悪口の美学(5月エッセイ③)
悪口を言うことは好きか嫌いかで言うと、好きである。嫌な出来事があった時に、最初はムカついても、あとでこれを人に聞かせることができると思うとワクワクしてくる。悪口を言って人と仲良くなった経験も一度や二度ではない。ただし、悪口を言う際には気をつけているマイルールが大量にある。悪口を言っている人に対してもそのルールを適用して、「ん?」と思ってしまうこともしばしばある。
例えば、「なんであんな人が結婚できるんだろうね。」という悪口を言う人。なんて傲慢な態度なのだろうと思う。「あんな人」がいかにムカつく人間で、人を不幸にしていて、過去にされたことを許せなくても使うべきでない言葉はたくさんある。そういうことを言うと、「思っちゃったんだから仕方ない」という反論が聞こえてくる。思っただけならまだしも、本人や内輪の人間に向けて言葉にしてしまっているという点で、「思っちゃったんだから仕方ない」という言葉には論点のずらしがある。本当に思っただけなら、墓場まで心の内にしまっておく必要があるだろうと思う。
結婚できること自体に疑問を呈するという形を取ると、悪口の範囲が「あんな人」の配偶者や子どもたちにまで及ぶ。「あんな人」の夫/妻、「あんな人」の息子/娘という風に不要なレッテル貼りが広がっていく。
自分から見えている人間像は、あくまで一面でしかないはずで、家族や他の人たちからどう見えているかまでは分からない。
もし仮に「なんであんな人が結婚できるんだろうね。」と言っていい人がいるとしたら、家族しかいない。家族ではないにも関わらず、「なんであんな人が結婚できるんだろうね」と言うのは想像力の欠如した発言に見受けられる。家庭でも同じような振る舞いをしているとは限らないし、嫌いな側面がご家族にとって気にならなければ問題ない。また、嫌いな側面をひとつ取り上げて、結婚できる/できないを勝手に判断することは、いささか個人的な領域に踏み込んではいないだろうか。安直な憶測で物申す態度は傲慢で、「私なら結婚相手に選ばない」という透けて見える本音は思い上がりも甚だしい。
それにもし、嫌いな人間が、孤独とは無縁で、誰かと共に生きているというのなら、それはある種の希望である。
悪口は自分が持っている立場の範囲を超えてはならないと思う。例えば会社だったら「あんな人」に対する上司/部下/同僚といった関係性の枠組みにおいて限られる。
「私は夜遅くまで頑張っているのに、同僚は毎日定時で帰っていて不公平だ。」
こういった悪口であれば、自分固有の立場で言えることであるから範囲を逸脱していない。それを「ブサイクのくせに合コンばっか行ってんじゃねえよ。」くらいまで行ってしまうと、悪口検察官のご登場である。
まず、「ブサイクのくせに」は明らかに不必要な容姿いじりである。悪口の対象範囲である”同僚がまともに仕事をしないこと”とは関係のないルッキズム的な差別発言である。次に「合コンばっか行ってんじゃねえよ」に関してだが、別に行ってもいい。以上の証拠をもとに、この発言の当事者は私の心の中で起訴される。
もし仮に自分が悪口を言うのであれば、「全然自分の仕事が終わっていないのに、遊びにばかり行ってるのって許せないんですよね。上司に相談しようかな。」などになる。”ブサイクであること”と”遊びに行くこと”を紐づけて悪口を言っても、自分の立場の方が不利になるし、まともな聞き手からの共感は得られない。同じ仕事をする立場の人間として不満があるという言い方であれば、悪口でもあり、建設的な提言というフリもできる。
悪口を言うこと自体に善し悪しはあまり決めたくない。人は誰しも不満を誰かに聞いてほしいと思う生き物だからだ。ただ、悪口を言う時には本当に嫌いな部分を、適切な言葉遣いで批判することが必要だと思っている。正しい批判で、しかも聞いている人が笑えるように悪口を言っている人を見ると、話が合いそうだなと思う。
