短編:夏の音
◉風まかせ文芸部【夏の音】参加作品
蝉の鳴き声が、昼下がりの団地の中庭にじわりと溶けていた。
風もない。空は白く、太陽は頭の真上でじっとしている。まるで時間が止まっているみたいだと涼花は思った。
「なあ、聞こえてるか?」
ベンチに座ったまま、隣の優斗が言った。
「聞こえてるよ、蝉でしょ?」
「違う、あの音だよ」
優斗が言う「あの音」は、昨日から始まった。どこからともなく、かすかに聞こえる鈴の音のようなもの。風鈴とは少し違う、もっと柔らかくて生き物の声みたいな。ただ、それがどこから聞こえてるくのか、二人ともわからなかった。
「この音、前にも聞いたことある気がするんだ」
「いつ?」
「小さい頃かな? でも、はっきり思い出せない」
涼花は、うーんと唸りながら空を見上げた。眩しいだけで何もヒントはなかった。
彼らが暮らす団地は、築四十年を超える古い建物で、今では空き部屋も増えていた。住人は少なく、夏休みといえど、昼間の中庭には人っ子ひとりいない。
だから、どこか遠くから鳴っているはずのその音が、不自然に近く感じられた。
「なあ、探してみようぜ。音の正体」
優斗が突然立ち上がった。涼花も渋々ついていく。中庭を囲むように建っている四棟の建物のうち、もっとも空き部屋の多い三号棟の方へと、二人は歩いていった。
「この辺……かな?」
音は確かに強くなった気がする。でも、誰かが風鈴を吊るしているわけではない。郵便受けも埃をかぶっている。エントランスのドアは重く、湿気を含んだ生ぬるい空気が内部から流れてくる。
「三階だ」
優斗がぽつりと言った。
「なんでわかるの?」
「わからない。でも、そういう気がするんだ」
階段を上るにつれて、涼花の耳にも鈴の音がはっきり届いてきた。不思議と怖さはなかった。ただ、心の奥をくすぐられるような、懐かしさに近いものが胸に広がっていった。
三階の廊下に出ると、空き部屋ばかりの中に少しだけドアが開いている部屋があった。
「入るの?」
涼花が聞くと、優斗は頷いた。
中はがらんどうだった。家具は何ひとつなく、ただ古い畳と壁にうっすらと染みが残っているだけだ。
部屋の真ん中に、小さな白い箱がぽつんと置かれている。弁当箱くらいの大きさで、光沢のない陶器のような素材。そこから、あの音が確かに聞こえている。
「開けたら、だめなんじゃない?」
「でも知りたいんだ」
優斗はゆっくりと箱のふたに手をかけた。
中には何もなかった。ただ、空っぽのはずの箱から、鈴の音が途切れずに鳴り続けているように感じた。
その瞬間、涼花の頭の中に鮮やかな記憶が流れ込んできた。
──夏の夕暮れ、見知らぬ子たちと遊んだ草むら。
──誰の顔も思い出せない。でも楽しかった。
──あの時も、この音がしてた。
同じように、優斗も目を見開いていた。
「思い出した……前にもここに来たんだ、俺たち」
「でも、いつ? 小さい頃?」
「違う、よくわかんないけど今なんだ。今の前の……もうひとつの今みたいな」
意味が分からなかった。でも、同じように感じていた涼花は涙が出そうになった。
箱はやがて音を止めた。静寂の中、蝉の声だけが戻ってくる。二人はそっと部屋を出てドアを閉めた。まるで何かを封じ込めるように。
それ以来、あの音は二度と聞こえなかった。ただ、団地の中庭に座っていると、たまにふと、同じ空気の匂いを感じる時がある。蝉の声が遠くなり、時間が止まったような白い午後。
その時の涼花は、きっとあの「夏の音」がどこかで鳴っているのだと感じる。それが思い出なのか、幻なのか、あるいはもっと別の何なのか、本当にあの白い箱が音を出していたのかすら、いまだにわからない。
でも時々こう思う。
あの音は、私たちが何かを忘れたことに気づいた時だけ、そっと聞こえてくるのかもしれないと。
