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短編:焼きたての朝

◉風まかせ文芸部【焼きたてのパン】参加作品

 土曜の朝、外はまだ薄く霧がかかったような冬の空気だ。ベッドの中で、僕はふんわりとした香りに包まれて目を覚ました。甘くて香ばしい、どこか懐かしい匂いだ。
「……パンの匂い?」
 枕元で丸くなっていた愛猫のエルを押しのけて起き上がると、キッチンから母の声がした。
「そろそろ起きなさーい」
 眠い目をこすりながらリビングへ行くと、テーブルの上のバスケットに丸いパンが並んでいた。表面はつやつや、小麦色の焦げ目が美しい。湯気がゆらゆらと立ちのぼるのが見えた。香りが鼻をくすぐる。
「焼きたてだぞ」
 父が誇らしげに言った。エプロンをしている父の姿は、普段のスーツ姿と違ってなんだか不思議だ。
 最近、週末だけパンを焼くのが趣味になったらしい。平日は帰りも遅く、話す時間もあまりないけど、このパンだけは「俺の担当」だと宣言していた。
「今日は全粒粉とくるみ入り。お母さんのリクエスト」
 父がそう説明すると、母は笑いながら紅茶をカップに注いだ。
「だって健康にいいって聞いたから。ほら、あんたも食べなさい」
 まだ熱いパンを手で割ると、ふわっと立ちのぼる湯気とくるみの香ばしさが広がった。
「……うまっ」
 思わず声が出る。父は「だろ?」と得意げにうなずいた。
 平日は父も母も忙しいし、僕も部活や友達付き合いで家にいる時間は少ない。我が家でこうして全員が揃って朝食を食べられるのは、週末の朝だけだ。
「そうだ、この前おばあちゃんにパンを送ったらな『やさしい味だね』って電話くれたんだ」
 父がふと思い出したように言った。
「きっと懐かしかったんだろうね。お義母さん、昔よく焼いてたもんね」
「え、パン作りっておばあちゃんから習ったの?」
 僕は聞き返した。
「いや、教わったわけじゃない。子どもの頃、母さんが焼くパンが好きだっただけだ。今になってあの味をもう一度作りたくなったんだ」
 父の声は少し照れくさそうで、どこか遠くを見ているようだった。母は静かに頷き「いいね、そういうの」と小さく言った。
 午後になり母は仕事へ、僕は友達と出かけた。夜帰宅すると、リビングの隅にこね台と粉まみれのボウルが置きっぱなしになっていた。
「食べるだけじゃ申し訳ないしな」
 僕は片付け役を請け負った。

 翌朝、まだ外が暗いうちに目が覚めた。キッチンから、一定のリズムで生地を叩く音が聞こえる。覗くと父が黙々とパン生地を丸めていた。
「手伝おうか?」
 僕が声をかけると、父は少し驚いて笑った。
「じゃあ、これ丸めてみろ。優しくな」
 指先に伝わる生地のやわらかさは、まるで生き物のようだった。
「なんか、あったかい」
「そうだろ。こうやって、誰かのために何か作る時間っていいぞ。お前もいつか大事な人ができたらやってみろ」
 何も答えられなかったけど、その言葉は胸の奥で静かに温もりを広げた。焼き上がったパンをテーブルに並べると、ちょうど母が起きてきた。
「おはよう。あら、今日は二人で焼いたの?」
「そう、俺たちの合作」
 父が言い、僕は照れながら頷く。
 母はパンをちぎり、一口食べて何度も頷く。
「うんうん、やさしい味」
 その一言に、父が小さく笑った。僕は多分、その笑顔を一生忘れない。
 父がおばあちゃんの味を思い出して焼き始めたように、いつか僕もこの匂いと温もりを思い出す日が来るのかもしれない。その時、僕の手のひらにもきっと、今日感じたやわらかさが蘇るのだろう。

 湯気の向こうで笑い合う父と母。その向こうで猫のエルが目を細めている。窓の外は冷たい冬の空気に包まれているけど、家の中は焼きたてのパンの香りと家族の温もりで満たされていた。

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