短編:真紅の夢
◉風まかせ文芸部【真紅】参加作品
三十四歳、無職で独身。コンビニの夜勤を辞めてもう半年が過ぎた。昼に寝て夜に起きる。実家暮らし、家賃も払わない。
母の小言を無視して、タバコをくわえながらスマホを眺める。求人アプリは閉じたまま。どうせ受かっても長続きしない。
俺なんかどうせ──その言葉を何度繰り返したかわからない。ベランダのカーテンを閉めっぱなしにするようになって、季節の変化すら忘れていた。
その夜は、眠るというより疲れに沈み込むように意識が途切れた。疲れるようなことは何もしていないのにだ。
それは前兆のようなものだった。そんな夜は決まって赤い光が視界を染める。子供の頃から、時おり見る“赤い夢”だ。
その日を境に連続して見るようになった。
霧の中を赤い旗が泳ぐように揺れていて、馬の嘶きと蹄の音。馬具や装具が擦れ合い、カチャカチャと鳴っている。
兜、面頬、胴、籠手、脛当てにいたるまで、すべて赤備えの甲冑に身を包んだ騎馬隊。
俺はその列の中にいた。
甲冑の重みで肩に食い込む紐の痛みを感じる。ただの夢のはずなのに、あまりにも鮮明で、現実よりも確かな感覚があった。
「鷹丸、遅れるな!」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
「はっ!」
思わず返事をしたが、俺の意思ではなかった。夢を見ているというより、戦国に名高い武田軍の赤備えの一員、騎馬武者の鷹丸と意識を共有しているのだ。
列の先頭、白髭の老将が振り返る。
「武田の旗、風とともにあり! 死して恥じるな!」
その声に続き、一団が動く。霧を裂き、真紅の波が前へ押し出されるように。
──恐れるな。
胸の奥で声が響いた。それは鷹丸自身の心が唱える祈りだった。
なぜ戦うのかはすでに心にあった。領地を荒らされた故郷の村。病に伏した母。祭の夜に灯の下で笑った、幼なじみの女。彼らを守るため……それだけで十分だった。
次の夜、また赤い夢を見た。陽は高く、騎馬が列を成して丘陵へ向かう。風が乾き、甲冑の中が熱を持った。
仲間が言った。
「鷹丸、恐れはないか?」
「ある。だが、それを抱えたまま進むのが我らだ」
答えながら、その言葉に驚く。それは鷹丸の声であり、俺の心でもあるのだ。
川辺で馬を休めると、仲間が空を見上げた。
「晴れるな。血が乾く日になる」
空は澄み、風が清らかだった。あまりにも静かで、死が近いことを知らせているような空だった。
丘を越えると、遠くに馬防柵が見えた──設楽原だ。
「恐れるな。我らの気高き歩武を止められる者などいない」
鷹丸はその言葉を心で唱えながら、鞍の革紐を締め直した。その手は震えていなかった。
次の夜、赤い夢の世界を轟音が貫いた。一斉に放たれた鉄砲の閃光と煙。地面が爆ぜ、馬が倒れ、空が鳴っていた。
馬防柵の向こう、織田の鉄砲隊が列をなしていた。銃口が次々と火を噴き、乾いた衝撃が胸に響く。
指揮をとる者の声とともに再び閃光が走る。弾丸が雨のように降り注ぎ、隣の兵の兜が砕けた。
血が俺の頬を打つ。馬が悲鳴を上げ、前の列が崩れた。
──恐れるな。
鷹丸は怯まず、前を見ていた。柵の向こうに撃ち続ける敵兵の姿。彼らもまた、恐れを押し殺しているのだ。
──前へ!
馬の腹を蹴ると銃声が重なった。左の肩に衝撃が走り、視界が揺れた。それでも手綱を離さない。柵が目前に迫った。
ふと脳裏に浮かぶ春の畦道と母の手のぬくもり。川辺で微笑む幼なじみの顔を照らす陽の光、風の匂い。
視界は白く染まり、次いで赤く満ちていく。血の色だろうか……陽の光が霧と煙に反射して、空を真紅に染めていた。
鷹丸の意識は、その光の中へ溶けていった。
目を開けると、朝だった。胸が焼けるように熱く、Tシャツは汗ばんでいた。
息を整え、鏡を見るといつもと同じ俺の顔。だが、目の奥の輝きが違って見えた。
──恐れるな。
鷹丸の声がまだ心の奥に残っている。カーテンを開けると差し込む光が眩しかった。
俺は机の上の履歴書を開き、迷いや躊躇いの消えた手で書き始めた。
数日後、面接の日。
会場の椅子に座ると、掌にじっとりと汗が滲んだ。面接官が淡々と履歴書をめくり、質問を投げてくる。
「これまでの仕事、なぜ続かなかったのでしょうか?」
かつてなら黙り込んだり、言い訳ばかりしていた。だが今は違う。俺はまっすぐ相手の目を見て言った。
「何かを恐れ、逃げていました。でも、もう逃げません」
言葉が自然に出た。胸の奥に、鷹丸の声があった。
──恐れるな。
面接の帰り道、心地よい風が頬を撫でた。雲の切れ間から淡く赤い光が差している。
ふと風の匂いが変わった。遠くで電車の音がしていたが、やがて街そのものが静まり返った。
目を閉じると、蹄の音が聞こえてくる。鷹丸は死んでなんかいない。彼の“生き方”が、今の俺を動かしている。
そして、あの時見た真紅の空は、今も胸の中に鮮明に残っている。幼い頃から見ていた夢と同じその赤は、血の色などではなく、鷹丸が燃やした命の炎の色。
過去と現在を結ぶ、永遠の色だ。
