【劇場版考察2】「ポジティブにニュータイプを描く」とは
今回は舞台挨拶や公式クリエイターズトークでの鶴巻監督の発言を踏まえて、ジークアクスにおけるニュータイプの描かれ方への自分の思いと期待について、雑感をつらつらと。
■はじめに■
過日の舞台挨拶で、鶴巻監督は「ニュータイプをポジティブに描きたい」と発言したとのこと。直感的にこれはちょっと面白い、期待できる発言だなと思いました。
ガンダムにおけるニュータイプ(以下「NT」)論というのは深くて複雑な話で、ファーストガンダム世代とはいえ、ガノタというほどにはガンダムに思い入れがあるわけではない自分としては、あまり突っ込んだ話はできないのですが、それなりに思ったことがあったので、ちょっと書き留めておきます。
■「ポジティブ」とはどういう意味か■
鶴巻監督の言う「ポジティブ」は、暗に「これまで原作とそのシリーズはNTをネガティブに描いてきた」という意味を含んでいる。
殆どのUC作品で共通してNTはまず優れた戦士として描かれており、その能力はまずもって戦争=人殺しに活用されている。個人間レベルでは感応による相互理解や誘引、あるいは反発などが描かれるも、相互理解できたところで、信念が曲げられずにうまくいかないとか、相容れないものは相容れないという絶望も描かれてきた。勝手に人の心を覗くなと怒った人さえいて、確かにこの能力と新人類はネガティブに描かれてきた。言い換えるなら、NTの能力で、NTは幸福にはなれなかった。
さらに、NTを有能な兵士資源とみなしたティターンズやニタ研、ネオ・ジオンなどは、脳改造や薬物を使って強化人間なる人工NTを作ってみたり、NTを解剖して実験したりもしており、取り巻く環境もドス黒い。そして世界の社会思想としても、NTを人類の希望と考えていたジオニズムはジオン公国の消滅と競って衰退し、やがて歴史から消滅してしまう。それは、作品世界の人々もNTの可能性に失望し、忘れ去ったとも言える。
こうしたこれまでの「正史」作品は、NT能力があっても人間や人間社会はマシになったりはしないという諦観をこれでもかと見せつけてきた。
そしていつしか、ガンダムというシリーズ作品の創り手が、NTとはなにか、NTがもたらす人類の変革とは何かを正面から取り組んで描くことを放棄してしまった。それは創り手が、NTとその能力がもたらす人間と人間との前向きな関係性や、人類社会の姿を想像し、視聴者に見せる事ができなかった、といえる。
個人的な愚痴になるが、自分がガノタではないのもまさにこれが理由で「NTを描く気がないならガンダムなんかやめろ!」「やる気もないのに何でもかんでもガンダムってつけるな!」くらいに思っていた過激派で、失望して「ガンダム」を見限っていたので、見てないシリーズも結構ある。
しかし鶴巻監督が「いいやそうではない。NTにはこういう可能性がある、こういう世界になるんだ」というものを見せてくれるというなら、これは本作には期待する価値があると思うし、それは自分のようなファーストガンダム世代がかつて「Zガンダム」放映前に期待した希望の再生だと思う。
自分が今「ジークアクス」に期待する理由である。
■原作で描かれたNTの希望■
ではポジティブな描写は富野由悠季が描いた作品群になかったのか。
思いつくのはファースト最終話での、アムロがホワイトベースの仲間を感応、念話によって助けるシーンだ。あれは作中で初めてNT能力が人助けに役立った場面かもしれなかった。そしてアムロ自身はカツ・レツ・キッカに導かれてア・バオア・クーを脱出する。あれは、NTは大切な人を助けることができる、という希望ではないだろうか。それは「逆襲のシャア」のアクシズショックにも通底している。NTの能力とサイコフレームは人の心を物理現象に変換する。それはNTの能力は人の善性を具現化し(悪意も具現化するが)、世界を救う事ができる、という希望だったろう。
富野監督のNT論は変遷しているのだが、新訳Zにおいて「真のニュータイプとは、今までのニュータイプ論で描いた精神的な共感に加えて肉体的な体感を持ち、それらを隣人を大事にするために活かすことができる人である」と結論している。大意としては、NTの共感力を隣人のために活かすことが理想形であることは、ファーストの頃から変わっていない。
というわけで、鶴巻監督はこれを土台に、ジークアクスの物語をまとめていくのではないか、と期待している。
■踏まえて先の考察について■
余談だが、自分の先の考察も、実のところこうした期待が反映されている。
クリエイターズトークを見る限り、鶴巻監督は当初、Beginningパートはシャアがガンダムを起動するところまでやればいいと思っていたようだ。ということは、監督的には「ジークアクス」にとっては(少なくとも当初は)「ジオンが1年戦争に勝った」という事実背景のみあればいいと考えていたのだろう。すると1年戦争中の出来事は、ジークアクス本編で後付説明で処理できる程度の情報量のはずだ。反面、Beginningパートにこそ、今後展開する本編の伏線が描かれている可能性は高いだろう。
そう考えてみると「NTをポジティブに描く」というならば、「ジオニズムを踏まえたNTによる新世界秩序を目指す勢力」を設定するだろうことは容易に想像できるし、あえて挿入されているフラナガンとシャアの談合、そしてシャアとシャリア・ブルの会話は重要な伏線と捉えるべきだと思う。
フラナガン機関、ニタ研とつながっていくNT研究は、Z以後のシリーズでは非人道的な方向に暴走していくが、本作はあくまで0079時点の価値観で考えるべきで、この時代にNTを解剖とか、強化人間を作るとか、そういう非道はあまり考えにくいし、そもそもフラナガンを悪人と考える事自体がどうなのか。フラナガンが研究対象であるNTとどういう関わり方をして、どういう思想を持つかには未知の可能性があると考えるべきだろう。そのうえでシャアに彼が語ったことは、彼が真のジオニズムの信奉者である可能性を示唆している。
そしてキシリアがサイコミュ増産とNT部隊創設の可能性をほのめかしているのも興味深い。原作でジオン軍が確保できたニュータイプはシャア、ララァ、シャリア・ブルの3名だけ。なのになぜBeginningではサイコミュの増産という話がでてくるのか。フラナガンとキシリアはNTを捜索する手段を確保しているのではないか、という推察もそこに由来する。
■MAVとニュータイプ■
鶴巻監督はまた、ニュータイプは2人で意味を持つということも言っており、これは斬新な解釈だと思う。それは過去の作品が主にNTの感応を1対1で描いてきたから自然に導かれる推察、設定であるのだろう。その文脈において「MAV」という設定が生み出されたそうなので、つまりMAVはNTを描写するための設定だ。
作中でMAVを解説していたシャリア・ブルにしても、本心ではMAVが一般的なMSの戦闘術だなんてのは建前で、NTを2人1組で運用することがおそらく真の目的だと思う。あるいはMAVによって理想的なNTのペアリングを探しているのかも知れない。
大体、シャアとシャリア・ブルに有視界戦闘での先制攻撃がどうのこうのと配慮する必要があるわけがない。視界に頼らず直感で正確に索敵をし、亜光速の動きさえ予知をして先制攻撃を加えるところがNT兵士の恐ろさではないか。そして彼らは戦場でNTと戦ったこともないから、MAVが対NT戦術でないことも自明だ(単身シャアが妹にハンマーなげられたりしたけど、そんな戦闘があったことなどシャリア・ブルが知る由もない)。
話を戻して、本作ではおのずと誰と誰がペアリングするのか、ということがドラマの一つの焦点になるだろう。NT同士の感応が良い出会いであることもあれば、悪い出会いであることもあることは、過去の作品が示すところだ。だがその悲劇をフォーカスして描くのでは、これまでの作品から一歩も踏み出さない。番となるNTの出会いに希望を見せなければ「ポジティブに描く」ことにはならないだろう。そういう意味では作中でハロのいった「本当のMAV」という言葉は、こちらが考える以上に深い意味があるのかもしれない。たとえば「キラキラが見えるペア」なのかも。
また、この劇場版の時点で「3つのMAVの姿」が提示されている。「MAVを喪ったシャリア・ブル」「自分の本当のMAVと出会ったマチュとシュウジ」「まだ自分のMAVを持たないエグザべ・オリベ」。これをMAVの果ての姿、今の姿、これからの姿とみるなら、シャリア・ブルを補助線として、本作でマチュとシュウジのMAVの活躍を描く一方、最後にNTの可能性を見せるのはエグザベなのではないだろうか。あるいは最後はシャリア・ブルとエグザベが本当のMAVになるのかもしれない。
最後に。感応は常に1対1とは限らない。強いNTの思念、感応は、複数人に異なるメッセージとして届くこともあることが過去の作品では描かれた。ある一人のNTが多くの人に働きかけ、それが良い結果をもたらすというドラマがあっても良いと思う。
■ポジティブな結末とは■
で、結局「ジークアクス」がどういう作品世界、物語を描こうとするのかを想像してみる。
戦争のない宇宙でジオン軍はかなりフランクな組織になり、フラナガンスクールなるNT養成学校?の卒業生であるエグザべの扱いを見ても、少なくとも表向き、NTは人材として一定尊重されており、Zで描かれたような強化人間の扱いなどは受けていない。フラナガンスクールにしても、フラナガン機関が原作通りに軍隊のないサイド6にあるのなら、それはNT兵士養成学校などではなく、卒業生のNTはサイド3を含めたコロニーに進出し、軍隊から民間企業を含めたあらゆる仕事に従事する道が拓かれた世界ではないだろうか。とすればフラナガンはやはり、NTが作る新世界の信奉者であるように思うし、もしかしたらこの世界では、NTはジオニズムの体現者として保護され、一定の社会権を確立している可能性さえあると思う…まあこれは楽観すぎるか。せいぜいその道を探ろうとしているくらいか。
しかしこれだけでも従来のシリーズの世界と比べたら、かなりNTにとって世界は明るい。
その一方、この世界は「連邦対ジオン」「アースノイド対スペースノイド」という対立軸は健在で、さらに宇宙だけを見ても「ジオン一極体制対各サイド」「統治体制秩序対難民」という対立軸が存在している。さらに「ザビ家対ダイクン派」「ギレン派対キシリア派」そして「オールドタイプ対ニュータイプ」という対立軸も考えられる。これらが様々な組み合わせで収斂して、対立が先鋭化し、武力闘争に発展する展開はやはりあるだろう。
ただ、この世界では戦争は遠いものになっている。
そんな世界で、主人公のマチュは良いとこの女子校に通いながら、難民のニャアン、素性不明の(お尋ね者の)シュウジ、そして非合法なクランバトルと関わる。そしてそれは軍隊のシャリア・ブルに監視されている。つまり、主人公が自分が生きていた世界とまるで異なる社会のレイヤーと関わっていくという流れであり、これは当面の方向性が、主人公を通してこの世界の歪みを描いていくことを示唆している。
正直に言うと、自分は当初、クランバトルという設定を「退屈でつまんねえ」と思っていた。しかし過去の作品が常に「戦争とNT」を描き、NTは戦場で活用されるという悲劇を描いてきたことを踏まえれば、平和な世界の暮らしを描かなければ「NTをポジティブに描く」事はできないのではないか、と思い考えを改めた。クランバトルはすぐに終わるパート、余興と考えている人も多いだろうが、自分はまったりやってくれて構わないと思っている(それじゃあ視聴者に訴求しない、という問題はあるのだが)。やがてシャリア・ブルがマチュたちを勧誘しNTの同志に引き込んで、彼自身の真の目的であるシャアの探索に同行させ、出来レースの赤いガンダム追跡を口実に、ソドンでいろいろなサイドを見て歩くようなロードムービー的展開でもいいんじゃないかと思っている(自分の予想通りシャリア・ブルとシュウジが実は通じているとか、あるいはマチュとシュウジが二人まとめてソドンのクルーになるなら「赤いガンダム追跡が口実なら、ソドンはどこにいってもいい」という設定は実にロードムービーに都合がいいと思いませんか)。そこから新世界秩序構築のための戦いに向かっていくとか…。
最終的に、NTが隣人を助け、善性で人類を導くような未来が見えるラストになったら、ちょっと斬新でむしろ良いのでは…と思う。
(2025/02/08 初稿)
(2025/02/12 追補1項追加、修正)
(2025/02/12 フォーマットを調整)
(2025/02/17 追補1項追加)
【追補】
■NTの感応は真偽を暴く…が■
先に、NTについては過去の作品が「相互理解できたところで、信念が曲げられずにうまくいかないとか、相容れないものは相容れないという絶望」を描いてきたと述べた。なので、本作でも「完全なる相互理解」は、人間を幸福にするものではない、という認識に至ることを描く必要はあるのかもしれない。そもそも、人間社会に「嘘」や「偽り」が必要なのは当たり前のことだ。他者への理解ではなく、時として嘘や偽り、そこから生まれる誤解こそが互いの心や、関係性を支えている。現実に私達は誰しも、自分の外に本当のことだけを言って、全てを明かして生きていくことはできないし、それのみによって社会を成り立たせることはできない。嘘や誤解があってこそ、上手くやっていけるものだ。
余談だが。ここまで書いて、庵野監督の「シン・仮面ライダー」に出てきた「ハビタット世界」概念を思い出した。心が溶け合った嘘のない世界らしい。またこれは「エヴァンゲリオン」に出てきた「人類補完計画」と同じではないかと、上映当時に揶揄されてもいた。
この両者には「雑多な人々の対立は、意識の同一化によって克服され、そこには絶対平和があるはずだ」という「妄想」があるわけだが、してみると、富野由悠季の「機動戦士ガンダム」は79年の時点でこれを通過し「NTの感応による意識の相互理解は、決して融和をもたらしたりなどしない」と真っ向否定していたのだ。ハマーンに至っては「心を覗くな」と激怒していた(「シン・仮面ライダー」でもルリ子が、嘘のつけないハビタット世界を「地獄」と評していた)。そのうえで、究極のNTは隣人愛を持ち、他人を救う人だと結論したわけだ。
これって、さすが富野監督というべきなのか、それともガンダムを通過した庵野監督が同じテーマに取り組んだのは当然というべきなのか。
で、ふと気がつかないだろうか。
鶴巻監督は「ジークアクス」のテーマのひとつは「本物と偽物」といっていたことを。それは「本当と嘘」ということでもある。
もしかしてそれはNTの社会論や、幸福論にも通じる話なのだろうか?
これまで、てっきり「本物」はポジティブで、「偽物」はネガティブというイメージでいたのだが、もしこれがNTの感応や、人間関係についてもいえることなら、心を偽ることは、時として肯定されるべきではないだろうか。
そう考えると、NTが他人と関係性を維持するというのは「相手の本心をわかった上でわからないふりをする」とか「相手の建前を本心として扱う」といった高度な心理的駆け引きが求められるのかも知れない。そこには自ずから「本当の親切」「嘘の親切」「本当の怒り」「嘘の怒り」等々の「言動や感情の真偽」が混在するだろう。そういやシロッコは、カミーユたちが生の感情を飛ばし合う品性を嘲笑し嘆息していたっけ。彼は虚偽の価値を知っていたということか? わからんw
するとNTにあるポジティブな希望というのは「互いの言動(思考)の本物と偽物、真実と嘘を超えた、隣人愛」なのかも知れない。
この想像は飛躍だろうか? でも、そういう結論に至るドラマが描かれるのなら、これはちょっと見てみたい。
(2025/02/12 記)
■NTが目指すもの■
この一節は「MAV戦術の存在意義を考える」の記事の後に記述しました。
「MAV戦術の存在意義を考える」を読んだ後に読むことを勧めます。
これまでの話を踏まえて、今回の物語のとどのつまり、シャリア・ブルらNTが、誰にも支配されないNTとして、理想へ向かう物語だと思っている。
その理想とは
ニュータイプは兵器ではない。
ニュータイプは人類の希望である。
ということだ。これがNTをポジティブに描くということになると思う。
そもそもファーストでNTが兵器化したのはアムロ・レイのためだったと言っても過言ではない。劇場版でシャアがアムロを詰った「君は自分がいかに危険な人間か分かっていない。 素直にニュータイプの在り様を示しすぎた」このセリフが示唆するところだ。逆に言えば、アムロが一年戦争に参加しなかった「ジークアクス」の世界では、NTはまだ兵器として危険視されるほどではないはずだ。
先述の記事にも書いた通り、戦後に吹聴されたMAV戦術は、NTの実力を隠蔽するためのシャアとシャリア・ブルとキシリアの情報工作だったのではないか、というのが自分の見立てだ。
フラナガンにしても、原作世界のような凶悪な研究者ではないのではないか、と考えている。少なくとも、シャアを抱き込もうとするくらいには、彼はザビ家べったりというわけではない。過日の記事にも書いたが、戦後のフラナガンスクールにしても、非武装中立のサイド6の民間機関であるならば、卒業生は軍隊に限らず社会のいろいろな場に送り出されているはずで、戦後のコロニー社会にはNTに一定の社会権があり、社会的には、フラナガンはその旗手のはずだ─少なくとも表向きには。
また、公的にはサイコミュ研究が禁止され、ジオン軍内でもまだNTの実存が疑われているような状況であれば、人体実験で強化人間を作ったり、という環境でもないのではないだろうか。
つまり「ジークアクス」の世界にはまだ(アムロが参戦しなかったことで)NTが単なる殺し合いの道具にされない猶予があると考えられる。
ここからNTたちが、ジオンや連邦、その他ニュータイプを利用しようとする勢力の圧力や策謀をかいくぐって団結し、人類の革新として新世界秩序を作ろうとする。その闘争こそが本当の主題ではないだろうか、と自分は考えている。
(2025/02/17 初稿)
(2025/05/27 改題)

