短編:私の卒業
◉風まかせ文芸部【卒業】参加作品
体育館の裏は、普段から人が来ない場所だった。卒業式のざわめきも遠くに流れ、ここだけが切り離されたように静かだ。
私はポケットから黒いマジックペンを取り出す。キャップを外し、壁に向かう。インクの匂いが鼻を突いた。
──さようなら
コンクリートの壁に、ゆっくりと刻むようにその五文字を書いた。じわりとインクが染み込んで、はっきりとした黒い文字が残った。
──これなら、消えないかな?
書き終えても、私はしばらくその文字を見ていた。残していきたかったのだ。この場所に存在していたことを。
感情の波が押し寄せてくる。悲しみなのか寂しさなのか、わからないが、それでよかった。
「……これでいい」
小さく呟いた声は、穏やかな空気の中へと溶けていった。
統合が決まったと知ったのは、それから三十年も経ってからだ。生徒数の減少による近隣校との再編。この学校はすでに廃校になり、やがて解体される。
それを知ったとき、少しだけ可笑しく思った。
「今さら、なくなるんだ」
とっくに終わっていると思っていた場所なのに。それでも、最後を見届けるべきだと、思った。
校門には鎖がかけられていた。立てられた看板の「閉校」「解体」の文字は、どこか他人事みたいに整っている。しかし、そのどれもが、この場所の終わりを示していた。
私はそのまま中へ進む。校舎の中は、静まり返っている。止まった時計。色褪せた掲示物。時が流れた痕跡だけが残っていた。
教室に入る。窓際の後ろから三番目の席だった。そこに立って、校庭を見下ろす。あの頃もよくこうして、何も変わらない景色をただぼんやりと眺めていた。
廊下を歩く。静けさは嫌いじゃない。誰もいない学校の静けさというのは、心だけではなく、肌にも直接触れてくるようだ。
階段を一段ずつ上る。考える必要もなく、足が勝手に進んでいく。屋上の扉を開けると、外の空気が流れ込んだ。
街の喧騒は遠い。私はゆっくりと歩く。フェンスの方へ。
この場所も、教室も、体育館の裏も、全部、記憶に残っていた。
「……変わらないな」
ひとしきり懐かしさに浸った私は、体育館の裏へと向かった。あの日と同じ場所。同じ壁。
黒い文字は、まだそこにあった。少し薄れてはいるが、はっきりと読める。
「消えてないんだ」
かすかに笑みがこぼれた。あのときの私は、残すべきものを残すつもりでそこに置いたのだ。
壁の文字をなぞる。
──さようなら
あの日、ここに置いた言葉。区切りのつもりだった。終わらせるつもりだった。
あのときの感情は、黒く濁ったまま今も残っている。少しも薄れることなく。
だから私は、ここにいるのだ。三十年間、毎日同じ場所を歩いている。同じ気持ちのまま、同じ順番で巡っている。
そう、私は訪れたのではない。離れたことがないのだ、この場所を。
あの日、ここに残したはずの感情に支配されたまま。
「ねえ」
誰もいない場所で、声を出す。
「私は」
言葉が静けさの中に、ゆっくりと沈んでいく。
「一体、何を卒業したというのだろう」
建物はもうすぐ壊される。壁も、床も、この文字も、全部なくなる。それでも、分かっている。私だけはここに残る。
黒い文字を、もう一度なぞる。
──さようなら
この言葉は、卒業して巣立っていく人たちとの別れのために書いたのではない。
あの日の私が、最後に選んだ場所へ向かう前に残した言葉だ。
だから、私は今日もここにいる。
終わったはずなのに、この場所に縛られ続けている。
──これからも、ずっと。
