蘭 第2話 始まりと日常と
「明日テストだーー」
「今更仕方ないでしょ。」
ぼくの学校はもうテスト期間に入っていたけど、蘭の学校では大抵週明けの月曜日から始まる。
「今日からやるんだよ。今日、やんの。」区切るように僕を睨んで言う。
「なんでそんな天才がやるみたいなことするんだ毎回。」蘭を見る。
「って勉強嫌いだし、いろいろ考えていたし。」そういって首を落ち着かないように触っていた。なだめるみたいに、撫でるみたいに優しく。僕はそれに気がついて、どうした。と聞きたかったし反対に怖くて聞きたくない気もした。蘭がしゃがんでいるのに合わせて、顔を見ようとかがむ。蘭はうつむいていて、そこには初めて感じる重たげな空気があった。それはささいな変化なのかもしれないけどすぐにわかる。はっと何かを感じるのだ、そういう時。それは蘭が変わろうとしているサインみたいなものだと思う。蘭は嫌なことが起こると、そのたびにそこにいたくないという欲求で黙り込んで考えこむ。出口などないと知っているから。そうして純粋で無垢な僕らは変化してしまうんじゃないだろうかと思う。それがいい方向であるのか、いいことかとかそんなことはまだよく分らぬまま、ただ僕らはもがく。
蘭が首から手を放して、両手を頬についてふっと息をついた。
僕は、「期待」という強欲で、でもとても美しいものを人は容易く持ち、持っている事実を振りかざして生きていると思う。時にそれを掲げたことを恥じて、ときにそれによって生きる喜びを感じて。人間らしいや、と笑って愛することもある。エネルギーを発散し、当たり前のようにそれを掲げて走り回って、笑い怒り泣き、求め、受け入れる。他人と関わる間で音をたててはじけ、ポンとぶつかってみたり、ふっと道を変えて、突然すっと消えたりする。そういうふうにこの世界をずっとめぐり回っているもの。そこから僕はずいぶん前から離れていた。そして彼女も離れていこうとしているんだな、と気がついた。
しゃがんで、決して暗い顔はせず考えこむ彼女は、今なんだか世界の何かに気がつき始めている小さな生物みたいだった。どのくらいの人が気がついているだろうか。ぼくら子供が皆、ぼんやりとした鈍く幸福な淡い光に包まれているということを。幼いころ、学校から帰って地べたに寝っ転がって目を閉じているうちにことんと寝てしまったことがあるだろう。気がついたときには、日がぼんやりと周りに満ちて光っていて、窓からさしてカーテンと一緒に揺らしている。寝っ転がったまま目を細めてそれをぼうっと見る。その時感じる何か、あの光のようなボヤッとした温かで、ゆらり動く魅力のある光。とても自然な色と温度。それは僕らを陽炎のようにゆらっと囲って、たぶんいつからか僕らの中に入り込んで守って、僕らの何かを保つ。蘭はその光におおわれて囲まれ、守られることを拒もうとしてるのだと思った。その存在に気がついて、クルクルと丸めて前にもってきて、そのすがたの正体を見て「いらないの君。ごめんね、ばいばい。」と言って別れることに時間を要しているみたいだ。僕は不安だった、悲しいことが始まっていくのではないかと感じて。嫌な予感、悲しい予感を蘭といると目の当たりにする。僕らの持ってるはずのものに気がつき、僕らがそれを捨ててきたことに気がつく。
試験終わりで部活もなく早く帰ったある日、蘭がノートだとかを買いに行くというから、僕も一緒に行くことにした。買い物を済ませてスーパーの外に出ると、空は澄んでて日はひたひた満ちていた。
「うわーー」
「すげーー」
「気持ちいなー」
「気持ちいー」空とその太陽は馬鹿みたいに大きくて広くて、圧倒的な温かさをもって照らす。そのだだっ広い駅から家にかけて幾度となく歩いた通りの上で、僕らは照らされ、蘭は跳ねたり踊ったりした。蘭がこけそうになって、僕は地面に座り込んで笑ってしまう。自由を喜ぶ笑顔と明るい空気を広げる笑い声が僕をくすぐっていた。
晴れた土曜日の午後、窓から蘭がしゅーんーーーと僕を呼び、開け放した窓から僕は顔をのぞかせた。蘭は窓枠に肘をのせて僕のことを見て本を渡した。
「蘭、昨日ケンカしたんだって?」受け取りながら僕は尋ねる。
「うん。」蘭が下を見てぼそりと言った。
「別に怒ってないけど」僕が言う。
「だって何も分かってない他人がさ、私が秘密主義みたいな感じだからって、友達のこと好きじゃないんだろう。とかって言ってきたんだもん。黙っててよ?」ぼくはああと言った。僕にとってもそれは難しいことだった。どうやったらそんな僕らの周りに起こってることを簡単に話せるんだ?それが何かいいことを起こすだろうか。
「そんなこと言って何になるんだ?分かってる、どこか偏ってること。多分もっと頼ったり、話してみたりしたらいいこと。でも解決になるか?私は悩んでる時、本当に答えが知りたいんだ。ここにいて解決しなきゃいけないものは、ここにいて向き合わなきゃいけないだろう?だってここで全ては始まったんだからさ。友達をも巻き込んだらね、どんどんドロドロが広がってくだけじゃない。その様子が目に映るんだ。ドロドロって床に広がってくんだ。頼る限度が分からない、求めすぎて苦しくなる。見失っちゃう。もっとぬかるみが広がる。友達は失いたくないよ、嫌だよいっしょにこんなぬかるみ見たくない。そんなふうになりたくないんだ。」不器用かなあと空を仰ぎ見て息をついた。
一人で進んでく、何かと関わらないで一人でやる、その感覚は僕も分かった。でも明るい蘭が一人でこんなふうに考えて選んでいるのは悲しかった。何かが間違っているような気がした。そして彼女がほんとうは笑っちゃうくらいの愛と、ありったけの明るい場所だけを渇望していることを知った。
「うん、一緒に笑いたいからな。」と自分自身に頷き、キュッと睨むように空を見た。
自分でも何がなんだかわからないまま、でもいつからか蘭の中には蘭だけの明るい明確なものがあり、それがあの墨から抗おうと心中を体中をただ駆け巡って、そしてもっと広がりたがってるみたいだ。
7月に遅めの梅雨がきて、それからしばらく雨は降らなかった。だけど昨日は一日中雨が降っていて、歩いている時に紫陽花がまだ咲いていることに気がついた。傘から垂れる雫がその花に落ちた時、それはその小さな花々の間にとどまった。
まぶしさで目が覚めた。昨日とは打って変わった晴天が窓の外に広がっている。風が気持ちいい、時計を見たらまだ6時だった。一体何をして過ごそうか、と考えていたら鳩がポックルポーと鳴いた。
蘭は眠っているだろうか?蘭は早朝に聞く鳩のこの声が大好きなのだ。理由を尋ねたら「とてつもなく良い時が、朝が、私の一部に在ることを確かに思い出すんだよ。」と言った。その時の彼女の歩き方とあの空の感じを覚えている。多分、父親との思い出なのだと思う。
おもむろに机の方に手を伸ばして手に触れた消しゴムを軽く握って彼女の部屋の窓に当てる。跳ね返った消しゴムは変な方向に帰ってきた。「蘭」と呼ぶとカーテンが開いて、まぶしそうに僕を見た。蘭は起きていて、ぼうっとしていたみたいだった。窓が開いて
「なに?」と尋ねる。
「散歩行こう。ルナと。」と言うと、蘭は嬉しそうに笑った。
足音を殺して下に降りると、いい予感がしていたのかルナはハッハッと笑い、嬉しそうに僕の顔を見つめてきた。サンダルをつっかけて外に出ると、ルナが嬉しそうに目を細める。僕は朝の中にいることを心地よく感じる。蘭がティシャツ姿で出てきて、ルナが鳴いた。蘭の表情か何かが少し違うのがわかるのか、蘭の方に静かに近づく。僕が心配になって顔をしかめているうちに、ルナが蘭の膝の上に足を乗せて笑顔をふりまいていて、蘭は笑っていた。僕は思う。物事が全てシンプルであればいいのに。蘭がルナを優しくなでて、「行こう。」と言った。
ハトが歩いていて、緑は揺れる。昨日とは打って変わった天気で、僕ら二人とも風が吹くと心地良さで笑いそうになる。蘭が笑う。僕が笑う。ルナが横を走り、楽しそうに僕らを見る。こんなふうに気持ちのいいことの前でだけ、大事なことに気がついて成長できないのだろうかと思う。できるのだろうな。でも僕らはたぶんそうするには少し傷つきすぎている。今じゃなくて、遠く先に目を向けることでしか進めない悲しみや孤独をもっている。
蘭はやたら緑の方を見ていた。ルナは、いつも何度も目を合わせてくる蘭が今日は自分を見ないから泣く。僕はそんな蘭を見て悲しさを覚えて、
「蘭」静かに呼ぶ。
「うん」と蘭が僕を振り返る。
「何があったの」
「んーんないよ。」
「あのさ、蘭。愚痴とかさ、悪口とか不満とかそういうもの話すの僕ら好きじゃないけどさ、蘭は話さないと。だってそれは愚痴とかじゃないんだ。蘭の悲しみで、苦しさで、持ってるのがしんどいものなんだよ。話さなければそれらは沈んでいってしまう。それに、それと自分の中にただ抱えとくべきものとの違いが判らなくなる、判別できなくなっちゃう、そんな気がする。全部抱えるようになってしまうんだ。ねえだからさ、試してよ。」蘭はしばらく黙っていた。緑は揺れて、風は薄く透けた水色で吹いていた。
「うーーん、分かんないけどさ。ほんとに何もかもよく分からないけど、ただなんか漠然と今はこういう風にしてるしかない気がして、馬鹿みたいにこうやってあがいてる。進んでいる、と思う。とにかくね、ただ下を見るくらいなら真上を見たいの。少しでも下を見ていたくないんだ。下を見て歩くくらいなら、ずっと空を見て歩くよ。」ぼくの方を見て少し笑った。蘭がやっとルナのことに気がついたから、ルナは嬉しそうに尻尾を振った。
14歳のころ、中学三年生になった僕らは一緒にいることが当たり前で、お互いのこともよく話した。心の大事なところを知っている、共有しているような感覚があって、僕の急に見つかった双子の片割れみたいな感じがした。なんだかすごく不思議で、ただとにかく当たり前に一緒にいた。だけど同じような影を持っている彼女といても暗い方に沈んでいかなかった。彼女は相変わらず悪口も、だれか他人の噂話もしないし不満も言わなかった。誰かがそういうことを話すと、「そんなこと話すの、くだらない」とどうでもよさそうに言う。誰かといてもそんなに話す方ではなかった僕は、彼女とだからいろんな話をしていた。僕らはいろんな話をし、笑い、一生懸命に歩いていた。
