短編:うちのおかあさん
◉風まかせ文芸部【白紙】参加作品
環は小学一年生だった。
ある日の夕方、ランドセルを床に置くなり、少し誇らしげに言った。
「ねえおかあさん、作文の宿題が出たの。題名はね『うちのおかあさん』」
麻弥は、娘の言葉に一瞬だけ言葉に詰まった。母子家庭で、仕事を掛け持ちしながらの毎日。
環と向き合う時間は、どうしても削られてしまっている。
「そう……がんばってね」
それだけ言って、麻弥は台所に戻った。背中に、環の小さな視線を感じながら。
その夜、麻弥が帰宅した時、環はもう眠っていた。机の上には作文の用紙と、環がお気に入りのガラスペン。そして、ペンを洗うための水が入ったインク瓶。
だが、水は透明なまま、ペンを洗った形跡はなかった。
そっと用紙をのぞき込んだ麻弥は、息をのんだ。
──白紙。
一行も、何も書かれていなかった。
「……やっぱり」
胸の奥がひどく痛んだ。忙しさにかまけて、話も聞いてあげられず、叱ることばかりで、笑顔を見せていなかった。
こんな母親を前に、何も書けなかったのだ。
「ごめんね……」
麻弥は白紙のままの用紙を、そっと元の位置に戻した。
翌朝、環は何も言わず、用紙を学校へ持って行った。麻弥は白紙の理由を聞くことができなかった。
それからの数日間、麻弥は落ち込んだままだった。あの白紙の用紙が頭に浮かぶたび、職場でミスを連発し、環の寝顔を見ては胸が苦しくなった。
──私は、この子の「おかあさん」になれていない。
数日後、環がランドセルからあの白紙の用紙を取り出して言った。
「おかあさん。これ、ちょっとアイロンかけてみて」
「……え?」
「お願い」
半信半疑で、麻弥はアイロンを出し、用紙にそっと当てた。
すると──紙の表面に、ゆっくりと文字が浮かび上がってきた。
「……!」
茶色くて、幼い字。あぶり出しだった。
うちのおかあさんは、いそがしいです。でも、まいあさ、わたしのかみをとかしてくれます。
つかれていても、だっこしてくれます。
おかあさんがいるから、わたしはさびしくないです。
用紙いっぱいに、環の言葉が広がっていく。それは責められる言葉ではなく、許されているという実感だった。
麻弥の肩が小刻みに震えた。
「……これ……どうして……」
環は少し照れたように言った。
「先生に言ったの。おかあさんに見せてから、もう一回出すから、点はつけないでって。だから今日、持って帰ってきたの」
「白紙で出したの……?」
「うん。だって、おかあさんに、いちばんに読んでほしかったから」
麻弥の頬に、涙がこぼれ落ちた。
「環……」
環を強く抱きしめる。
「ごめんね……おかあさん、何もしてあげられてなくて……」
「大丈夫」
環は、小さな腕で抱き返した。
「ちゃんとだいすきって、かいてあるでしょ」
白紙だと思っていたものには、見えないインクで、愛情がぎっしりと詰めこまれていた。
麻弥は、涙でにじむ文字を何度も読み返しながら、この小さな命に、確かに愛されていることを知った。
そして静かに誓った。
今度は自分が、言葉と時間で、この子の白紙を埋めていこうと。
