てんかをともにす)」と言われ、どの家に生まれたかが人の到達点を決めていました。劉裕はそれを壊し、実力で天下は獲れるものだと証明してみせた。

 しかし、これは諸刃の剣です。家格で正統性を主張できない王朝は、軍功でしか正統性を作れないからです。

 劉宋という王朝の売り文句は、たった一つでした。うちの初代は、東晋の百年で誰もできなかった洛陽と長安の奪回をやってのけた。だからこの家が天下を持つのだ、と。

 その王朝の二代目が、父の獲った土地すら持っていない。これは政治的に、耐えがたい状態です。

 しかも、そこには辛棄疾が皮肉った「狼居胥を封ぜんとして」という願望も重なります。かつて漢の霍去病が匈奴を破って狼居胥山で天を祭ったように、自分も北方の異民族を打ち破って、その功を天下に示したい。父を超えたい、とまでは言わないにせよ、せめて父と同じ場所には立ちたい。

 私は、元嘉の北伐というものを、領土をめぐる戦争としてではなく、正統性の調達行為として読むべきだと考えています。

 これは重要な違いです。領土戦争なら、割に合わなければやめられます。しかし正統性の調達は、割に合うかどうかで判断できません。やらなければ王朝の存在理由が揺らぐからです。だから彼は、一度失敗しても、二度目をやりました。二度目に大敗しても、三度目をやりました。

 そして、もう一つ。この前後編を通じて何度も戻ってくる、決定的な事実をここに置いておきます。

劉義隆という皇帝は、生涯で一度も、戦場に立ったことがありません。

 即位の前は江陵にいて、即位後は建康の宮殿にいました。彼が北伐を見るのは、いつも地図の上でだけです。父・劉裕が船の上で水位を見ながら判断を下したのとは、まるで違う。

 この差が何を生んだかは、後編でご覧いただくことになります。

第一次北伐(430年)——泗水が涸れ、氷を待たれた年

 430年、元嘉7年。ついに劉義隆は動きます。

 3月、詔(みことのり)が下り、右将軍・到彦之(とうげんし)に精兵5万が与えられました。ほかに段宏(だんこう)の騎兵8千、劉徳武(りゅうとくぶ)の1万、長沙王・劉義欣(りゅうぎきん)の3万が続きます。主力は、到彦之が率いる水軍でした。目標は、父の獲った河南の回復です。

 進路を見てください。建康を出て、淮河に入り、そこから泗水を北上する。前回の記事で、劉裕が南燕(なんえん)討伐でも416年の大北伐でも使った、あの水路です。息子の軍は、父とまったく同じ道を選びました。

 ところが、ここで最初の異変が起きます。『資治通鑑』に、こう記されています。

 「淮より泗に入るに、水渗(しん)し、日に行くこと才(わず)かに十里。四月より秋七月に至り、始めて須昌(しゅしょう)に至る」——淮河から泗水に入ったが、水が浅く、一日にわずか十里しか進めない。四月から秋の七月までかかって、ようやく須昌に着いた。

 ここを、どうか読み飛ばさないでください。

 前回、私は南朝の北伐についてこういう命題を立てました。成功するかどうかは、南北に走る水の線を何本確保できたかで決まる、と。

 430年は、その命題に、もう一つの変数があることを教えてくれます。線が地図の上にあることと、その線が今年使えるかは、別だということです。

 泗水は、416年にも430年にも、地図の上には同じように存在していました。しかし416年の泗水は船を運びましたが、430年の泗水は船を運びませんでした。水量が足りなかったからです。

 古代の水運というのは、そういうものです。運河も自然河川も、雨の多い少ないで水位が上下します。ある年は艦隊が通り、別の年には底を擦る。前回、桓温が枋頭(ぼうとう)で水位低下に泣いた話を書きましたが、あれは例外的な不運ではなく、南朝の北伐が常に抱えていた条件だったのです。

 そして、四か月の遅れがどれほど致命的だったかは、この先を読めば分かります。

 さて、須昌にたどり着いた宋軍を待っていたのは、意外な光景でした。

 敵がいないのです。

 七月、北魏は碻磝(かくごう)の守備兵を引き揚げさせました。続いて滑台の守備兵も去りました。さらに洛陽と虎牢の兵も、城を捨てて北へ渡りました。河南四鎮と呼ばれるこれらの要塞——碻磝、滑台、虎牢、そして洛陽城の北西隅に築かれた金墉(きんよう)城——が、戦わずして宋軍の手に落ちたのです。なお「四鎮」という呼び方は主に北魏側のもので、南朝側の史料では単に個々の城の名で呼ばれます。

 宋軍は喜んだでしょう。父が獲り、父の死とともに失った土地が、一兵も損なわずに戻ってきたのですから。

 しかし、これが罠でした。

 この撤退は、四か月前に予告されていたものだったからです。冒頭に引いた太武帝の言葉を、もう一度書きまます。

 「今当に権に戍を斂めて相避け、冬寒く地淨く、河冰堅く合するを須ちて、自ら更に之を取らん」

 一時的に守備兵をまとめて引き揚げ、避けておく。そして冬になって氷が張ったら、改めて取り返す。

 宋の使者は、この言葉を持ち帰っていたはずです。つまり建康の朝廷は、河南の城が無血で手に入る理由を、あらかじめ聞かされていたことになります。

 北魏は、河南を失ったのではありません。夏のあいだ、貸していたのです。

 なぜそんなことが言えるのか。彼らの主力が騎兵だからです。夏の河南は、雨が多く、川が増水し、湿地が広がって、馬の脚には向きません。しかも黄河という大きな川が横たわっていて、渡河には船か橋が要る。ところが冬になれば、地面は乾いて固まり、黄河は凍って歩いて渡れるようになる。

 騎兵にとって、冬の華北は最高の季節なのです。

 そしてここが、この記事のいちばん大事なところです。黄河が凍るということは、渡河点を守る意味が消えるということです。

 考えてみてください。宋軍が押さえた碻磝も、滑台も、虎牢も、いずれも黄河の渡河点を扼(やく)する城です。なぜそこに城があるかといえば、そこでしか渡れないからです。渡れる場所が限られているからこそ、そこを押さえることに意味がある。

 ところが川が全面的に凍れば、どこでも渡れます。渡河点という概念そのものが消滅する。城は、それでもそこに立っていますが、もはや何も塞いでいません。

 壁だったものが、道になるのです。

 そして宋軍は、最悪の手を打ちました。回復した城々に兵を分けて置き、黄河の南岸に沿って、西は潼関(どうかん)のあたりまで、東西に長く軍を並べたのです。

 線を、面のように守ろうとしたわけです。当然、一か所あたりの兵は薄くなります。

 ただし、全員が浮かれていたわけではありません。ここは正確に書いておかなければなりません。

 司州(ししゅう)と兗州(えんしゅう)が平定され、諸将がみな喜んでいるなかで、王仲徳(おうちゅうとく)という将だけが憂いの色を浮かべていました。前回の記事に出てきた男です。劉裕の五道並進(ごどうへいしん)で、水路開削の専任者として軍の先頭に置かれていた、あの王仲徳です。

 彼はこう言いました。魏は守備兵を引き揚げて北へ帰った。必ず力を集めて備えを固めるだろう。もし黄河の氷が張ったなら、また南へ来るに違いない。どうして憂えずにいられようか、と。

「若(も)し河冰既に合せば、将(まさ)に復(ま)た南来せんとす」

 見抜いていた人間は、いたのです。ただ、その声は通りませんでした。

 八月、北魏の反撃が始まりました。安頡(あんきつ)が諸軍を率いて到彦之を攻めます。そして十月、安頡は委粟津(いぞくしん)から黄河を渡って金墉城に迫り、洛陽を陥落させました。続いて虎牢も落ちます。

 長く薄く伸びた線は、一点を破られれば、その両側がまとめて無意味になります。

 到彦之は撤退を決めました。彼自身は以前から眼を患っており、このとき症状が悪化していました。将兵のあいだには疫病が広がっていました。垣護之(えんごし)が書面で滑台の死守を説き、王仲徳が船を捨てずに済水へ入れと諫めましたが、いずれも容れられていません。

 彼は清水から済水に入り、南へ下って歴城(れきじょう。現在の済南)に至り、そこで船を焼き、甲冑を捨てて、歩いて彭城(ほうじょう)まで逃げました。

 『資治通鑑』の原文は簡潔です。「南のかた歴城に至り、舟を焚(や)き甲を棄て、歩して彭城に趨(おもむ)く」。

 ここで、前回の記事を思い出してください。

 劉裕は、川をつなぎました。淮河と泗水を、泗水と巨野沢を、巨野沢と清水を、清水と黄河を。浅ければ掘り、途切れていればつなぎ、軍の先頭には戦闘部隊ではなく水路開削の専任者を置きました。

 その14年後、息子の軍を預かった将軍は、同じ泗水を三か月かけて這うように進み、最後に船を焼いて、歩いて帰ってきたのです。

 私は、この対比に、この前後編のすべてが凝縮されていると考えています。

 ところで、一つ正確を期しておきたいことがあります。

 到彦之が退いたのは十月から十一月にかけてで、黄河が本格的に凍る前です。つまり彼は、氷を渡ってきた騎兵に踏み潰されたわけではありません。史料が直接の理由として挙げているのは、洛陽と虎牢の喪失、そして彼の眼病と軍中の疫病です。氷が来る前に、自分から崩れたのです。

 私は、このほうがむしろ恐ろしいと考えています。

 北魏は「冬になったら取り返す」と公言していました。宋軍はそれを知っていたか、少なくとも察していたはずです。とすれば、彼らは冬という締め切りを首に掛けたまま、河南を守っていたことになります。あと何十日で氷が張る。氷が張れば、この城は何も塞がなくなる。それまでに何とかしなければならないが、四月から七月を泗水で浪費した軍に、もう時間は残っていない。

 締め切りが来る前に、締め切りの存在だけで、防衛線は崩れたのです。

 もう一つ、誠実に書いておかなければならないことがあります。

 「凍結が南朝の黄河防衛を構造的に不可能にしていた」という言い方は、私の解釈です。史料がはっきり書いているのは、北魏が冬の結氷を待って反攻する方針だったという事実と、その年の宋軍が河南を保てなかったという事実の二つです。この二つを結んで一般化するのは、あくまで私見です。

 しかし私は、この解釈が最も無理なく事実を説明すると考えています。そして後編で、まったく同じことがもう一度、より大きな規模で起きるのをご覧いただくことになります。

 ちなみに、この第一次北伐で宋が失ったのは兵だけではありません。武器庫が空になりました。父の代から蓄えてきた兵器の備蓄を、一度の遠征で吐き出してしまったのです。

唱籌量沙(しょうちゅうりょうさ、431年)——砂を量って生き延びた将軍

 到彦之が逃げ帰ったあとも、滑台にはまだ宋の守備隊が残っていました。朱脩之(しゅしゅうし)が籠城していたのです。

 431年正月、その救援に向かったのが檀道済でした。

 檀道済は、劉裕の代からの生き残りです。前回の記事にも名前が出てきました。416年の五道並進で王鎮悪(おうちんあく)とともに洛陽を落とした、あの将軍です。劉宋という王朝にとって、父の時代の勝ち方を身体で知っている、最後の一人でした。

 彼は清水から北上し、魏軍と前後三十余戦を戦って、多くに勝ちました。

 しかし、勝てば勝つほど、彼は敵地の奥へ入っていくことになります。そして歴城のあたりまで進んだとき、北魏軍は正面から当たるのをやめ、宋軍の背後に回って、草と穀物を焼き払いました。輜重(しちょう)を断たれた檀道済の軍は、食糧が尽きて、それ以上進めなくなります。

 『資治通鑑』の記述は端的です。「道済の軍、食に乏しく、進むこと能わず」。

 さらに悪いことに、宋軍から投降した兵が、魏軍に内情を密告しました。あの軍は兵糧が尽きている、と。

 万事休す、のはずでした。追撃されれば全滅です。

 ここで檀道済がやったことが、「唱籌量沙」として知られる有名な逸話です。

 その夜、彼は兵に命じて、砂を量らせました。ただ量るのではありません。籌(ちゅう。数を数える札)を一つずつ声に出して唱えながら、升で量って積み上げていく。夜の闇のなか、その声だけが響きます。そして積み上げた砂の山の上に、わずかに残っていた米を薄く撒いて覆いました。

 夜が明けて、魏軍がそれを見ます。米俵が山のように積まれている。昨夜あれだけ声を出して量っていたのは、この兵糧の在庫確認だったのか。

 魏軍は、投降兵の密告が嘘だったと判断し、その男を斬りました。

 そして翌朝、檀道済はさらに一手を打ちます。全軍に甲冑を着けさせておいて、自分だけは白い服を着て輿(こし)に乗り、ゆっくりと隊列を進めさせたのです。追われている軍の動きではありません。魏軍は伏兵を疑い、追撃をためらい、少しずつ引き下がっていきました。

 こうして檀道済は、一兵も損なわずに全軍を退かせました。

 この話は、たいてい「知恵で危機を脱した名将」の逸話として語られます。それはそのとおりなのですが、私はここに、もっと重要なことが写り込んでいると考えています。

 この計略が成立するためには、一つの前提が要ります。

 魏軍が「南朝の軍は兵糧で死ぬ」と信じていることです。

 もし魏の将が、宋軍の補給に何の関心も持っていなければ、砂の山を見ても意味が分かりません。追撃をためらう理由にもならない。この芝居が効いたのは、敵が「南から来た軍は必ず食糧で崩れる」という前提を、骨の髄まで共有していたからです。だからこそ、その一点を覆す偽の証拠が、これほど強く効きました。

 つまり、南朝の北伐が兵糧で死ぬという地理的な宿命は、当時すでに敵味方の常識だったのです。檀道済はその常識を逆手に取りました。地理が情報として共有されていたからこそ、地理について嘘がつけたわけです。

 私は、これは奇策の物語というより、南北朝という時代の力学がむき出しになった場面だと考えています。

 なお、檀道済は自軍を救いましたが、滑台は救えませんでした。同じ431年、滑台は陥落し、朱脩之は捕虜になります。第一次北伐は、これで完全に終わりました。

 得たものは、何もありません。

 辛棄疾の言う「贏ち得たるは倉皇として北を顧みるのみ」——得られたのは、あわてて北を振り返る姿だけ。まさにこのとおりの結末でした。

檀道済誅殺(436年)——万里の長城を、自分で壊す

 そして5年後、この前編でいちばん暗い場面が来ます。

 背景から説明しましょう。

 劉義隆は、身体の弱い人でした。たびたび重い病に倒れ、そのたびに宮廷は動揺します。皇帝が危篤になれば、次に誰が実権を握るのかという話にならざるを得ません。当時、弟の彭城王・劉義康(りゅうぎこう)が政務を取り仕切り、その側近である劉湛(りゅうたん)が力を伸ばしつつありました。

 そういう状況のなかで、檀道済という存在は、あまりにも大きくなりすぎていました。

 彼は劉裕の挙兵以来の宿将であり、北伐の実績があり、軍中の声望は絶大でした。息子たちにも勇名があり、部下には薛彤(せっとう)と高進之(こうしんし)という猛将がいて、当時の人は彼らを関羽と張飛になぞらえたといいます。

 もし皇帝が死んだら、この男は誰の側につくのか。あるいは、自分で立つのではないか。

 元嘉13年、436年3月。都に召還された檀道済は、捕らえられました。

 『宋書』が記しているのは、じつに短い一行です。捕吏(ほり)に囲まれた彼は、頭巾を地面に叩きつけて、こう言いました。

 「乃(すなわ)ち復(ま)た汝(なんじ)の万里の長城を壊(こぼ)つか」——お前はまた、自分の万里の長城を、自分の手で壊すのか。

 『南史』や『資治通鑑』は、これにさらに描写を加えています。彼は怒りに満ち、目は炬(たいまつ)のように光り、酒を一斛(いっこく)あおった、と。後の書物ほど場面が濃くなっていくわけで、そこは割り引いて読むべきでしょう。

 彼は殺されました。子らも殺されています。人数は史料によって異同がありますが、一族はほぼ根絶やしになりました。薛彤は建康で、高進之は尋陽(じんよう)まで使者が送られて、それぞれ誅されています。

 この知らせが北に届いたとき、魏の人々は喜んでこう言った、と伝えられます。

 「道済死せり、呉子(ごし)の輩、復(ま)た憚(はばか)るに足らず」——檀道済は死んだ。南方の連中など、もう恐れるに足りない。

 ただし、これは南朝側の記録に残る伝聞です。魏の宮廷で実際にそう言われたかどうかは確かめようがありませんし、「自分たちの名将がいかに恐れられていたか」を語る話には、どうしても脚色が入ります。そのつもりで受け取っておくのがよいでしょう。

 さて、この事件をどう評価すべきでしょうか。

 普通は、病弱な皇帝の猜疑心が引き起こした悲劇として語られます。それは間違っていません。しかし私は、ここにはもっと構造的な病があると考えています。

 前回の記事で、私は劉裕を高く評価しました。彼は貴族が独占していた「天下」を、実力で獲れるものに変えた。権力の根拠を家格から軍功へと移した。それは間違いなく、時代を前へ動かした変化でした。

 ですが、その扉は内側にも開くのです。

 権力の根拠が軍功であるということは、軍功を持つ者が、常に皇帝の潜在的な競争相手になるということでもあります。家格の時代であれば、どれほど戦に強くても、家柄が届かなければ玉座には手が届きませんでした。だから貴族の皇帝は、名将を安心して使えた。ところが劉裕が「実力があれば獲れる」と証明してしまった以上、実力のある将軍は、それだけで危険物になります。

 しかも劉宋の皇帝自身が、まさにその方法で天下を獲った家の人間です。自分の父がやったことを、他人がやらない保証はどこにもありません。

 ここに、南朝が北伐に成功できない理由の、もう一つの層があります。

 北伐に必要なのは、水路を読み、季節を計算し、大軍を長期間動かせる将軍です。そういう将軍は、必ず軍中に人望を得ます。そして人望を得た将軍は、危険物になる。つまり南朝は、北伐に成功しかけた人材を、自分の手で処分してしまう構造を抱えていたのです。

 地理は、南朝の北伐に厳しい上限を課していました。しかし南朝は、その上限にすら届かないところで、自分から手を離してしまうことがあった。

 檀道済の最期の言葉は、本人の悔しさの表明であると同時に、この王朝の診断書でもありました。

 そして、この言葉には続きがあります。

 14年後、北魏の騎兵が長江の北岸に達したとき、劉義隆は自国の首都の城壁の上に立って、北を望みながら、ある人物の名を口にすることになります。

 誰の名かは、もうお分かりでしょう。

まとめ(前編):三十年の善政と、凍りかけた一本の川

 冒頭の結論を、あらためて確認しましょう。

 劉義隆が父の獲った河南を守れなかったのは、彼が凡庸だったからではありません。彼が守ろうとした黄河という線が、冬になると存在しなくなる線だったからです。

 前編で見てきたことを、三つに整理しておきます。

 第一に、河南平原は、進む向きによって性質を変える土地でした。南から北へ向かう軍にとって、そこは泗水や汴水や清水といった細い数本の「線」でしかありません。線から外れた場所へは、そもそも兵糧を運べないからです。ところが北から南へ向かう騎兵にとって、そこは平坦でありさえすればよい「面」です。同じ土地が、見る方向によって、糸のように細くなったり、どこまでも広がったりする。

 第二に、その黄河には、季節という時計がついていました。430年、太武帝は宋の使者に向かって、守備兵は一時的に引き揚げておく、冬になって河の氷が堅く合したら自分たちで取り返す、と言い放っています。北魏は河南を失ったのではなく、夏のあいだ貸していただけでした。そして氷が張れば、渡河点を扼する城は何も塞がなくなります。壁は、道になるのです。

 第三に、そして最も重いことに、時間そのものが足りませんでした。到彦之の軍は、水の涸れた泗水を、四月から七月まで一日十里で這いました。父・劉裕が川をつないで押し上げたのと同じ水路を、息子の軍は四か月かけて舐めるように進み、冬という締め切りに追いつかれ、最後は歴城で船を焼いて歩いて帰りました。父は足し算をし、息子は引き算をされたのです。

 「歴史は暗記ではなく、地理で動く」——劉義隆の失敗もまた、この視点の正しさを証明しています。彼は暗君ではありませんでした。三十年にわたって民を富ませ、学問を興し、六朝最良の治世と讃えられた皇帝です。

 そして、彼が季節を知らなかったわけでもありません。後編で見るように、20年後の朝議で、彼は「夏の増水で船を出し、冬の初めまでに城を連ねて固める」という時刻表を、はっきり口にしています。王仲徳のように、氷が張れば魏がまた来ると予言していた将もいました。太武帝に至っては、面と向かって予告してくれています。

 分かっていたのです。分かったうえで、間に合わなかった。私は、そこにこの人の悲劇があると考えています。地図の上に確かに引かれている一本の川が、冬になると別のものに変わる。それを知りながら、四月から七月を泗水で失った時点で、勝負はついていました。

 そして地理は、失敗の下限を決めるだけです。上限を決めるのは、いつでも人のほうです。彼は自分の国で最も北伐に近づける将軍を、自分の手で殺しました。

 さて、後編では、その14年後を扱います。

 450年、劉義隆はもう一度、北を目指します。今度は三十年かけて社会に貯まった富を、民から借り上げてまで注ぎ込みました。しかし相手は、すでに華北を統一し終えた北魏の太武帝・拓跋燾です。前回の記事で「時間の窓」と呼んだあの隙間は、このときすでに閉じていました。

 結果として、宋軍は黄河の手前で崩れ、北魏の騎兵は淮河を越え、長江の北岸まで達します。攻めた側が、攻め返される。そのとき地理が何をしたのか。

 そして冒頭で引いた辛棄疾の詞には、まだ続きがあります。その最後の一節を読むためには、瓜歩(かほ)という場所まで行かなければなりません。あわせてお読みいただければ幸いです。

 劉裕が滅ぼした後秦や南燕、そして劉義隆の前に立ちはだかった北魏。この五胡十六国から南北朝へと移り変わる激動と、南北を分けた地理の攻防については、Kindle本『中国史は地理で決まる2 八王の乱と五胡十六国』で、地図と地形図を使いながら詳しく解説しています。「なぜあの場所が何度も争われたのか」という視点で読むと、滑台や虎牢といった黄河のほとりの小さな城が、なぜ何百年にもわたって奪い合われ続けたのかが、はっきり見えてくるはずです。

■ Kindle本





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