短編:違和感
◉風まかせ文芸部【違和感】参加作品
夜の帰り道、久美はふとした違和感に足を止めた。街灯の明かりの下、並木道が薄く歪んで見える。
目の錯覚だろうと、彼女は足早に歩を進めた。だが数十メートル進んだ先で、再び同じ景色が目の前に広がった。ベンチ、電柱、ゴミ箱──すべて配置が寸分違わず繰り返されている。
心臓がざわついた。後ろを振り返ると、そこにも同じ並木道が続いている。逃げ場のない複製された空間に閉じ込められたような気分だった。
視線を上げると、電線に鳥が止まっている。カラスに似ているが、首が妙に長く動きが小刻みだ。まるで映像のフレームがずれているかのように。鳥は鳴き声も発せず、ただ首を傾げて彼女の動きを追っているようだった。
「夢?」
口に出してみても、声が耳に届くまでに一瞬の遅れがある。音と動きが噛み合わない。久美は耳を押さえ頭を振った。
角を曲がった時、ようやく前方に自分のアパートが見えた。安心して駆け寄ると、入口に誰かが立っている。
自分自身だった。鏡を見てるように同じ髪型、同じ服装。だが、そのもう一人の自分は無表情で、何かを呟いている。音はない。唇の動きはまるで音声が消えた映像のように空しかった。
久美は恐怖に駆られ、叫び声を上げた。だが少し遅れて耳に届いたのは自分の声ではなく、低く濁った誰か別の人の声みたいだった。
アパートのドアが開く。もう一人の自分が中へ消えようとした瞬間、久美は本能的に追いかけた。中に足を踏み入れると、そこは確かに自室──のはずなのに、家具の位置がわずかにずれている。
テーブルの角度、テレビの向き、壁掛け時計の位置。ほんの数センチほどの違いが、異様に大きな不快感を生んだ。
部屋の奥にもう一人の自分が立っている。顔は正面を向いているのに、視線だけが真横を見ている。その不気味な違和感に胃がひっくり返るような重さを感じた。
「……おかえり」
もう一人の自分の声だ。やっと耳に届いたその声は、自分自身の声に間違いなかった。
気が遠くなった久美の意識は薄れ、視界の揺れと同時にベッドに倒れ込んでしまった。
目が覚めると見覚えのあるアパートの天井。全部夢だったのかと安堵しかけたが、部屋の中を見回した瞬間に凍りつく。
テーブルの角度、テレビの向き、時計の位置。すべて先ほどずれていた部屋と同じ配置だった。
窓を開けると、外は異様な静けさに包まれている。車も人もいない。街灯の下の道はどこまでも続いているのに、動くものが一つもない。風もなく音もなかった。
久美は外に出て歩いた。角を曲がっても、交差点を渡っても、誰ひとり現れない。街全体が止まったままの舞台装置のようだった。
駅の近くまで歩いてきて、やがて彼女は思い出す。
──仕事帰りの駅のホーム。スマホの画面に気を取られ、足を滑らせた瞬間の感覚。警笛が鳴り響く中、視界が闇に閉ざされたこと。
「そうか、私……」
日常だった世界は今も人や時間が動き続けているだろう。だが、自分だけがそこから外され、止まった世界に連れてこられた。
ここには、誰も来ない。
ここでは、時間も進まない。
「これからもずっと、ひとりのまま……」
その言葉とともに、完全な静寂が舞い降りた。街も、空も、光さえも止まり、世界は音もなく凍りついている。
その中でただひとつ、久美の意識だけが、終わりなく続いていくのだった。
