短編:傘の下の約束
◉風まかせ文芸部【傘】参加作品
雨の日が好きだった。正確には、雨そのものではなく、雨の日にだけ現れる、傘の下の小さな世界が好きだった。
頭上で無数の雨粒が傘を叩き、その音に包まれていると、不思議と周りの景色や人の声が遠くなる……まるで、雨の日にだけ現れる小さな隠れ家のようだった。
小学五年生の美咲は、そんなことを考えながら学校から帰っていた。
六月の雨は朝から降り続いている。傘を叩く雨音を聞きながら川沿いの道を歩いていると、不意にか細い鳴き声が聞こえた。
「みゃあ……」
植え込みの奥だった。葉の隙間を覗くと、一匹の子猫がいた。左耳の先が欠けた白と茶色のまだら模様。雨に濡れて、小さな体を震わせている。
美咲は思わずしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
子猫は弱々しく鳴くだけだった。連れて帰ることはできない。家では動物を飼えないからだ。それでも、このまま放っておく気にはなれなかった。
しばらく考えた末、美咲は傘を子猫の上へ傾けた。
「雨がやむまで、一緒にいようか」
持っていたタオルで体を拭いてやると、子猫は警戒することなく、美咲の腕の中で丸くなった。
雨は降り続く。制服の袖は濡れ、靴の中には雨水が染み込んできた。だが美咲は動かなかった。
やがて子猫の震えが止まった。安心したように眠り始める。その姿を見て、美咲はほっと息をついた。
どれくらい時間が経っただろう。雨は上がり、空が少し明るくなった。
子猫は伸びを一つすると、美咲を見上げた。そして、不思議そうに傘を見ていた。
「もう大丈夫だね」
放してやると、子猫は小さく鳴いた。振り返りながら数歩歩き、もう一度だけこちらを見る。
「みゃあ」
お礼を言っているようだった。美咲が「またね」と声をかけると、子猫はもう一度だけ「みゃあ」と鳴き、茂みの向こうへと消えていった。
美咲は傘を閉じた。水滴がぱらぱらと落ちた。
──三年後。
中学生になった美咲は、部活の帰り道を急いでいた。冬の雨だった。空は暗く、風も冷たい。
透明なビニール傘を差しながら足早に駅へと向かう。雨水が跳ね、靴が濡れて不快だった。そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
視界の端を何かが横切った。一匹の猫だった。目の前を横切るように走り抜ける。
「え?」
驚いて、反射的に足が止まる。
キィィィィッ!──
激しいブレーキ音が辺りに響いた。ふり返ると、トラックが横滑りしながら、そのまま歩道へ突っ込んできた。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに建物へ激突した。コンクリートが砕け散り、どこからともなく悲鳴が響く。
美咲は動けなかった。しばらく事故現場を見つめ、足元へと視線を落とす。
もし猫に気を取られていなければ。もしあともう一歩先へ進んでいたら。自分は今、トラックと壁の間にいたかもしれない。
「あの猫に救われたの?」
傘を持つ手が震えた。いつの間にか雨は止んでいる。見上げると雲の切れ間から薄い光が差していた。
そして少し離れた街路樹の下に、一匹の猫がいた。白っぽい毛並みの猫だった。雨上がりの光を受けて立ち上がった時、美咲は気付いた。左耳の先が少し欠けていることに。
猫はこちらを見ていた。そして静かに目を細めた。美咲の胸に三年前の景色が鮮やかに蘇る。
「……あなた、もしかしてあの時の……」
猫は何も答えない。ただ立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。そして数歩進んだところで振り返る。
雨上がりの光の中で「にゃあ」と、小さく鳴いた。
美咲は思わず笑った。涙が滲んでいた。
「ありがとう」
あの日、自分はほんの少し傘を貸しただけだ。ほんの数十分の一期一会だった。それを、猫は覚えてくれていたのだろうか。
猫はもう一度だけ鳴くと、雨上がりの路地へと消えていった。
それからというもの、美咲は少し大きな傘を持つようになった。一人で使うには大きすぎる傘。
誰かが入れるように。雨の日に困っている人や動物を見かけたら、少しだけ傘を傾けられるように。
なぜなら彼女は知っているからだ。優しさは大げさなものでなくていい。
ほんの少し、傘を寄せるだけでもいい。その下に生まれた温もりは、きっと誰かの心に残る。
そしていつか、雨が降る遠い未来に、別の誰かの傘となって返ってくるのだから。
「情けは人の為ならず 」
