短編:灯りのない夜に
◉風まかせ文芸部【光】参加作品
部屋の窓から夜景を眺めていると、時折ふと考えてしまう。高層ビルの窓、道路を照らす街灯、遠くを走る車の尾灯……煌めく光のひとつひとつが、電力という目に見えないエネルギーを消費しているということを。
その量はきっと、僕らが想像しているよりもずっと膨大なものなのだろう。スイッチを押せば部屋は明るくなり、充電器を挿せばスマートフォンが息を吹き返す。
そんなふうに電力があることが当たり前だと思って生きてきた。失った時のことなど想像すらせずに。
だが僕は一度だけ、それが当たり前ではない世界に立ったことがある。
あれは秋も深まった日の夜。その木を初めて見たのは、ほんの偶然だった。
夕暮れの川沿いを歩いている時、堤防を挟んだ公園に一際大きな欅が立っているのを見つけた。
幹は人が三人がかりで抱えても足りないほど太く、褐色の皮は幾重にもひび割れ、そこに悠久の風雨が刻み込まれている。
根元には苔むした小さな祠が寄り添い、静かに木を守っているようだった。案内板には「推定樹齢二百三十年」とある。そんな昔からずっとここに立っていたのか。その時はただ、そう思っただけだった。
そのまま河川敷を歩いていると、川面に青白い光が揺れているのを見た。何だろうと思い、その光に近づくと、耳の奥で低い唸りが響き、足元から世界を抜け落ちていくような感覚に陥った。
目を覚ました時、そこは見知らぬ場所だった。空はやけに広く、空気は澄んでいるのに、鼻腔の奥に乾いた土と藁の匂いが入り込んでくる。
遠くに低い茅葺き屋根が並び、畦道を牛がゆっくりと歩いていた。
誰かに話しても信じてもらえず、あれは本当にあったことなのかと、自分の記憶までも疑ってしまうような体験だったが、僕は江戸時代にタイムスリップしたことがあるのだ。
後の調べでわかったことだが、そこは寛政五年、西暦で言えば1793年。時の将軍、徳川家斉の治世だった。
タイムスリップ直後は状況を理解することができず、僕はとにかく人を探した。
だが、見つかったのは耕作に励む農夫や、川で洗濯をする女たち。見慣れない服装の僕を一目見るなり、眉をひそめ、目を逸らす。中には子どもを抱き寄せるようにして遠ざかる母親もいた。
数件並んだ家の外から声をかけても返事はない。僕の言葉が通じないのか、それとも関わりを避けているのか。
夜になると辺りは闇に沈み、風の音だけが耳に満ちた。月明かりが頼りとはいえ、灯りひとつない世界はこんなにも心細いものだと、その時初めて知った。
ポケットの中には圏外になったスマホと財布と家の鍵だけ。食べ物はない。この頃になって、僕はようやく違う時代に来てしまったことに気づいたのだった。
寒さと空腹が限界を迎え、なすすべなく道端で膝を抱えていた時、通りすがった少女が声をかけてくれた。灯りも持たず、こんな暗がりの中で何をしているのかと怪しく思ったが、それは僕も同じだ。
「あんたさん、困ってるのかい?」
少女は幼さの残る声で顔を覗き込んでくる。僕は今おかれている状況を話し助けを求めるしかなかった。
少女の家は村外れにある納屋のように小さな建物だった。中の灯りは油をしぼった小さな皿に、麻の繊維を灯心として差し込んだだけ。炎が風に揺れるたび、僕らの影が壁に踊った。
油が減れば灯は消える。それがこの時代の「夜」だった。
「油は高いからね。暗くなったら寝ちまうんだよ」
少女はそう言って、布団代わりの薄い布を僕に掛けてくれた。
彼女の名はお梅。年は十五だという。母親は数年前に亡くなり、板の間には病に伏した父親と年の離れた弟の姿があった。
姉弟二人で、父親の世話をしながら日雇いで農家を手伝い、糊口を凌いでいるそうだ。
申し訳なさそうに「今はこれしか」と差し出してくれた味の薄い干し芋はとても不味かった。
その夜は藁を敷いただけの土間に泊めてもらい、翌朝、ベッドに慣れていた体が、軋むように痛んで目を覚ました。
「冷えちまって固ぇけど……これ、食べな」
少女が自分の分であろう握り飯を半分に割って僕にくれた。着物の袖は擦り切れ、指先はあかぎれで赤くなっている。苦労をしていることはすぐにわかった。
それでも、彼女は僕を見て微笑んでいた。
その健気な優しさのせいで、冷え固まった米の一粒一粒が、喉を通るたびに胸の奥を締めつけるようだった。
それから三日経った。僕は水を汲むのも、火を起こすのも、お梅の助けを借りなければできなかった。現代では何も考えずに享受していた「当たり前」がここにはない。
電気も、ガスも、水道もなく、暗くなれば一日が終わり、火が消えれば寒さに震えるしかない。
食事も少量の玄米に雑穀を混ぜたようなものばかりで、腹がいっぱいになることはなかった。
「父に薬を買ってやりてぇんだけど……銭がねえんだ」
お梅がふと、そうこぼした。その声には諦めきれない必死さが混じっていた。
ポケットの財布の中には三万円くらいあった。だがここでは何の役にも立たない紙くずだ。
「喜一にも白い米をたんと食わせてやりてぇ……」
喜一とは五つになったばかりのお梅の弟だ。
僕は喜一に、家の鍵につけてあるキーホルダーを渡した。派手なグラデーションに飾り文字がプリントされたアクリル製のお守りだ。
「これ何?」
お守りだと教えてやると、喜一は小さな手でそれを掴み、何度か眺めては裏返すのを繰り返した。
「きれい」
喜一の鼻水を拭いてやりながらお梅も見入っていた。
──この子らに白米を腹いっぱい食べさせてやりたい。色とりどりのおもちゃを抱えさせてやりたい。そんな思いが僕の胸を満たしていった。
五日目の朝、お梅と川辺を歩いていた。川面が陽光を反射し、きらきらと光っている。彼女は洗濯を始めた。
僕は借りていた着物くらい自分で洗おうと、見よう見まねで洗濯をした。水の冷たさが半端ではなく、何度も手に息を吹きかけた。
洗い終わると着物の端を二人で持ち、反対の方向に捻る。脱水も人力だ。
ちょうどいい枝振りの木に洗濯物を干し、その脇に座ってお梅と話した。
「もしも夜でも明るくなる灯りがあったら……もっと銭を稼げるかもなぁ」
その言葉に何か返そうとした瞬間、めまいのようなものに襲われた。視界の端から色が抜け、景色が遠ざかっていく。
「お梅……なんだか、変だ……」
身体が透けていく。お梅は驚き手を伸ばした。
「行かねぇで!」
その声は震えていたように思う。僕は必死にその手を握ろうとしたが、互いの指先はすり抜けてしまった。
「お梅……また、いつか……」
その言葉が途切れた瞬間、世界は白い光に包まれ、気がつくとなぜか自分の部屋にいた。すべて夢だったにしてはリアルな感触が残っている。
そんなことをぼんやりと考えながら窓辺に立つと、外は夜なのに眩しいほどの光で満ち、街は昼のように明るかった。
数日後、僕はあの川辺を訪ねた。地形は変わっていても川筋は変わらないはずだ。すぐにあの大きな欅の木が目に入る。
もしかしたら、あの日洗濯物を干した木だったのかもしれない。根元で苔むした祠の脇の土がわずかに盛り上がっているのに気づき、しゃがんで手で払った。
すると、色あせたアクリル製のキーホルダーが土の中から姿を現した。僕が喜一に渡したものだ。はなたれ顔の小さな手が鮮やかによみがえる。
僕はキーホルダーを握りしめた。夢ではなかった。あの二人は確かに存在し、あの時僕と、同じ時間を生きていたのだ。
僕はそのキーホルダーを両手で包み込み、欅の根元にそっと戻した。土をかぶせ、祠にそっと手を合わせる。
風が吹き、枝葉がざわめく。まるで遠くから、お梅たちの声が聞こえたような気がした。
柔らかい布団と温かな食事をあの二人に味わわせてやりたかった。夜でも灯りのある暮らしを、この時代の光にあふれた世界を見せてやりたかった。
叶わない願いを抱えたまま、僕はもう一度祠に手を合わせた。
そして、当たり前にあるこの光を、お梅と喜一の分まで大切にして生きようと、心の中で静かに誓った。
