短編:運命の贖罪
◉風まかせ文芸部【運命】参加作品
武田聡司は、若い頃に小さな罪を犯した。
同僚の成果を奪い、自分のものにしたことがあるのだ。
悪気があったわけではなかった。競争社会の一員であるからには、そのくらいのことは当たり前で、些細な出世のための一歩に過ぎないと思っていた。
しかし、それが同期入社の高橋誠二の人生を狂わせた。
その事が原因で、長年社内での評価を下げられ続けた誠二は心を病み、自らの命を絶った。残された妻は生活に行き詰まり、絶望の末に彼の後を追った。
当時高校生だった娘の高橋摩耶は、経済的な理由から大学進学と将来の夢を諦めるしかなかった。
聡司が踏み台にしたのは、一人の男の人生だけではなく、一家の未来そのものだった。
その罪は、聡司の心の奥底に居座り続け、今日までの人生すべてに影を落としてきた。
何をしてもうまくいかず、立ち直ることもできず、彼はただ流されるように生きてきた。
それは真夏の午後のことだった。
聡司は交差点の横断歩道で信号待ちをしていた。照り返しの強いアスファルトに、蝉の声が降り注いでいる。
視線の先で、小さな女の子が青信号を渡りきれなかったのか、横断歩道の真ん中で立ちすくんでいた。
立ち往生している女の子に気づいたトラックが停車した。女の子は運転手に頭を下げて、横断歩道を進もうとする。
その時、トラックの隣の車線を走るタクシーが近づいてきた。女の子もタクシーもトラックが死角になっていて、互いの存在に気づいていない。
聡司は咄嗟に動いていた。
彼は女の子を突き飛ばし、代わりに鋼鉄の塊に弾き飛ばされる。
世界が反転し、仰向けでアスファルトに叩きつけられた聡司の視界に青空が広がった。白い雲がゆっくりと流れている。
焦げた舗道の匂いと喉の奥にこみ上げる鉄錆の味。
痛みはすぐに遠のき、代わりに静かな重さが全身を覆った。
やけに大きく聞こえる蝉時雨の中、少女の泣き声が微かに届く。聡司の胸に安堵が浮かぶ。助かったようだ──そのことだけが救いだった。
思えば、彼は一度も正しく選べなかった。罪を犯し、誠を追い詰め、摩耶の未来を奪った。
逃げ続け、誰にも償えず、ただ後悔ばかりを積み重ねてきた。
だが最後は、誰かを守ることができた。その事実が、空虚だった自分の存在をわずかに満たしていく。
蝉の声が一層強く響いてきた。視界が滲み、光が白くぼやける。
「これで……」
聡司の声は風に溶け、最期に見た夏の青空へと吸い込まれていった。
泣きじゃくる女の子に女性が駆け寄り、声をかけていた。
「大丈夫? 美羽!」
母が呼ぶその声に、女の子は振り返る。女性の名は浜野摩耶。結婚をして姓は変わっているが、かつて両親を失い、夢を諦めた高橋摩耶だった。
流れ行く月日の中で今は母となり、自らの娘を抱きしめている。
摩耶は娘を抱きしめたまま、震える手で額を撫でた。その瞳に宿るのは、かつて夢を諦めた少女の影であり、いまは母として未来を見据える強さだった。
すでに事切れた聡司が、それを知ることはもうない。
自分の命を賭して救った女の子が、かつて自分の罪によって奪った一家の未来であったことを。
絡まり合った運命の糸は、降りしきる蝉時雨の中、静かに「贖罪」という名の結び目を結んでいた。
