短編:宇宙の重なり
◉風まかせ文芸部【重なり】参加作品
朝の通勤電車で、向かいの席に座っていた男が気にかかった。彼は私と同じタイミングでスマホを取り出し、同じ指の動きで画面をスワイプしたのだ。
肩を回す仕草も、脚を組み替えるタイミングもぴたりと重なる。
こちらを見ているわけでもないのに、鏡に映したように私と同じ動きをしていた。
駅のホームに降りると、すぐ隣を歩く人物が目に留まる。私が歩きながらポケットからハンカチを出し額の汗を拭うと、彼も同じ動作を繰り返した。
続けて髪を整え、立ち止まって深呼吸をすると、私の仕草を真似しているかのようになぞる。
私が顔を向けると目が合った。先ほど向かいの席に座っていた男だ……背筋に冷たいものが走った。
言い知れぬ不安を抱えたまま、毎朝のルーティンであるカフェに寄った。
「カフェラテください」と注文すると、隣の客がまったく同じタイミングで同じ言葉を重ねた。
店員が戸惑い、視線を往復させる。どちらが発した言葉なのか、わからなかったようだ。
やがて呼び出しの声が響いた。
「○○さま、カフェラテです」
私と隣の客は同じ名前だったらしく、呼ばれると同時に立ち上がった。
それぞれの手に、同じカフェラテのカップを受け取って……しかし、そんなことより重要なのは、電車の中からずっと同じ行動をしているこの見知らぬ男の存在だ。
ここまでくれば、もう偶然という言葉だけでは片付けられない。得体の知れない事象が起きていることは間違いない。姿は違えど、二人の「私」が同時に存在しているのだから。
会社のあるビルでエレベーターに乗り込む。閉まりかけたドアの向こうでもう一人の「私」がこちらを見ていた。私が瞬きをすると、彼はわずかに遅れて瞬きをした。
ドアが閉じた瞬間、耳を押さえたくなるような圧迫感に襲われた。
ドアが開くと、いつもと同じはずのオフィスなのに、机の配置も会社のロゴも、人の顔ぶれも違っていた。
知らない会社の知らない人間ばかり。だが奇妙なことに誰も私を気に止めた様子はない。
それどころか、同僚たちは自然に私に挨拶をし、上司らしき人物は打ち合わせの確認を求めてきた。
机の上には、この知らない世界で過ごした“私の業績”を証明するファイルが積まれている。
私は昔からこの会社に勤めている人間として、確かにここに存在していたようだ。
頭の中で、大学時代にかじった量子力学の断片がよみがえる。
量子は観測されるまで、複数の状態に重なり合って存在する。そして観測者がその重ね合わせを崩すと同時に、一つの現実が決まる。つまり、見られるまでは複数の可能性が同時に存在し、見られた瞬間に一つに決まる──シュレディンガーの猫だ。
もしそうならば、この“重なり”の中で、誰が観測者の役割を果たしているのか……答えは明らかだった。
私だけが両方の世界を認識できる観測者なのだ。
他の人々はそれぞれの世界に適応していて、入れ替わりを認識しない。だが私は、切り替わる瞬間の「重なり」を体験してしまった。だからこそ「私」が同時に存在していたのだ。
世界──いや、宇宙は常に重なり合っていて、その中で私は、唯一の重なりの目撃者であり、選択者でもあるのだろう。
次に重なりが訪れたとき、私はまた別の人生へと押し出されるのかもしれない。
果たしてそれを恐れるべきか、祝福と捉えるべきか。
私は震える手を見つめながら、答えのない問いを反芻していた。
