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「いいね」で社会は変わらない?無力な私たちが「戦略的な群れ」になるべき理由

戦争、貧困、気候変動、分断…。

日々流れてくるニュースのあまりの重さに、つい目を背けてしまう。

自分の暮らしを守るだけで精一杯で、こうした巨大な問題を素通りしてしまうのが、私たち「普通の人」の感覚だ。

一方で、こうした社会の痛み自分ごとと捉え、声を上げ、行動を起こす人たちがいる。

私自身、こうした問題と正面から向き合えるようになるまでに、30年近くもの時間を要してしまった。

だからこそ、今すでに行動を起こしている彼らの勇気と決断には、心の底から敬意を抱かずにはいられない。

そして何より、その行動が報われてほしいと願う。

しかし、現実はあまりに残酷だ。

「とても解決できそうにない巨大な問題」

と対峙したとき、私たち市民は、一体どうすれば現実的に解決へと結び付けられるのだろうか?

デモ行進、署名活動、ボイコット、あるいはSNSでの拡散。

頭には様々なメニューが浮かぶと思う。

2020年にサステラを立ち上げてからの私も、まさにそうした「メニュー」に飛びつき、純粋な使命感から、がむしゃらに行動を起こしていた。

けれど、どれだけ記事を書き、情報を発信しても、それが社会の解決に直結している手応えが得られない。

巨大な壁に向かって小石を投げているような、途方もない無力感に襲われる夜も少なくなかった。

「どうすれば、自分の行動を、ただの自己満足で終わらせず、社会課題の解決へと結びつけられるだろうか?」

サステラを運営しながら、私は常にその問いと格闘し続けてきた。

そして、歴史を学び、現代社会の構造を見つめ直した末に、自分の中で一つの結論に至った。

それは、私たちが頼りがちな「個人の情熱」や「デモという戦術」の、さらに奥にある「ある普遍的な原理」に気づくことだった。


社会を変える「唯一の原理」とは

1930年にマハトマ・ガンディーと支持者が約386kmを行進した抗議行動「塩の行進」


未曾有の困難に直面したとき、私たちはつい「卓越した個人の努力」や「革新的なアイデア」こそが解決策だと信じてしまう。

確かに、一人の情熱は変革の火種となる。

しかし、その火を社会全体へ広げ、不可逆な変化として定着させる力は、常に「人の集合体(群れ)」の中にしか宿らない。

歴史を紐解けば、そこには一つのシンプルな法則が浮かび上がる。

「社会を変える唯一の方法は、連帯の輪を広げることである」。

この原理は、太古の祖先が選んだ生存戦略から、現代のロビー活動、そして未来の危機を乗り越えるグローバルな連携に至るまで、人類史を貫いている。

この原理を学ぶための最良の教科書こそが「歴史」だ。

なぜなら歴史とは、この「集合体を大きくする」ことに成功した者、あるいは失敗した者たちが、いかにして社会を構築し、また解体してきたかを記した、生きた教訓のアーカイブだからだ。

いわば、人類が数千年かけて蓄積してきた「群れ形成(クラスタリング)のデータベース」そのものである。

私たちはそこから、成功のためのアルゴリズムを抽出できる。

例えば、ガンディーの非暴力不服従運動。

彼は宗教やカースト、言語の違いで分断されていた人々を「サチャグラハ(真理の把握)」という理念で繋ぎ合わせ、大英帝国に対抗しうる巨大な「固まり」を作り上げ、独立を勝ち取った。

彼が作ったのは単なるデモ隊ではない。

「インド人」という新しいアイデンティティを共有する、巨大な群れだ。

あるいは、キング牧師の公民権運動。

「私には夢がある」という物語の共有は、分断されていた黒人たちだけでなく良識ある白人たちをも巻き込み、差別的な法制度さえも書き換える巨大なうねりを生み出した。

逆に、日本の戦国時代は、統合されていた秩序が崩壊し、社会が無数の小集団へ分裂した「群れ形成の失敗事例」と言える。

「私たち」という定義の範囲が狭まったとき、人は争い、殺し合う。

平和とは自然現象ではない。

「固まり」の境界線を少しでも外側へ広げようとする、知性と意志の上にのみ成り立つ奇跡なのだ。

そう気づいたとき、私たちがこれから成すべきことも、過去の偉人たちが成し遂げたことも、本質は同じだと確信した。

それは、私たちが生物として獲得した最強の生存戦略、すなわち「群れる力」をハックすることに他ならない。

私自身の体験:無垢な幻想と現実の壁

かつて私は、「いいね」の数はそのまま社会を変える力になると信じていた。

あまりに無垢な幻想だった。

2021年、衆議院選挙。

それが、サステラを立ち上げた私が最初にぶつかった現実の壁だ。

あの日の無力感は、今も胸の奥に棘のように刺さっている。

いや、むしろ時間はその痛みを「焦燥感」へと変え、私を急き立て続けている。

投票直前、私はSNSで「未来は自分たちで選ぼう」と呼びかけた。

指先から放たれた熱意はデジタルの海を駆け巡り、著名なインフルエンサーたちが呼応し、通知は鳴り止まなかった。

画面の向こうには数万、数十万の人間がいて、私の言葉に共振している。

「この『いいね』は、変革への確約だ」

私は歴史的なうねりの中にいる高揚感に酔いしれていた。

だが、蓋を開けてみればどうだろう。

突きつけられたのは、戦後最低レベルの投票率という冷酷な現実だった。

ネット上で盛り上がっているように見えた若者の政治参加は低迷し、むしろ無関心は極まっていた。

希望を語った候補者たちはあえなく散っていく。

私のスマホの中で起きていた熱狂は、現実社会においては微風ですらなかったのだ。

デジタルの嵐は、リアルの厚い壁を一枚も剥がすことはできなかった。

「情報を届けるだけでは、社会は変わらない」

私たちは、アルゴリズムが増幅させた「内輪の熱狂」を、あたかも「世論そのもの」であるかのように錯覚してしまう「エコーチェンバー」の罠を、身を以て学習したのだった。


社会を変える「群れ」を知る


翌2022年の参議院選挙。

安倍元総理の悲劇的な事件によって記憶されるこの選挙で、テレビやネットは犯人の動機や国葬をめぐる政治論争で喧騒を極めていた。

しかし、私が何より戦慄し、その場に釘付けにしたのは、全く別の問いだった。

明るみに出た「旧統一教会と政治の癒着」という不可解な現実だった。

「なぜ一宗教団体が、これほど容易に政治に入り込めるのか?」

当時、政治構造に無知だった私は、この事件を機に国内の利益団体について徹底的にリサーチを行った。

その結果、私はある重大な「構造」に気が付いてしまったのだ。

なぜ、社会的に疑念を持たれる一宗教団体が、国家権力の中枢に食い込めたのか。

答えは、極めて合理的だ。

彼らが「群れの力」を、私たちよりも遥かに巧みに、そして戦略的に運用していたからに他ならない。

彼らは単に投票するだけではない。

選挙期間中、無償で電話をかけ、ビラを配り、ドブ板選挙を支える「実働部隊(マンパワー)」を提供した。

政治家が最も欲しがる「確実な票」と「動ける手足」を差し出したのだ。

その見返りとして、彼らは自分たちの教義を政策に反映させ、リベラルな法案を阻止し続けてきた。

「投票に行こう」と叫ぶだけの正義は、強固な組織論理で動く彼らの「固まり」に対し、無力だったのだ。

バラバラな個人のまま立ち向かおうとしても、勝負になるはずがない。

私たち個人は、この壁の前で無力なのか。

高度に組織化された集団に、個は蹂躙されるしかないのか。

進化と文明に刻まれた「固まり」の創成原理

私は、社会構造の正体を解き明かすために、歴史に関する書籍を読み漁っていた。

過去の興亡史を紐解くうちに、私は一つの真理にたどり着く。

社会を変える力学は、近代になって発明されたものではなく、私たちのDNAに刻まれたもっと古い記憶に基づいているということだ。

人類学に「ダンバー数」という有名な概念がある。

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーが提唱したもので、人間が安定した社会関係を維持できる集団の上限は、約150人であるという説だ。

私たちに最も近い霊長類であるチンパンジーの群れの上限は、一般的に約50人だと言われている。

彼らはグルーミング(毛づくろい)という物理的な接触を通じて信頼関係を築く。

時間をかけて互いの毛を繕い合い、体温を感じ合うことで、

「こいつは味方だ」
「こいつは裏切らない」

という確認作業を行うのだ。

しかし、1日は24時間しかない。

物理的な接触に割ける時間には限界があるため、群れのサイズも自然と制限される。

実際、個体数が上限である50匹に近づくと、もはや全員と十分なグルーミングを行うことは不可能になる。

すると、社会的な結合が弱まり、群れの秩序が揺らぎ始める

そこへ新たなボスが台頭し、既存の序列に挑戦する権力闘争内紛が勃発しても、希薄になった関係性では群れをつなぎ止めることができない。

結果として、維持できなくなった群れは二つに引き裂かれ、分裂・解体してしまう運命にあるのだ。

一方、私たちホモ・サピエンスも、脳の容量から計算される生物学的な限界は、実はチンパンジーとそれほど大きく変わらない。

かつて地球上にいたネアンデルタール人も、この「150人の壁」を超えることはできなかったと言われている。

その理由はシンプルだ。私たちの脳のスペックに限界があるからだ。

集団の人数が増えれば増えるほど、人間関係を維持するための「脳のコスト」は跳ね上がる。

「あいつは信用できるか?」
「誰が誰に借りを返していないか?」
「裏でこっそりルールを破っている奴はいないか?」

こうした複雑な人間関係を監視し、記憶するための脳の処理負荷は、人数が増えるにつれて「足し算」ではなく、まるで「掛け算」のように爆発的に増大していく。

そして、この負荷が脳のキャパシティを超えた瞬間、集団内の信頼は崩壊する。

誰を信じていいかわからなくなり、疑心暗鬼が生まれ、集団は必然的に分裂・解体してしまうのだ。

これが、生物としての私たちが抱えるハードウェアの限界である。

しかし、窓の外を見てほしい。

現実の私たちは、150人どころか、数百万、数億人という規模の都市や国家を形成し、顔も名前も知らない他人と協力して社会を回している。

なぜホモ・サピエンスだけが、この生物学的な限界を突破できたのか?

その答えこそ、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で指摘した、人類最強の発明にある。

私たちの祖先が生き残りのために手にした武器は、鋭い爪でも強靭な肉体でもなかった。

それは、「虚構(フィクション)を共有する能力」だったのである。

私たちは、共通の神話、宗教、法律、そして国家という「目に見えない集団的な物語」を信じ込む能力を進化させた。

これは、政治学者ベネディクト・アンダーソンが提唱した「想像の共同体」という概念そのものだ。

彼は国家を、互いに顔も知らない人々が心の中で結びつく「想像上のコミュニティ」だと定義した。

本来、見ず知らずの他者に対して警戒心恐怖を抱くのは、生物として極めて正常な生存本能だ。

もしチンパンジーやネアンデルタール人が森で群れの外の個体と遭遇すれば、それは即座に敵対行動や殺し合いへと発展するだろう。

私たちホモ・サピエンスも例外ではない。

かつて哲学者トマス・ホッブズが「万人の万人による闘争」と説いたように、もし規律という「タガ」が外れれば、自分の身を守るために他者を攻撃しようとするのは、生物として極めて自然な振る舞いだからだ。

現代社会では、法律によって物理的な暴力こそ封じ込められている。

しかし、数万年かけて刻み込まれた生存本能(DNA)までは、そう簡単に書き換えられない。

だからこそ私たちは、暴力という選択肢が奪われた現代においても、初対面の相手に対しては本能的に身構え、無意識のうちに強固な「心のバリケード」を築いてしまうのだ。

しかし、会話の中で相手が「同じ地元」や「同じ母校」の出身だと分かった瞬間、その警戒心が嘘のように氷解し、親近感が湧き上がった経験はないだろうか?

それは、相手も自分と同じ「地元の祭り」や「懐かしい校歌」といった、目に見えない「共通の物語」を共有する味方だと認識できたからだ。

私たちは進化の過程で、このように神話、宗教、法律、貨幣、そして国家といった「目に見えない集団的な物語」を信じ込む能力を獲得した。

「同じ神を信じているから、殺してはいけない」
「同じ法の下にあるから、契約は守られるはずだ」
「同じ日本人であるから、助け合うべきだ」

この目に見えない「認識の枠組み」こそが、互いに顔も合わせたことのない数千万人の赤の他人同士を繋ぎ止め、極めて柔軟かつ組織的に協力させることを可能にしたのである。

この「物語(フィクション)」に基づいた巨大な組織化こそが、ホモ・サピエンスの進化的飛躍であり、他の人類種を駆逐して地球の支配者となれた最大の理由だ。

この瞬間、群れの論理は、物理的な接触と血の繋がりに依存する「血縁」から、物語を共有する「信念」へと、劇的な進化を遂げたのである。

歴史的証明:弱小だった「キリスト教」はなぜローマ帝国をひっくり返せたか

この「群れを作って生き残る、あるいは変革する」というプロセスは、机上の空論ではない。

日本という国家の成り立ちと、ローマ帝国の変革という二つの巨大な歴史的事実が、それを雄弁に証明している。


生存戦略としての「日本」


私たち自身の足元、すなわち「日本」という国がどのようにして生まれたのか。

その起源を「群れの戦略」という視点から見つめ直してみよう。

縄文時代、狩猟採集社会を生きていた人々は、小規模な移動集団(バンド)で暮らしていた。

しかし、弥生時代に大陸から稲作が伝来すると、生存のルールは一変する。

水田を管理し、水路を引き、治水を行う土木作業は、家族単位の労働力では到底不可能だ。

人々は効率的に食料を生産し、生き延びるために、「ムラ」という共同体(固まり)として結束する必要に迫られたのである。

やがて、蓄えられた富(米)争いの種となる。

富を奪い合う戦争が始まると、小さなムラ同士は生き残りをかけて統合し、防衛力を高める必要が生じた。

これが「クニ」という、より大きな固まりへの進化だ。

日本という国家の原型である「大和政権」も、最初から一人の強大な独裁者がいたわけではない。

あれは、各地の有力な豪族(ウジ)たちが手を組み、王(オオキミ)を中心として緩やかに連携した「連合体の固まり」が始まりである。

なぜ彼らは手を組んだのか。

個々の勢力がバラバラに争うよりも、一つの巨大な「固まり」(国家)へと統合された方が、当時、中国や朝鮮半島といった大陸から絶えず押し寄せていた地政学的な圧力に、効果的に対抗できたからだ。

共通の敵」や「外圧」の出現が、内側の結束力を極限まで高める。

これは、脅威に直面した集団生存確率を上げるために選ぶ、生物としての本能的な戦略である。

さらに7世紀から8世紀にかけて、『古事記』や『日本書紀』といった歴史書が編纂されたのも、単なる記録のためではない。

「私たちは皆、同じ神々の子孫であり、天皇を中心とする一つの大きな家族である」

という「共通の物語(OS)」をインストールすることで、バラバラだった豪族や民衆を、精神的にも一つの「日本」という固まりにまとめ上げるための、極めて高度な政治的装置であった。

近代における明治維新もまた、この「固まりの再構築」に他ならない。

ペリー来航によって「西洋列強」――つまり「自分たちより遥かに巨大で強力な外の固まり」が目の前に現れたとき、日本人は生存の危機を感じ取った。

彼らは「」という小さな群れを解体し、「日本国民」という一つの巨大かつ強固な群れへと、急速にシステムをアップデートしたのである。

つまり、日本という国自体が、自然発生的に生まれたものではない。

「生き残るために、人々が意識的に群れを作り、物語を共有し、巨大化させた結果」

として、今ここに存在しているのである。


変革戦略としての「ローマとキリスト教」


この「固まりの原理」が、当時の世界最強の権力をひっくり返した歴史的な証明こそが、ローマ帝国におけるキリスト教の台頭だ。

紀元1世紀から4世紀にかけて、キリスト教徒はローマ帝国の体制側にとって、排除すべき「異分子」でしかなかった。

皇帝崇拝を拒否した彼らは「反逆者」として激しい弾圧を受け、その信者の多くは奴隷や貧困層といった、社会的に力を持たないマイノリティたちだった。

実際、紀元250年頃(デキウス帝の時代)の推計では、キリスト教徒は全人口のわずか約2%に過ぎなかったと言われている。

圧倒的な少数派であり、権力から見れば、いつでも踏み潰せる微弱な存在だったはずだ。

しかし、彼らは独自のコミュニティの中で強固な「助け合いのシステム」を築き上げていた。

疫病が流行した際にも、危険を顧みず看病にあたるなど、排他的でありながらも強力なセーフティネット(安全網)として機能し、人々の心を着実に掴んでいったのだ。

そして、最大の迫害(ディオクレチアヌス帝の時代)を耐え抜いた頃には、信者数は全人口の約10%、数にして300万から600万人という巨大な「固まり」に膨れ上がっていた。

ここに至り、力学は完全に逆転する。

人口の1割に迫るほど巨大化した「固まり」は、もはや武力で排除できる規模ではない。

彼らをすべて処刑しようとすれば、労働力が消滅し、社会機能そのものが麻痺してしまうからだ。

体制側は、冷徹な計算の下に判断を下した。

彼らを敵として抑え込むコストよりも、その組織力を統治に取り込み、利用するメリットの方が上回る、と。

この力学の変化が、313年の公認(ミラノ勅令)、そして最終的な「国教化」へと繋がった。

かつてのマイノリティが、その「固まりの力」だけで、世界最強の帝国の中心へと昇り詰めたのである。

この歴史的事実は、現代の政治学によっても裏付けられている。

ハーバード大学のエリカ・チェノウェス教授らが提唱した「3.5%ルール」だ。

「人口の3.5%が持続的に参加する非暴力運動は、決して失敗することがなかった」

という、驚くべき経験則である。

なぜ3.5%なのか? その規模になると、運動参加者の中に、体制側を守る警察官や軍人の家族、友人が含まれるようになるからだ。

「自分の娘や友人に銃を向けることはできない」

治安維持部隊がそう躊躇し、寝返った瞬間、権力の基盤は内側から崩壊する。

ローマの事例は、この数理を歴史的に証明している。

たとえ最初は微力な少数派であっても、信念によって結ばれた「群れ」を大きくし、ある臨界点(ティッピング・ポイント)を超えさせることができれば、世界最強の帝国ですら変えることができるのだ。


現代の支配構造:「組織票」と「ロビーイング」というハックの正体

しかし、現代においてこの「群れの力」を最も巧みに、そして冷徹に利用しているのは、残念ながら市民ではなく、既得権益を持つ勢力である。

彼らはロビーイングという形で、群れの力をシステム化し、民主主義をハックしている。

2022年の参議院選挙で明るみになった統一教会の暗躍も、まさにこの力学を悪用したものだ。

なぜ彼らが政治の中枢に食い込めたのか?

そのカラクリは「マンパワー」の提供にある。

彼らは単に票を入れるだけではない。

選挙期間には信者が無償で電話をかけ、ビラを配り、ドブ板選挙を支える。

政治家が喉から手が出るほど欲しがる「実働部隊(マンパワー)」と「確実な票」をセットで提供したのだ。

この「ギブ」があったからこそ、彼らは政策決定の場における強大な「テイク(影響力)」を手にすることができた。

私たちが直視しなければならないのは、政治家という生き物の行動原理だ。

彼らが最も欲しがるもの、それは崇高な「正論」でも、涙ながらの「嘆願」でもない。

「権力の座を維持するための票、資金、そして組織力」である。

これらを効率的に提供できる集団こそが、政策決定のテーブルにおいて絶大な発言権を持つ。

現代社会を舞台に、どのような「固まり」が暗躍しているのか。

代表的な3つのパターンを解剖してみよう。


① 資本と献金が形成する「規制緩和の固まり」(アメリカ)


現代のロビー活動の最前線であるアメリカでは、巨大資本がその「固まりの力」をいかんなく発揮している。

そこにあるのは、「」を「」や「政治的な影響力」へと変換する、極めて冷徹な錬金術だ。

例えば、製薬業界(ビッグ・ファーマ)や化石燃料業界を見てほしい。

彼らは毎年、数億ドルという天文学的な資金を投じてロビー活動を展開し、特定の議員への献金をシステム化している。

目的はシンプルだ。

薬価規制を阻止し、気候変動対策を遅らせ、自社の利益を最大化することである。

彼らにとって、巨額の政治献金は、決して善意の「寄付」などではない。

明確な見返り(リターン)を求めて行う、ビジネス上の「投資」なのだ。

この戦場では、「未来の地球を守りたい」と願うバラバラな個人の声よりも、「目先の利益を追求する」ために高度に組織化された資本の唸りの方が、圧倒的な音量で政治を動かしている

資金力という名の暴力的なパワーが、市民の良心を凌駕しているのが現実なのだ。


② 理念と組織力が阻止する「選択的夫婦別姓」(日本)


一方、日本において最強の影響力を持っているのは、金ではなく「理念に基づく強固な固まり」である。

その威力が最も分かりやすい形で現れているのが、「選択的夫婦別姓」を巡る問題だ。

世論調査を見れば、賛成派はすでに国民の過半数を超えている。

若い世代に限れば7~8割が賛成だ。

民主主義の原理に従えば、とっくに法制化されていてもおかしくない数字である。

しかし、現実はビクとも動かない。なぜか?

それは、反対派の側に「伝統的な家族観を守り抜く」と誓った、極めて熱量の高い「理念の固まり」が存在するからだ。

その中核を担う象徴的な存在が、全国の神社界をバックボーンに持ち、与党内に多数の加盟議員を抱える政治団体、「神道政治連盟」である。

彼らの強さは、単に反対意見を叫ぶことではない。

地方議会への請願、選挙時の組織票、そして運動員(マンパワー)の提供といった「実弾」を持っていることだ。

政治家の心理になって考えてみてほしい。

賛成派の市民が投じる「なんとなく賛成」という浮動票は、いつ裏切るかわからないあやふやなものだ。

対して、反対派の団体が突きつけるのは、「もしこの法案を通したら、我々の組織票をすべて引き上げる(お前を落選させる)」という、具体的かつ致命的な脅しである。

政治家にとって、どちらが怖いかは明白だ。

これを「熱量の非対称性」と呼ぶ。

賛成派が多数でも熱量が低ければ、少数でも灼熱のような熱量を持つ「固まり」には勝てない。

結果として、サイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)が、組織化されたノイジー・マイノリティ(声高な少数派)に敗北し続けるという、歪んだ構図が固定化されているのである。


ただし、ここで一つ、冷静に区別しておかなければならないことがある。

この連盟の存在を知ったからといって、

「神社そのものが悪だ」
「もう二度と鳥居はくぐらない」

といった短絡的な拒絶反応を起こすのは、あまりに乱暴であり、本質を見誤っている。

日本全国に約8万社ある神社のすべてがこの連盟に加盟しているわけではないし、現場で奉職する神職の全員が、画一的な政治思想に染まっているわけでもないからだ。

地域の人々の安寧を願い、純粋に祭祀を守り続けている神社も数多く存在する。

私たちが直視し、批判的に検証すべき対象は、あくまで一部の「組織化された政治圧力の構造」であって、日本の風土に根ざした文化や信仰そのものではない。


③ 既存の「固まり」と新規参入者の衝突(タクシー vs Uber)


この「固まりの原理」は、ビジネスにおけるイノベーションの運命すら決定づける。

既存の産業団体が形成する「固まり」は、しばしば新規参入者を阻む、難攻不落の城壁となるからだ。

この構造を、血なまぐさいほどのリアリティで描いたのが、タクシー業界とUber(ウーバー)の世界的な対立である。

なぜ、たかが「移動サービス」が、国家を揺るがす政治闘争に発展するのか。

それは、タクシー業界が単なる一産業ではなく、長年かけて築き上げられた「政治的な集票マシン」だからだ。

彼らが死守しようとしたのは、「二種免許を持つプロ以外は、客を乗せてはならない」という法規制の岩盤である。

彼らはこの岩盤を守るため、「乗客の安全」という、誰も反対できない絶対的な正義を盾にした。

「どこの誰とも知らない素人の車に乗るなんて危険だ」

この「安全の物語」を共有することで、業界団体、国土交通省、そして族議員は、強固な「鉄のトライアングル(政・官・業の癒着構造)」を形成し、外敵を排除してきたのである。

これに対し、Uberは真正面からのロビーイング(陳情)を選ばなかった。

彼らが取った戦術は、「既成事実化」と「ユーザーの群れ化」だった。

彼らは規制のグレーゾーンを突いてサービスを強行開始し、圧倒的な利便性で瞬く間にユーザーを獲得した。

そして、規制当局がUberを禁止しようとすると、アプリを通じて数百万人のユーザーに通知を送ったのだ。

「あなたの移動の自由が奪われようとしています。議会に反対のメールを送りましょう

アプリ上のボタン一つで、消費者政治的な圧力団体へと変貌させた瞬間だった。

これは、テクノロジーによって「安く移動したい消費者」と「空き時間で稼ぎたいドライバー」という、従来存在しなかった「デジタルな固まり」を瞬時に組織化し、リアルな政治権力にぶつけるという革命的な戦術だったのだ。

しかし、日本においてはこの戦いは長らくタクシー業界側の「防衛戦」が勝利していた。

日本では業界の政治力が極めて強固であり、「安全神話」という物語が国民に深く浸透していたからだ。

そのため、世界中で解禁されたライドシェアは、日本では長年にわたって「違法(白タク)」として封じ込められてきた。

最近になりようやく「日本版ライドシェア」として風穴が空いたが、それも「タクシー会社の管理下に置く」という条件付きだ。

これは、依然として旧来の「群れ」の力が健在であることを示している。

社会のルールとは、正義や技術的優位性によって決まるのではない。

常に、この「既得権益の固まり」と「新しい需要の固まり」の、冷徹な勢力均衡(パワーバランス)によってのみ決定されるのだ。


ちなみにUberが採用した戦術は、決して過去のものではない。

記憶に新しい2024年3月、アメリカで利用禁止法案(いわゆるTikTok禁止法)が審議された際、TikTokも全く同じカードを切った。

彼らはアプリを起動した数百万のユーザーに対し、

「TikTokの禁止を阻止しよう(Stop a TikTok ban)」

というポップアップを表示し、郵便番号を入力させて、ボタン一つで居住区の議員へ電話をかけられる機能を実装したのだ。

結果、議会の電話回線は抗議の声でパンク寸前に追い込まれた。

国境や時間を超えて瞬時に結合するこの『デジタルな固まり』は、私たちの社会が長年かけて築き上げてきた法や秩序という堅牢な城壁を、今後も次々と突破し、世界のルールを不可逆的に書き換えていくに違いない。


世界を救ってきた「善なる群れ」。公害国会とアイスランドの奇跡れ」

ここまで読むと、ロビーイングや「組織化された力」に対して、ネガティブな印象を抱いたかもしれない。

しかし、誤解しないでほしい。

ロビーイングという手法自体は、善でも悪でもない。

民主主義国家において、それは「デモ行進」や「請願署名」と何ら変わらない、社会に変化を促すための数ある合法的な戦術の一つだからだ。

包丁が使い方次第で凶器にもなれば、家族を笑顔にする料理を作る道具にもなるのと同じように、「群れの力」もまた、使い方次第で世界を劇的に良くすることができる。

実際、私たちが享受している権利や環境の多くは、誰かが「善なる群れ」を作り、権力に対して戦略的にロビーイングを行った成果である。

ここでは、希望となる4つの事例を紹介しよう。

まずは、日本とアイスランドの事例からだ。

① 「怒りの群れ」が政権を震え上がらせた日(1970年 公害国会)


「日本人は従順だから、どうせ社会なんて変わらない」

そんな無力感や冷笑が、今の日本には蔓延している。

けれど、歴史を振り返れば、その諦めが間違いであることに気づく。

かつて日本の市民は、強固な自民党政権を震え上がらせ、国の進路を180度転換させたことがあるからだ。

1970年の「公害国会」である。

当時、日本は高度経済成長の絶頂期。

だが、その光の裏側では、水俣病や四日市ぜんそくといった凄惨な公害が広がり、多くの住民が血を吐くような苦しみを味わっていた。

企業の利益が全てに優先され、人命が軽視されていた時代だ。

しかし、被害者たちは黙って泣き寝入りなどしなかった。

彼らは各地で激しい反対運動を展開し、国や企業を相手取って裁判を起こし、本社前で座り込みを続けた。

この「怒れる被害者の群れ」が全国規模で結合し、世論の猛烈な支持を得たとき、ついに永田町の論理が崩れた。

当時の自民党政権を動かしたのは、良心ではない。恐怖だ。

都市部での支持率が急落し、「このままでは政権が転覆する(選挙で負ける)」という強烈な危機感が、彼らを突き動かしたのだ。

結果、佐藤栄作内閣は臨時国会を召集し、なんと14もの公害関連法案を一気に成立させた。

中でも歴史的な勝利は、それまで聖域とされていた「経済調和条項」の削除だ。

「環境保全は、経済発展と調和する範囲で行う」

つまり「経済のためなら多少の環境破壊は我慢せよ」という、国家の優先順位を定めた一文を、法案から完全に消し去らせたのである。

これは、市民の群れが、「経済成長」という国家のドグマ(教義)を打ち砕き、「命の尊厳」を上位に書き換えた瞬間だった。

戦略的に束ねられた怒りの群れは、ここ日本においても、確実に社会を変える機能を持っているのだ。


② 「不在の群れ」が社会を麻痺させた日(1975年 アイスランド女性ストライキ)


群れの力は、「集まる」ことだけではない。

いなくなる」ことでも証明できる。

その極致が、アイスランドの伝説的な「女性の休日」だ。

1975年10月24日、男女の賃金格差や地位向上を求め、アイスランドの女性たちはある作戦を実行した。

デモ行進ではない。

何もしない」ことだ。

仕事はもちろん、家事も、育児も、料理も一切放棄した。

驚くべきはその参加率で、なんと国内の女性の90%がこのストライキに参加したと言われている。

結果、社会はどうなったか? 完全に麻痺した。

銀行も工場も商店も機能不全に陥り、父親たちは職場に子供を連れて行かざるを得ず、国中のソーセージ(簡単に調理できる唯一の食事)が売り切れたという。

この日、男性たちは骨の髄まで理解させられた。

「女性という群れがいなければ、社会は1日たりとも回らないのだ」

という事実を。

この「不在の証明」は強烈なインパクトを残し、5年後には世界初の民選女性大統領が誕生

アイスランドは世界で最もジェンダー平等の進んだ国へと変貌を遂げた。

これもまた、戦略的な群れの勝利である。


③ 「金の群れ」と「組織化された怒り」が独裁政権を倒した日(アパルトヘイト撤廃)


ロビーイング(圧力)が正義のために機能した、極めて強力な実例がある。

南アフリカ共和国における人種隔離政策「アパルトヘイト」の撤廃だ。

この事例は、決して「運良く起きた自然現象」ではない。

明確な意志を持った「戦略的な群れ」による、計算され尽くした勝利である。

当時、南アフリカ政府の軍事力と警察権力は盤石だった。

1976年のソウェト蜂起のように、自然発生的なデモや暴動は、圧倒的な暴力の前に鎮圧され続けてきた。

どれだけ現地の人々が血を流して叫んでも、バラバラな抗議活動では、強固な政権はびくともしなかったのだ。

この敗北から学んだANC(アフリカ民族会議)のオリバー・タンボ議長らは、戦術を根本から見直した。

彼らは極めて冷徹な

「闘争の4つの柱(大衆動員、地下組織、武装闘争、国際的孤立化)」

というグランドデザインを描き、国内の熱狂と、国外からの圧力「同時に」機能するよう、タイミングを計ったのである。

この戦略の下、1983年に国内で結成されたのが「統一民主戦線(UDF)」だ。

これは、教会、労働組合、学生団体、スポーツクラブなど、それまでバラバラに活動していた約600もの団体、総勢200万人以上の人々を一つの巨大なプラットフォームに統合する試みだった。

彼らは「UDF Unites, Apartheid Divides(UDFは団結させ、アパルトヘイトは分断する)」というスローガンの下、強固な「固まり」となった。

この「人の群れ」が、国内でストライキやボイコットを指揮し、経済活動を物理的に麻痺させたのだ。

同時に、国外では世界中の市民が「金の群れ」を作っていた。

すなわち「ダイベストメント(投資引揚げ)」運動である。

アメリカやヨーロッパの市民たちは、大学や銀行に対して「差別国家に投資するな」「資金を引き抜け」と激しく迫った。

この動きにより、GMやIBM、コカ・コーラといった世界的企業が次々と撤退を決める。

南アフリカの通貨は暴落し、経済は破綻寸前に追い込まれた。

結果、どうなったか。

それまでアパルトヘイトを支持していた国内の白人経営者たちが、「このままでは国ごと潰れる」と政府に泣きつき、ついに白旗を上げさせたのである。

これは、奇跡ではない

市民が直接政治家に愛を訴えるのではなく、UDFが国内で「人の群れ」を束ね、世界中の市民が国外で「金の群れ」を作り、経済という急所を的確に突いた

戦略的オーガナイジング(組織化)の完全勝利なのである。


④ 「群れ」は空さえも修復する(モントリオール議定書)


では、この手法は人権問題だけでなく、地球規模の環境問題にも通用するのだろうか?

答えはイエスだ。

私たちが今、オゾンホールを心配せずに生活できているのは、過去に「戦略的な群れ」が空を救ったからに他ならない。

1980年代、科学者たちは「フロンガスによってオゾン層が破壊されている」と警告した。

しかし、当時のフロン産業は巨大だった。

最大手であるアメリカのデュポン社をはじめとする化学業界は、

「規制は経済を破壊する」
「科学的根拠は不十分だ」

と主張し、強力なロビー活動で規制を阻止しようとしていた。

今の化石燃料業界と全く同じ構図だ。

しかし、この時も「群れ」が動いた。

まず、ローランドとモリーナという科学者がデータを突きつけ、NASAが「オゾンホール」という衝撃的な可視化映像を公開したことで、「科学と真実の群れ」が形成された。

これに呼応したのが、アメリカの市民たちだ。

彼らは「Ban the Can(スプレー缶を追放せよ)」というキャンペーンを展開し、フロン入りスプレーの不買運動を組織した。

政府が規制するよりも早く、消費者のボイコットによってスプレー市場の売り上げは激減した。

これが「消費者の群れ」だ。

そして決定打となったのが、「資本の群れ」の転向である。

不買運動による売上減と、将来的な規制のリスクを察知したデュポン社は、戦略を180度転換した。

「規制に反対して沈むより、代替フロンを開発して新しい市場の覇者になる」ことを選んだのだ。

彼らは一転して規制賛成派に回り、ロビー活動の矛先を「規制推進」へと変えた。

この動きに、規制に慎重だったレーガン大統領(当時)も動かざるを得なくなった。

こうして1987年、歴史的な「モントリオール議定書」が採択された。

この勝利は、科学者が警鐘を鳴らし、消費者が市場(金)を動かし、それが企業の方針を変え、最終的に政治を動かすという「群れのドミノ倒し」が完璧に決まった事例だ。

私たちは証明しているのだ。

団結し、戦略的に動けば、地球環境すら修復できるということを。


なぜ「史上最大のデモ」は敗北したのか? 数だけでは勝てない理由

ここで一つ、冷静に直視しなければならない「不都合な真実」がある。

それは、「群れはただ数を増やし、無闇に行動するだけでは目的を達成できない」という現実だ。

アパルトヘイト撤廃やオゾン層保護の成功例と対比して、私たちが教訓とすべき痛恨の敗北がある。

2003年のイラク戦争開戦前夜に行われた、史上最大規模の反戦デモだ。

世界中で数百万人が参加し、ロンドン、ローマ、東京、そしてニューヨーク、過去最高の動員数を記録したにもかかわらず、アメリカは開戦に踏み切った。

史上最大のデモは、戦争を止められなかったのである。

なぜか? それは、ブッシュ政権やその背後にいる軍産複合体にとって、デモ隊の存在「自分たちの権力基盤(票と金)を揺るがす脅威」ではなかったからだ。

政権側には、デモ隊よりも巨大で熱狂的な「愛国心で結束した保守層の群れ(票)」と、「戦争によって利益を得る軍事産業という資本の群れ(金)」がついていた。

路上で叫ぶ人々がどれだけ多くても、彼らが次の選挙で「組織的に対立候補に投票する」という行動に出なければ、あるいは軍事企業の株価にダメージを与えなければ、権力者は痛くも痒くもない。

彼らはデモを「一過性のガス抜き」として処理したのだ。

この歴史的敗北が教える教訓は一つ。

残酷なまでの戦術的リアリズムだ。

イラク戦争の反戦デモから抽出できる一つの教訓は、「群れの大きさ」だけでは不十分であり、「その群れが、相手の急所(利害の源泉)を突いているか?」という戦術的適合性が不可欠だということである。

したがって、社会を変革しようとするならば、まずは以下の三点を考える必要がある。

  1. プレイヤーの把握: 課題に関わる全ての勢力(相手の群れ)が誰で、どのような利害(固まり)を形成しているかを正確に把握すること。

  2. パワーバランスの理解: 相手の群れと自分たちの群れが持つ「票」と「金」の力の均衡を冷徹に分析すること。

  3. 戦略の立案: 相手の群れの力を上回る、あるいは「相手の急所を突く」ためには、どのような戦術的行動(ロビーイング、不買運動、組織票)を取るべきかという戦略を構築すること。

社会変革とは、単なる情熱の表明ではない。

「群れの力を最大化し、戦略的に運用する」という、極めて合理的な思考の積み重ねによってのみ実現するのだ。


「解決策」ではなく「構造」を把握する


私たちは往々にして、困難な問題に直面したとき、反射的に「解決策(ソリューション)」を求めようとしてしまう。

「どのSNSを使えばバズるか?」
「どんなキャッチコピーなら響くか?」

しかし、真に問題を解決しようと願うなら、逸る気持ちを抑え、まずはその問題を生み出している「構造(システム)」の全体像を把握しなければならない。

たとえば家づくりを考えてみよう。

注文住宅を建てるとき、いきなり

「北欧製のソファを置きたい」
「アイランドキッチンにしたい」

といったインテリア(解決策)から議論を始める人はいない。

もしそんなことをすれば、あとになって「部屋のサイズと合わない」「配管が通っていない」という物理的な壁にぶつかり、全てが水泡に帰すことになる。

賢明な施主なら、まずは泥臭い作業から始めるはずだ。

土地の形状はどうなっているか、地盤は固いか、建築基準法でどのような制限があるか。

そうした「動かせない構造(制約条件)」を冷徹に計測し、堅牢な「設計図」を描いた上で初めて、そこに最適なキッチンや家具を選定する。

社会変革も全く同じだ。

私たちが対峙しているのは、利害関係が複雑に絡み合った巨大な建造物である。

その「構造(誰が、なぜ、その権力を握っているのか)」を理解しないまま放つ「正論」や「デモ」は、設計図のない部屋に高級家具を無理やり押し込もうとする行為に等しい。

構造が思考を規定し、思考が戦術を規定する。

まずは、社会という土地の測量から始めよう。

この「構造への着眼」こそが、私が長年抱えてきた

「なぜ多くの人は、環境危機の深刻さを知りながら行動に移せないのか?」

という重い問いへの答えでもあった。

かつて私は、これを「個人の意識の低さ」や「道徳心の欠如」のせいにして嘆いていた。

しかし、それは決定的な間違いだった。

問題の本質は「個人の心」ではなく、私たちを取り巻く「資本主義」という社会構造(OS)そのものにある。

川の流れ(社会構造)が「短期的な利益」と「無限の消費」に向かって激流のように流れている中で、個人に向かって「逆らって泳げ(意識を変えろ)」と叫んでも、それは土台無理な話なのだ。

意識が行動を作るのではない。

社会の構造が、個人の意識を規定しているのだから。

では、具体的に資本主義のどのようなメカニズムが、私たちの「良心」を麻痺させ、環境破壊を加速させているのか。

その「構造の正体」については、以下の記事で徹底的に解剖している。


未来を築くための羅針盤:私たちが実行すべき「3つの戦略」

これらを踏まえると、なぜ日本が気候変動対策に本腰を入れないのか、その理由が残酷なほど明確になる。

政治家が気候変動に冷淡なのは、彼らが悪人だからでも、無知だからでもない。

彼らは極めて合理的に「損得」を計算しているに過ぎない。

その計算式とはこうだ。

「気候変動対策を推し進めなくても、誰も自分の権力を奪いに来ない」

現状において、

「気候変動対策をしなければ、次の選挙で票をいれないぞ」

と本気で圧力をかけ、票と資金を動かす集団(群れ)が、日本では極めて小さいか、あるいは分散してしまっている。

一方で、「脱炭素なんて急激に進められたら困る」と訴える産業界や化石燃料関連の「群れ」は、巨大で、資金力があり、そして一枚岩だ。

政治家の耳には、後者の声の方が、圧倒的な音量で響いている。

彼らの生存本能は、巨大な群れに従うことを選ぶ。

だからこそ、私たちは嘆いている場合ではない。

SNSで「政府は無策だ」と批判するツイートをしても、タイムラインで共感の「いいね」を集めても、それだけでは政治家にとって痛くも痒くもない

彼らにとって、組織化されていない個人の声など、風の音と同じだ。

私たちが、子供たちの未来を守り、気候変動という破局的な危機を回避したいと本気で願うなら、やるべきことは一つしかない。

バラバラに存在する「点」であることをやめ、私たち自身強固で、かつ戦略的な「群れ」となって、その規模を大きくし、相手の急所を突くことだ。

現代社会を変えるための「群れの武器」は主に3つある。


① 票の群れ(政治家へ)


政治家にとっての酸素は「」だ。

全米ライフル協会(NRA)がなぜあれほど強いのか。

それは彼らが

「我々の要求を飲まないと、組織的に対立候補に投票し、あなたを確実に落としますよ?」

という、冷徹な「票の取引」を行っているからだ。

これを「ネガティブ・ボーティング(処罰投票)」という。

政治家は、理念で動くのではない。

失職への恐怖」で動く。

気候変動対策をしない政治家に対しては、選挙区ごとの組織的なプレッシャーや、対立候補への組織票提供の方が、遥かに脅威となる。

「私たちを敵に回すと、次の選挙は危ないですよ」

と思わせる規模の群れが必要なのだ。


② 金の群れ(企業へ)


企業にとっての酸素は「売上」と「株価」だ。

環境破壊をする企業に対しては、本社前でシュプレヒコールをあげるよりも、南アフリカやオゾン層保護の事例のように「不買運動(ボイコット)」で売上を落とし、「ダイベストメント(投資撤退)」で株価を下げることの方が効く。

Uberが規制を突破できたのは、デモをしたからではなく、「こっちの方が便利だ」と支持し、金を落とす消費者の群れが、既存業界の売上を脅かしたからだ。

私たちは財布という「投票用紙」で、毎日企業を選別することができる。

逆に、サステナブルな企業に対しては、私たちは積極的に「金」という力を注ぎ込む必要がある。

環境配慮型の企業に徹底的に資金を投じることで、彼らを市場を動かす「新しい資本の群れ」として育成するのだ。

不買運動(ボイコット)と対をなすこの積極的な消費行動は、バイコット(Buycott)というムーブメントとして知られている。

企業にとって「売上」と「株価」が酸素である以上、消費者一人ひとりの購買行動こそが、最も迅速に、そして直接的に市場の規範を書き換える力となる。

ボイコットもバイコットも、どちらも社会を変える戦術だが、ボイコット運動は「怒り」や「悲しみ」といった強い感情を必要とするため、活動を継続する人々の心理的負荷が大きくなりがちだ。

だからこそ、サステラが推奨したいのは、エシカル消費をはじめとする、この「買って投票する」という建設的なムーブメントである。

なぜなら、「ストレスなく活動を継続できる」ことこそが、持続可能な社会変革を実現するための、私たちの哲学だからだ。


③ 注目の群れ(世論へ)


問題の存在すら知られていないフェーズ(例えば初期の気候変動問題や、隠された人権侵害など)においては、デモ行進SNSでの拡散(バズ)が極めて強力な戦術となる。

なぜなら、この段階で最も必要なのは、道路封鎖などの強いアクションで平穏な日常を一時的に遮断し、ニュース映像になることで、強制的に社会の注目(アテンション)を獲得することだからだ。

つまりデモやバズの本質は「解決策」ではなく、課題の存在を知らせる「巨大な拡声器」なのだ。

2003年のイラク戦争のデモは戦争自体は止められなかったが、後の世代に「あの戦争は不当だった」という記憶を刻み込み、その後の政治情勢に影響を与えたという意味では、「世論形成の基礎」を築くという点で無駄ではなかった。

しかし、その限界も理解する必要がある。

美術館で名画にスープをかけるような過激な行為が、いまのところ気候変動対策に有効に作用していないのは、その行動が「注目の群れ」を一時的に集めるだけで、権力構造の急所を突くことに失敗しているからである。

「①票の群れ」や「②金の群れ」に対するアプローチが欠けているのに、「③注目の群れ」だけを実行している状態だからだと私は推察している。


社会変革のアルゴリズムを実行しよう

「サステラ」での活動も、クラウドファンディングも、コミュニティ運営も、すべてはこの一点に集約される。

私たちが、無視できない規模と影響力を持った「群れ」になること。

かつてローマ帝国を動かしたキリスト教徒たちのように、公害国会で日本を動かした市民たちのように、そしてアイスランドで社会を止めた女性たちのように、信念に基づいた強固な連帯を作り上げること。

「たかが3.5%」と思うかもしれない。

しかし、日本の人口で言えば約400万人だ。

この数が、同じ方向を向き、同じ熱量で、戦略を持って動き出したとき、もはやどの政治家も、どの巨大企業も、その声を無視することはできなくなる。

社会を変える方法は、魔法のような一発逆転の奇策ではない。

かつて私たちの祖先が、生き残るためにムラを作り、国を作ったように。

地道に、しかし確実に、隣の人と手を繋ぎ、同じ志を持つ仲間を増やし、連帯の輪を広げていく。

「群れを作れ」

「群れを大きくせよ」

「群れで行動せよ」

「ただし、賢く、戦略的に」

それが、ホモ・サピエンスが歴史の中で証明してきた、世界を変えるための唯一にして最強のアルゴリズムなのかもしれない。

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