短編:脈々と続く時の海
◉風まかせ文芸部【脈々】参加作品
古い町の裏通りに、その家はひっそりと佇んでいた。表の通りには新しい喫茶店や文房具屋が並んでいるのに、この路地だけは時間の流れから切り離されているようだった。
軒先の看板は錆び、石畳には雑草が伸びていて、人影は途絶えている。その奥に、静かに身を潜めているような家だった。
窓はカーテンに覆われ、誰も住んでいないはずなのに、夜になるとかすかな光が瞬いた。
ある夜、私は抗えぬものに引き寄せられるようにその家の前に立った。理由はわからない。
ただ胸の奥で「訪ねよ」と告げる声がしたような気がした。扉に触れると、軋むことなく開いた。
中に入ると、壁一面に時計が掛けられていた。大きな振り子時計、小さな懐中時計、砂時計。針はそれぞれ勝手な速さで動き、あるものは逆さまに回っている。
針の音は揃わず、まるで数百の心臓が不揃いに鼓動しているかのようだった。
やがて、一つの鐘が鳴った。カーンと、空虚な響きだ。それに応じるように他の時計も音を重ねる。溢れかえるような響きが空間を満たした瞬間、視界がひっくり返り、私は知らない場所に立っていた。
和服の人々が往来し、異国の言葉が飛び交う。明治の頃を思わせる光景だった。背後から声をかけられた。
「時間は脈々と受け継がれている……あなたも、その一端を担っているのです」
振り返ると老婆が立っていた。深い皺の奥の瞳は星のように澄んでいる。
「時計たちに呼ばれてきたのです。糸を辿る者として」
老婆は銀の懐中時計を差し出した。裏蓋には見知らぬ紋章が刻まれている。手にすると、止まったはずの秒針が、心臓の鼓動に重なるように動きはじめた。
次に立っていたのは、黄昏に沈む草原だった。空は赤く燃え、草の穂がざわめく。その真ん中に、少年がいた。白い衣を纏い、小さな砂時計を持っている。砂は尽きず、脈々と流れ続ける。
「この砂は、過去から未来への川。だけど、時に流れは歪む。その歪みを見つけ、整える者が必要なのです」
少年の言葉の直後、私の懐中時計がカチリと音を立てた。視界がまた揺らぎ、次に立っていたのは彼らが「流れの庭」と呼んでいた場所だった。
そこに咲いているのは花ではなく、光る記憶の欠片だった。ひとつ摘むと、誰かの笑い声が微かに響き、すぐに消える。
庭の奥には泉があり、覗き込むと母の若い姿、まだ見ぬ誰かの微笑み、そして廃墟の幻影が交じり合い流れていった。
「この流れの庭で見るものはすべて真実です」
対岸に立つ少年の声が響く。
「あなたがどれを選ぶかで、流れの形は変わります」
私は懐中時計を握った。波紋が広がり、泉から老婆が現れる。
「迷うことはありません。流れの庭はあなたを導くために存在するのです」
私は目を閉じ、心の奥に浮かぶひとつの光を選んだ。手応えはあった。私が選んだ光は、歪み澱んでいた時の流れを清流に変えた。
次に立っていたのは夜の海辺だった。波が寄せては返し、月光が水面に揺らめく。
私は直感した。この海こそすべての時間の行き着く場所であり、始まりなのだと。過去も未来も、この海へ注ぎ、この海から生まれる。
遠くから小舟が近づいてきた。漕いでいたのは少年と老婆であった。二人は声を重ねる。
「さあ、帰る時です」
舟に揺られるうち、私は意識を失っていた。
気づけば、あの家の前に戻っていた。手には懐中時計を持っている。秒針は止まったままだが、確かな鼓動のようなものが私の胸に重なって響いてくる。
扉の輪郭が淡く揺らめいていた。私は静かに目を閉じた。もはやそこに飛び込む必要はなかった。
なぜなら、その扉は閉ざされず、脈々と続いていくこの世界の流れとともに、いつまでも私を待ち続けているのだと知ったからである。
