蘭 11話 別れ、
僕らは高校一年生を終え、短い春休みに入っていた。サッカー部の練習がない今日、僕はぽうっとあたたかさが灯るような中でギターを弾いて過ごしていた。その日、複雑なコードに苦戦して楽譜をみながら顔をしかめていた。開け放した窓から、蘭の声がする。
「おーーい図書館行くけど行く?」ぼくの部屋のカーテンから顔をのぞかせる。
「あいいね。」
「30分くらい待つね。」と蘭が言い、部屋へ戻った。
蘭が夏と付き合うようになってからも、僕らの関係はさほど変わらなかった。夏が僕に、「君ら双子みたいな、魂が手をつなぎあってる、みたいな感じじゃない。そんなのって見たことないし、僕君らのこと好きなんだ。必要なんだ、君らは互いが本当に。」と不思議な表情をして言った。楽しそうにも見えたし、目は満ちて潤っているように見えた。夏は何か新しいことを知っていっているんだろうなと僕は思った。「何か言おうとは少しも思わないんだよ、ただ、思わない。僕は君のこともすごく好きなんだ。それにもしそんなことに何か言ったってさ、ラン、ふーんと言ってあの透明な目で見てデコピンか何かしてくるんだよ。さも訳が分からないみたいな顔で。」と言って笑った。とても柔らかく。
僕はギターを立てかけて、Tシャツを脱いでシャツを着る。下はグレーのスエットパンツのままで、机に積みあがった薄い本をいくつかつかんでリュックに放り込み、部屋を出た。ルナがいい予感がするのか立ち上がって階段の下から僕を嬉しそうに見上げていた。ルナに違うんだよ、と笑いかけてサンダルをつっかけて外に出ると、蘭はもう外にいた。
「気持ちいいね―今日」蘭が笑う。
「春休みももう終わるね。」
「早いなーー」目を細める。心地よさそうだった。
「蘭は何してるの春休み。」
「んーー本読む、夏や友達と会う。バイトする。そんなとこよ。」
「それで本を返さなきゃいけないんだな?」
「そういうこと。まだ期限は過ぎてないよ。しゅんだいぶ返しに行けてないんじゃない?」
「そう。でも返却ボックスで返すの嫌なんだよ。ちゃんと図書館まで行ってあそこを歩きたいし、新しいの借りたい。」図書館の少しひんやりとした空気の中靴の音を聞いて歩きたかった。涼しいなと心地よく目を細めたかった。
「分かるよそれ。だから私たちいっつも行くもんね。しゅん君行きましょーっていつも誘うんだ私。しゅんがそろそろ過ぎるんじゃないかってタイミングで。」
「そうそう、助かってるよ。」ぼくは笑って言った。
「でも別に知ってるわけじゃないんだよ。ただ行きたいな、行くかって時、だいたいしゅんが行かなきゃいけない時なの。さすが長い付き合いだね。」といってイヒヒと笑う。僕も真似するように愉快に笑ってみせた。
蘭が過ごしやすそうに、心地よさそうに見えるから、僕は何かいいことがあったのかなと思う。
「蘭なにかいいことあったの?」
「ん?そんなことないよ、でも過ごしやすい。なんか最近。」
「うん、だよね。感じる。」
「あはは本当!それはうれしい。」と蘭が笑う。
僕らは話しながら畑を過ぎ曲道を曲がって、公園とコンビニの並ぶ道を歩いていた。太陽の向かい陽が僕らを照らす。
反対側からやってきた見慣れた人に見覚えがあって、誰なのか目を凝らして考えている間にその人は通り過ぎた。僕は振り返ってその人をもう一度見て、蘭の母親だと気がついた。
「今の人、お母さん?」
「ん?そうだったね」
「話さないのか?会っても一言も?」たまたまあった時に一言ハイってあの蘭の軽く弾むような言い方でいうこともないのか? 僕は蘭を真っすぐ見る。
「そうだね。」蘭が斜め下を見てほんの少し微笑んで言う。僕はそれ以上何も言わず、指さしていた手を降ろした。
図書館は少し冷房が効いていて、涼しかった。蘭は本を探しに行って、僕は本を返しに行った。本を返却口で返して、僕は借りる本と読む本を選んでいたはずだった。ただ本を手に取って、重みを確かめるようにしながら、ぼくはぼんやりとさっき見た蘭の母親が僕らを通り過ぎた時のことを、思い出していた。
夕が暮れはじめ、薄暗さと濃いピンクの混じった空が僕らの頭上に浮かび上がっていた。どちらからともなく顔を見合わせて本を取って席を立つ。
ペタペタと僕らのサンダルが子供っぽい馬鹿な音を出す。それで中学三年生の時に図書館に通っていたころのことを思い出した。僕らは高校二年生になっていて、あの頃と背も色も変わっていた。あるいは幾十にも重なっていた。外に出ると心地いい風が吹いていた。僕だけが自転車を押してきたから蘭はその横を歩く。川の横で景色が反射して揺れる様子を見て、蘭は鼻歌を歌いながら弾むように、でもただ歩いていた。
「蘭。一人で進んでったら、だめだ」ぼくは唐突にそういった。
「どういうこと?」少し大きめのシャボン玉が宙に放たれるみたいに言う。みずみずしい声と、蘭のあの透明な目が僕を見る。
「お母さんと話してない状況は良くないだろう。あの人とは違うよ。悪い人じゃないだろう。蘭を助ける」今じゃないかもしれない、でも、いつかは助けるから。願うような気持でそういった。あの家の中、一人でいてほしくなくてそういった。そういうふうに過ごしたら、蘭がどう思われ言われるのかも怖い、想像するのも嫌だった。
「しゅん」蘭の目が揺れる。青く大きく。
鋭く、悲しい声がした。
こんなに傷ついた顔を、ただただ悲しみに満ちた蘭の顔を、見たことがなかった。叫んでないのに、どこまでも深く濃い青い声。しばらくして僕は、ただ僕の存在を感じてほしくて、自転車の後ろに乗るか尋ねることしかできなかった。
「うん」と言った蘭を自転車の後ろに乗せて、ぼくは自転車をこいだ。蘭はきつく僕のシャツを握っていた。
「もっとしっかり掴まらないと。」ぼくは冷静になって蘭にそういった。
「ああ、うん。」と言い蘭が僕の腰につかまって、頭を背中によりかける。いつもと同じように。なのにいつもよりも蘭の頭が重く、熱っぽく感じるのは気のせいだろうか。ぼくのシャツは風で膨らんだけど、蘭がいるから真ん中だけへこんだまま横だけが広がる。蘭が僕をうしろに乗せようとしたのに倒れそうになるから、僕がすんでのところで蘭を抱えたどのくらい前かのことを走りながら思い出した。抱えた蘭は大笑いしていて、僕は凄く焦っていた。大笑いしていた蘭だけど、最初に凄く焦って怖い想いをしていたことに僕は気づいていた。
スイと音をたてて自転車を飛ばし、大きな桜の木のある家を通り過ぎた。
「不器用だからこれでいいの。」その時蘭は凛とした声で静かにそういった。ぼくの空耳ではなかったと思う。
僕らの家の前までつき、蘭が自転車から降りるのを待って、僕は自転車の籠の中の本を彼女に持たした。蘭は笑って手を振り、家へとひらりと揺れるように入った。いろいろな青でできたボーダーのクロップド丈の服と、濃い青のリーバイスのワイドパンツという出で立ちで笑って手を振る蘭が新学期が始まってしばらく、僕の頭から消えなかった。
新学期が始まり、新しいクラスといえどたけると同じクラスだった僕はただサッカーに没頭していて、それ以外は蘭のあの日別れた時の姿と、しゅんと僕の名前を呼んだ声の青さのことを考えていた。ただそれが僕の一部に刷り込まれていくみたいに、何度も青が透ける。
部活がとても忙しくて、毎日毎日ひたすらボールを蹴っていた。汗をかいて、走って、叫んで。僕は成長していくごとに、運動するときに正常にエネルギーを吐き出せるようになっていることに気がついた。運動することそれはどんどん自然で、気持ちのいい作業となっていった。さっぱりとした、涼しい気分になる。それをただ当然のように没頭して繰り返しているうちに、僕の頭の意識は一つのことに繋がっていった。
ある日、僕は放課後図書館の椅子に座ってただぼーっとしていた。風は心地よくて、窓の外では緑が揺れている。徐々に何かがクリアになっていく感覚の正体を追ってるうちに、僕が来るのは図書館なんだなと緑を見て思った。僕は分からない。蘭が何度声をあげたか。目をみつめ話し、助けを求め、試したのか。泣いて何かがこぼれて、その音を一人聞いて、こぼれていくのを目で追っては、ごぼごぼと溺れてくずれていく。暗く濃紺のぐちゃぐちゃの感情と粘り気にまみれて、それをそのたび一人で飲み下し、拭ってきた瞬間を。
どんどんと静かになっていき、軽やかになっていった蘭を前にしているうちに、なんだか忘れていっていた。想像できなくなっていたのかもしれなかった。
忘れる、薄れる、ということに寒気がした。ぼくだけは覚えていると思っていた。僕だけは忘れてはいけないと思っていた。僕ら、たぶん誰よりも知っている、心地のいい信頼しあえる関係を。それがどれだけ大切で、どんなもので、どれだけ美しいかを。そしてそれをきっと母親との間に持とうとして、うまくできずに冷静でいられなくなる、抜け出せられなくなってしまうことを蘭は知った。だから進んだ。いつも何かをぽいと捨てて、頬を拭って振り返らずに一人でとっとっと歩き始めるではないか。そうやってやってきた蘭はそれでも今居心地の良さを感じ始めているのだと思う。
罪を、孤独を感じて、すがり、重ねるより幾分も気が楽で自由だから。なかなか抜け出せず、諦められなかった場所から一人でやると決め出たとたん、頭は軽くなり、風を感じれるようになるだろう。世界は広がるだろう。二人でいる孤独の方が幾倍も憎い。辛い。どろどろだ。納得して何かを手放し一人になる軽く楽な感覚をぼくも知っているのに。そしてあれは、抜け出し、本当に進むための唯一の方法じゃないか。
だけどあまりにも悲しかったのだと思う。泣くことも、頼むこともなく本当に一人になっていくのなら。僕は今更、僕らじゃない何かが変わるようなハッピーエンドでも期待したのだろうか。何かきっと大切であるものを捨てて、手放すことでしか蘭でいられない事実。僕らが僕らでいることが難しい環境を、蘭となにかを引き裂いた強烈な要因を、僕は心から恨めしく思っていた。傷ついた、あの時、そんなふうにやってきた蘭を見て。痛いほど切ない気持ちであの光景を見てしまった。だけどそれは赤の他人が捉えるのと同じ見方で、だからその時、蘭は青い声を出した。
蘭の学校は泊まりで外へ一週間、毎年新学期が始まってすぐに行く。ぼくは今日やっと部活が休みで、夕暮れの中ベッドで本を読んでいた僕は彼女のけたたましくなるスーツケースの音を聞いて起き上がり、ベランダの上から蘭におかえりと言った。蘭はただいま、と言った。その夜僕らは散歩をした。
僕は蘭にごめんと言うのは違う気がして、何を言いたいだろうとゆっくり考えていた。蘭がそんな僕を笑うように見た。
「私ね、少し前一回思ったのよ。どうしてこんなにずっと変わらず理不尽なことを嫌って、許さずそこに浸からないように染まらないようにキュッとした目でいるのかなって。とても疲れるのに、ハードなことなのに。」ぼくは蘭をみて静かに聞いていた。
「私は気高い生き物なんだと思ったの。」頬に目に、眩い光を浮かべた。
金色がぴかぴかと彼女の周りを舞った。僕は何かを伝えたいという考えなんて忘れてしまって、ただ彼女を見ていた。
「すごく頑張ったの。すごく頑張っていたんだ。ずっと頑張ってきたの。前ね、お母さんと話していて、また同じことが繰り返されそうになったの。それで私、もうやめようと思ったの。私はここには少しも浸からない。それでいい、だから何かを私が出来ないと、思わせないでくれればいいやって。もうそれだけを、望む。そして私はそれでいい。もう押し付けられること、思い込まされること、何かを見せつけられるのにはこりごりなんだ。それはだめだよ。それだけはね。だから、ごめんと気持ちよく言ったの。大丈夫だよ、もう大丈夫。今までごめん、心配しないでって。ちゃんとそう思えたから真っすぐ言ったのね。そう伝えたんだ。」
「知ってる?私は気高い生き物なの。だから、なんて言うの、それだけ。全部、大丈夫なの。助けなんていらない。ちょっと触れられないくらい光ってて、眩いみたい。そう思った時、ずっとほしかった答えを見つけた気がしたの。ハッとピタッと、全てが当てはまってふって軽くなって、誇りに思ったよ。涙が出てしまった。」
光る。満ちた笑顔でいたずらっぽく笑った。
「未来にね、お母さんと気持ちのいい優しい感情で会いたい。それがあるんだよ。どうしてもそうしたいから。昔の記憶とか温かいの、あるんだもの。今は一緒にはいないよ。離れるよ。また頑張って勉強して考える。そしてどこかへ行くよ。優しい人なの、でも多分すごく弱いの。この前初めて一度ゆっくり話をされた。初めてあんなに話を聞いた。全然理解できなかったけど、今の私には。でも分かった、ああ、考え方や強さが、どうしようもなく違うんだって。でもいいんだ。私はあの人のことを嫌いになりたくないんだよ。だから私はうんと強くなるよ、それで優しくなるの。これが私のやり方なの。不器用でしょう、たぶんまだ偏っているでしょう。だからこういう風にしかできない、それでも信じている。」
目を伏せて笑う。彼女は発光していて、まつげだけが頬の上に淡い影を作っていた。
