短編:時を渡る手帳
◉風まかせ文芸部【手帳】参加作品
──1937年、パリ。
骨董商の息子ジュリアンは、店の倉庫で埃をかぶった一冊の革表紙の手帳を見つけた。飴色の革はひび割れ、金の留め具は半ば錆びついている。
開くとほとんどのページは真っ白だった。だが数ページだけ、古びたインクで日付けと出来事が記されていた。
──1937年10月14日、サン・ミッシェル広場で見知らぬ女性とぶつかる。彼女の名はクレール。
だが今日は1937年10月10日だ。奇妙な予言のような記述を、ジュリアンは笑い飛ばした。しかしその日、広場へ足を運ぶと本当に一人の女性とぶつかった。
栗色の髪、澄んだ灰色の瞳。驚いたのは彼女も同じで、持っていた小さな手帳を取り出すと、同じく「ジュリアン」という名前が書かれているページを見せた。
「どうして、あなたの名前がここに?」
「それはこっちの台詞だ」
二人の手帳は、表紙も留め具も瓜二つだった。互いの手帳を見比べると、未来の日付けと出来事が、二人のものではない筆跡で書き込まれていた。手帳は日が経つにつれ、新たな文字を増やしていった。
──11月3日、ルーヴル美術館で警備員に呼び止められる
──12月21日、初雪の橋の上で口づけを交わす
記述はすべて現実になった。偶然とは呼べない一致が続き、やがて二人は運命を信じ始める。だが、書き込まれたページの終わりで日付けは1940年に飛び「この日、二人は別れる」とだけあった。
抗いたくても、記された出来事は避けられない。むしろ回避しようとすればするほど、別の形で実現してしまう。
月日は流れ、やがて戦争の影がフランス全土に広がった。クレールは抵抗組織へ、ジュリアンは徴兵されることとなった。
そして別れの日、駅のホーム。
クレールの手帳が光を帯び、最後のページが勝手に開いた。次の瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
ジュリアンもまた、自分の手帳を握りしめていると、光の中から異様に鮮明な情景が流れ込んできた。
空を覆う灰色の煙の中、崩れたビルの谷間を一人の青年が歩いている。足元には瓦礫と、かつて通りだった場所を覆うひび割れたコンクリート。
遠くでその姿を見つめる少女がいる。顔は見えないが、黒い髪が風に流れ、手に革表紙の手帳を握りしめていた。
頭上を、飛行機のような金属の物体が耳をつんざくような轟音を発して横切っていく。その音が二人の胸の奥を震わせた。
その光景は息が詰まるほど鮮明で、現実との区別がつかないほどだった。
やがて、光が緩やかに消えていくと、ホームに喧騒が戻ってきた。
「今の……見た?」
クレールが息を呑む。ジュリアンは頷いただけで、何も答えなかった。そこからは会話もなかった。
それぞれが逆方向に進む列車に乗ると、汽笛が鳴り響く。手帳は別々の道を進む彼らの胸の前で静かに閉じられた。
──2025年、東京。
大学生の彩は、骨董市で古びた革表紙の手帳を手に入れた。翻訳アプリを片手にページをめくると、フランス語で1920〜40年代の出来事が記されている。知らない人物名、戦争の描写、そして記された「別れ」の後に、最後の一文を見つける。
──この手帳を見つけた者へ。
私たちは、時を越えて再び会えることを信じている。もし可能なら、次のページにあなたの物語を書いてほしい。それが私たちの未来へと繋がり、あなたの未来をも教えてくれるだろう。
彩は半信半疑で、ペンを走らせた。
「2025年10月7日、図書館に行く」
そう書き終えた瞬間、文字の下から薄く別の行が浮かび上がった。
「図書館であなたは見知らぬ青年と出会う。彼はあなたの名を知っている」
翌週、大学の図書館で本を探していると、棚の陰から青年が現れた。
「探してる本ってこれですよね? 彩さん」
彼は微笑みながら、彩が手帳に書いたその本を差し出した。胸の奥が凍りつく。
「どうして……私の名前を?」
「それは……」
青年はポケットから、同じ革表紙の手帳を取り出した。その瞬間、彩の脳裏に説明できない映像が見えた気がした。
──灰色の空、崩れたビルの谷間を歩く青年。遠くからそれを見つめる少女。手に握られた革の手帳。上空を飛ぶ戦闘機。
それはまるで既視感のようだった。
そして青年の手帳には、彩がまだ知らない未来の日付けが、いくつも書き込まれていた。
時を渡る手帳は、時代も国境も越えて所持する者の手を渡り歩く。そこに書かれた未来を受け入れることはできても、抗うことは難しい。
だが、その選択こそが次の物語を紡ぎ、次の持ち主へと繋がる。最後のページには、まだ誰も触れていない空白が残されている。
それは、これを手にした者──つまり今、これを読んでいるあなたが記す未来のために。
