短編:星のみかん
◉風まかせ文芸部【みかん】参加作品
丘の上の小さな村では、冬が終わりを告げ始めるころ、毎日のように深い霧が降りてくる。白い霧は音を吸い込み、近くの鐘の音さえ綿の中に沈めてしまう。
そんな季節でも、村はずれの温室にだけは太陽の匂いが残っていた。温室を守っているのは、ミリヤという少女だった。
彼女の家系は代々「星のみかん」を育てている。普通のみかんと違い、その皮にはうっすらと金色の筋が走り、夜になると空の星を写したように淡く光る。
言い伝えでは、“失われた道を思い出させる果実”だという。迷った者が食べると、自分が本当に帰りたい場所を思い出すのだと。
ある霧の深い夕暮れ、温室に一人の旅人が迷い込んだ。草色で幅広のつばがついたとんがり帽をかぶり、同じ色の長い外套をまとっていた。とんがり帽にはハゲタカの羽根を一本刺している。
荷物は背負ったリュックがひとつ。心なしか、目は疲れた冬の色をしていた。
「道に迷ったようだ」
それだけ言って、彼は温室の椅子に腰を下ろした。ミリヤは何も聞かず、星のみかんを一つ、丁寧にむいて差し出した。皮をむくと、甘くて懐かしい匂いが広がる。旅人は一房口に入れ、しばらく目を閉じていた。
やがて、彼の表情がゆっくりほどけていった。
「……風の音がする」
彼は小さく笑った。
「川辺の橋の上で釣りをしながら、誰かを待っていた気がする。名前や顔は曖昧だけど」
霧はまだ外に満ちていたけれど、旅人の中には確かな一本の道が戻ってきたらしかった。
翌朝、彼は礼を言って村を去った。ミリヤは温室の窓から、その背中が霧に溶けていくのを見送った。
彼は唄っていた。その唄を、ミリヤは知らなかったのに、なぜか懐かしさを感じた。
『雨に濡れ立つ~♪ おさびし山よ~♪ われに語れ~ 君の涙のその訳を~♪』
少し胸がきゅっとしたけれど、悲しさではなかった。彼の帰る道が、ちゃんと見つかってほっとしたのと同時に、胸の奥に小さな空洞が残ったのだ。
その年の冬、星のみかんはいつもより甘かった。その甘さは、誰かを見送ったあとの静かな温もりにも似ていた。
まるで誰かの思い出が、そっと実の中に溶け込んでいるかのように。
