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なぜ人は環境問題を知りながら行動に移せないのか?

以前、サステラのInstagramをフォローして頂いている方から、ある印象的なエピソードを聞いたことがある。

環境に優しい洗剤を買って帰ったら、『泡立ちが悪い』と夫に言われ、喧嘩になった」

このエピソードが示唆しているのは、単なる好みの不一致ではない。

環境への配慮に価値を見出し、多少の不便さを許容しようとする妻。

そして、効率や機能性を最優先し、環境配慮という「見えない価値」を受け入れられない夫。

洗剤ひとつを巡るこの些細な衝突には、現代社会が抱える「価値観の断絶」が凝縮されている。

驚くべきことに、こうした話は一人や二人ではない。

似たような嘆きを、私は数えきれないほど耳にしてきた。

なぜ、家族という最も小さな社会単位の中でさえ、これほど深い意識の隔たりが生まれてしまうのか?

私はサステラを立ち上げて以降、この問いと常に向き合い続けてきた。

そして行き着いた結論は、これが個人の「性格」や「勉強不足」の問題などではない、ということだ。

もっと巨大で、根深い「社会構造」の病が、私たちの心に巣食っている。

それは、私たちが信じてやまない「成長」という名のアイデンティティと、「地球の限界」との間で引き裂かれる、魂の悲鳴のようなものだ。


「自分であること」を守るためのバリケード

夫がエコ洗剤を拒絶したとき、彼が本当に守りたかったのは「泡立ち」だったのだろうか?

私は違うと思う。

彼が守ろうとしたのは、「これまで社会で戦い、勝ち抜こうともがき続けてきた自分自身」だったのではないか。

現代を生きる私たちは、物心ついた時から、資本主義的な「成長の論理」の中で自分を定義し、そのシステムに最適化することで幸福を追い求めてきた。

偏差値の高い大学、有名な企業、同期より早い出世、そして手に入れたマイホームや車。

これら「成功の証」こそが、私という人間の価値であり、揺るぎない信念の核となっている。

私はこれを「成長至上アイデンティティ」と呼ぶ。

GDP(国内総生産)を中心とした経済システムに過剰適応し、

より多く、より速く、より効率的に

自己の価値基準として内面化した状態だ。

すなわち、人が環境行動に移行できない最大の要因は、「自分が自分であること」を守ろうとする心理メカニズムにある。

サステナビリティが、個人の成長至上アイデンティティと正面衝突する際の心理作用を深掘りしていこう。

認知的不協和

私の考察を裏付ける重要な概念は、レオン・フェスティンガーによって提唱された「認知的不協和理論」だ。

人は、自己の信念と行動が矛盾するとき、極度の心理的な不快感、すなわち不協和を経験し、それを解消しようと強く動機付けられる。

例えば、「私は環境を大切に思っている」という信念と、「毎日車を運転している」という行動が衝突する。

この矛盾を解消する最も簡単な方法は、行動を変えることではなく、信念の方を自分に都合よく歪める(合理化する)ことである。

■責任の最小化

「私一人の行動で地球は変わらない」と、無力感を盾に行動の必要性を否定する。

■問題の矮小化

「環境問題は専門家が言うほど深刻ではない」と問題を過小評価する。

■他者への責任転嫁

「政府や大企業が解決すべきで、個人の責任ではない」と、義務から逃避する。


このように、個人の心は、環境行動という「不便」や「コスト」を払うよりも、自己を正当化し、現在の快適な生活を維持する方を選ぶ。

この合理化の連鎖こそが、社会の「知っていながら行動しない」状態を生み出しているのだ。

この強固なアイデンティティを持つ人間に対し、サステナビリティが突きつける「足るを知れ」「消費を抑えろ」というメッセージは、単なる提案ではない。

それは、「お前がこれまで信じ、積み上げてきた努力は間違いだった」という、人格否定の刃として突き刺さる。

たとえば小学校から野球一筋で生きてきた球児に対し、ある日突然、親が「明日から吹奏楽部に入れ」と命じるようなものだ。

9年間の汗と涙を否定された彼は、激しく抵抗するだろう。

それと同じことが、大人の社会でも起きている。

「効率こそ正義」と信じて働いてきた人間に、「効率を捨てて環境に配慮せよ」と迫ることは、彼らの人生そのものを否定する脅威となるのだ。

だからこそ、人は無意識に心の防衛機能を働かせる。

「私一人の行動で地球は変わらない」と無力感を盾にし、「環境問題なんて大げさだ」と問題を矮小化する。

そうやって「認知的不協和」という心の痛みを麻痺させなければ、昨日の続きである今日を、平穏に生きられないからだ。

時間割引率

行動経済学には、私たちがなぜ環境行動を後回しにしてしまうのかを解き明かす、残酷な概念がある。

それが「時間割引率」だ。

人間というのは、悲しいほどに近視眼的な生き物だ。

私たちは本能的に、遠い未来に得られる大きな利益よりも、目の前にぶら下がった利益や快楽を過大に評価してしまう傾向がある。

環境行動における「コスト」と「利益」のバランスを想像してみてほしい。

「車ではなく不便なバスに乗る」
「高いオーガニック食品を買う」

といったコストは、常に「現在(今この瞬間)」に発生する。

財布は痛み、時間は奪われ、身体は疲れる。

その痛みはリアルで即時的だ。

対して、その見返りである「地球温暖化の回避」や「生態系の保全」という利益が得られるのは、いつだろうか?

それは「遠い未来」の話であり、しかも自分一人だけのものではなく、地球や社会全体で薄く広く共有される「集合的な利益」としてしか現れない。

「今、自分が我慢したところで、その恩恵を確信できるのは50年後かもしれない」

そう無意識に計算した瞬間、脳は「割に合わない」と判断し、短期的な自己利益の追求へと舵を切る。

これはある意味で、生物としては極めて合理的な反応なのだ。

そして、この個人の心理的な弱点を、社会システムが執拗に攻め立てる。

GDP中心の経済システムは、まさにこの「今すぐの利益」を最大化するように設計されているからだ。

企業は四半期ごとの決算に追われ、「今すぐ買って、今すぐ消費すること」を私たちに奨励し続ける。

つまり、私たちの脳に染み付いた「心理的バイアス」と、社会を動かす「経済システム」が、悪魔的な共鳴を起こしているのだ。

この強力な構造的挟み撃ちの中で、一個人の意志の力だけで環境行動を貫くことが、いかに困難な「無理ゲー」であるか。

夫がエコ洗剤を拒絶した背後には、こうした逃れられない現代の呪縛が横たわっているのである。

GDP中心主義という社会の羅針盤

個人の心がこれほど頑なになる背景には、個人の性格以前に、私たちを支配する社会の「OS(基本ソフト)」そのものに深刻なバグがあると言わざるを得ない。

すなわち、国家が進むべき方向を示す羅針盤が、「GDP(国内総生産)」という単一の、そして時代遅れの指標に固定されているという悲劇だ。

数字の奴隷:GDPという「穴だらけ」の定規

GDPは、国の経済活動の規模を測る最もポピュラーな指標として、ニュースで毎日のように報道される。

しかし、この指標には決定的な「盲点」がある。

それは、経済学でいう「外部不経済」を完全に無視してしまうことだ。

外部不経済とは、経済活動によって生じる「第三者への不利益」――例えば環境汚染、騒音、資源の枯渇、そして人々の健康被害などが、市場価格に一切反映されない状態を指す。

想像してみてほしい。

業者が森林を伐採し、木材として販売すれば、GDPの数字は積み上がる。

しかし、その結果として土壌が流出し、生物多様性が失われ、将来的な災害リスクが高まったとしても、その「損失」はGDPからは1円たりとも引かれない

あるいは、不幸にも交通事故が起きたとする。

車は壊れ、人は怪我をする悲劇的な出来事だ。

しかし、GDPの計算式においては、車の修理費や病院への医療費が発生することで、むしろ「経済成長」としてプラスにカウントされてしまう。

つまり、GDPという定規は、「どれだけ持続的に豊かになったか(質)」を測ることはできず、単に「どれだけモノやサービスが生産・消費されたか(量)」だけを計測する、極めて一面的な指標に過ぎないのだ。

国家がこの盲目的な指標を唯一の成功基準(KPI)として掲げている限り、社会システム全体が「環境や幸福を犠牲にしてでも、数字上の成長を追求する」ようにインセンティブ付けされるのは、必然の帰結である。

ここには、巨大な矛盾がある。

国はGDP拡大のために「もっと生産せよ、もっと消費せよ」とシステムをフル回転させておきながら、個人に対してだけは「環境のために消費を控えよ」と説教をする。

国家のアクセルと、個人へのブレーキ指示が同時に踏まれている状態だ。

国がGDP以外の価値を見ていないのに、個々人がその提言に従って行動を起こす動機など、今のシステム内には存在しない 。

この構造的な欠陥こそが、個人が環境配慮型の行動をとろうとする際に立ちはだかる、目に見えない、しかし強大な制約となっているのである。

環境社会学が暴く、「行動できない」物理的な理由

「意識を変えよう」というスローガンがいかに空虚であるか。

環境社会学という学問は、その残酷な理由を浮き彫りにする。

行動変容の遅れは、個人の意識の問題ではない。

私たちが暮らす「社会のインフラや制度の設計」そのものが、サステナブルな生き方を拒絶しているからだ。

GDPを最適化するために築き上げられたこの社会基盤は、環境に配慮しようとする個人の努力を、物理的・時間的・経済的に困難な「いばらの道」に変えてしまっている。

■ 車社会という名の「強制された選択」

私たちの住む街を見渡してみてほしい。

戦後、自動車産業の発展と化石燃料の大量消費を前提に設計された都市計画は、広大な道路と駐車場を整備し、街を郊外へと拡散させた。

その結果、地方都市では公共交通機関が衰退し、バスは1時間に1本来るかどうかという状況だ。

歩道は狭く、自転車で走れば大型トラックの風圧に怯えることになる。

この環境下で、「環境のために車を使わない」という選択ができるだろうか?

それはもはや「選択」ではなく、生活の破綻や身の危険を意味する。

個人が環境行動を選択しようとしても、インフラ自体がそれを拒否している状態なのだ。

■ 「時間貧困」が奪う、丁寧な暮らし

さらに深刻なのが、労働時間の問題だ。

GDP競争の果てに、企業は極限までの効率と成長を求め、私たちの労働時間は管理され、密度は高まり、可処分時間は削り取られていく。

私たちは今、圧倒的な「時間貧困」の中にいる。

サステナブルな暮らし――例えば、地元の市場で旬の食材を買い、時間をかけて調理する。

あるいは、壊れた家電や衣服を修理して使い続ける。

これらはすべて、「時間」という贅沢なリソースを必要とする。

仕事に追われ、クタクタになって帰宅した人間に、その余裕はない。

結果として、すぐに手に入る安価な大量生産品を買い、プラスチック容器に入ったデリバリーを頼み、壊れたらすぐに買い替える。

「環境負荷は高いが、時間効率が良い」サービスに、頼らざるを得ないのだ。

国家の指針がGDPである以上、「経済的な合理性」の名のもとに、環境負荷の高い行動が常に「最も簡単で、便利で、安上がりな選択」として私たちの目の前に用意され続ける。

これは、社会システムそのものに内蔵された「環境破壊へのインセンティブ(動機付け)」と言えるだろう。

夫が環境配慮型の洗剤を拒んだのも、彼がこの「時間貧困」と「効率性の罠」の中で必死に泳いでいたからに他ならないのだ。

教育とキャリアに刻まれた「成長バイアス」の呪い

私たちが「GDPの戦士」として最適化されるプロセスは、大人になってから始まるのではない。

それは、ランドセルを背負った瞬間から、教育システムによって巧妙に組み込まれている。

現代の学校教育は、残念ながら「幸福な人間」を育てることよりも、経済競争に打ち勝ち、高い生産性を発揮する「優秀な労働者」を育成することに主眼が置かれていると言わざるを得ない。

評価されるのは常に、知識の量、テストの点数、そして効率的な問題解決能力だ。

一方で、「持続可能な生活の知恵」や「コミュニティへの貢献」、「他者へのケア」といった、GDPには換算できない非経済的な価値観は、教室の片隅に追いやられ、軽視され続けてきた。

■ 「キャリアの失敗」という恐怖

この「成長バイアス」は、社会に出るとさらに強化される。

企業の評価基準は、短期的な利益と成長率に縛られている。

そこで働く個人もまた、「成長企業」への就職や、同期よりも早い「昇進」を通じて、自己の価値を証明しようと必死になる。

長年にわたり、資本主義的な成功モデルと自分のアイデンティティを一体化させてきた人間にとって、「脱成長」や「ダウンシフト」といった価値観を受け入れることは、単なるライフスタイルの変更ではない。

それは、「キャリアの失敗」や「敗北」を認めることに等しい、強烈な恐怖を伴うのだ。

■ 野球選手にならなければ「負け組」なのか?

この状況を、再びスポーツに例えてみよう。

もし、国家と社会全体が「プロ野球選手になることこそが、人生唯一の成功ルートだ」と定めている世界があったとする。

そんな世界で、親が子供に「野球はやめて、吹奏楽部に入りなさい」と勧めることができるだろうか?

おそらく、それは「子供の将来を危うくする、非合理的な選択」として、周囲から狂気扱いされるだろう。

「吹奏楽(=サステナブルな生き方)」がいかに素晴らしくても、「野球(=経済成長)」だけが評価されるルールブックの上では、それは無価値なものとして扱われてしまうのだ。

国家の指針「個人の合理性」を規定している。

夫がエコな選択を拒んだのは、彼がこの「野球一強」のルールブックの中で、家族を守るために必死にバットを振り続けてきたからに他ならない。

彼に求められているのは、ルールの変更であって、野球を続けることへの批判ではないはずだ。

(余談ではあるが、私は別に野球が嫌いなわけではない。)

幸福と持続可能性の最大化:社会の羅針盤を「GDP」から「ウェルビーイング」へ

この強固な矛盾を解消し、サステナビリティを「自己否定(我慢)」ではなく「自己実現(喜び)」として捉え直すためには、どうすればいいのか。

答えは一つ。

社会が目指す羅針盤の方角を、GDPから根本的に転換することだ 。

国家の指針に、GDP以外の指標――たとえば「幸福度指数(Well-being)」や「真の進歩指標(GPI)」といった新しい物差しを導入する意義は計り知れない。

それは、単なる「カネの多さ」ではなく、健康、教育、コミュニティの絆、環境の質、そして何より「時間の使い方」といった、人間が人間らしく生きるための要素を総合的に評価することを意味する。

こうした指標を国家の目標として掲げることは、「この社会は何を最も価値あるものと見なしているか」というメッセージを、国民一人ひとりの心に明確に刻み込むことになる。

それは、社会的な「成功」の定義そのものを再構築する、静かな革命なのだ。

「成功」の定義を書き換える

国家の目標を、「GDPの最大化」から「国民のウェルビーイング(幸福と持続可能性)の最大化」へとシフトする。

これこそが、社会全体に行動変容を促す、最大かつ最強のナッジ(後押し)となる。

ウェルビーイングとは、単にお金を持っていることではない。

心身が健康であり、教育が行き届き、美しい環境があり、孤独ではなく、自分の時間を生きていること。

そして、次世代に希望が残されていること。

これらを持続的に満たすことこそが、本当の豊かさだという合意形成だ。

■ ニュージーランドが示した「国家の品格」

これは絵空事ではない。

世界ではすでに、この転換が始まっている。

ニュージーランド、スコットランド、フィンランド、アイスランドなどで構成される「ウェルビーイング・エコノミー・ガバナンス・アライアンス(WEGo)」は、GDPに代わる指標群を政府の政策決定のど真ん中に据えている。

特に象徴的なのが、2019年にニュージーランドが世界に先駆けて導入した「ウェルビーイング予算」だ。

彼らは、単に経済成長率を上げるための公共事業ではなく、国民の精神衛生(メンタルヘルス)、環境保護、コミュニティ形成といった「幸福のインフラ」に対して、優先的に予算を配分することを決定した。

このような転換が実現すれば、「社会が何を大切にしているか」というメッセージは、国民の意識の深層にまで浸透していく。

■ 新しい「合理性」とアイデンティティの再生

この新しい羅針盤の下では、かつて夫が感じた「不合理」は消滅する。

環境に配慮した行動は、もはや「コスト」や「我慢」ではない。

それは「ウェルビーイングの向上」であり、「社会への貢献」という、新しい世界における「最も合理的で、賢い行動」へと意味が変わる。

そして何より、個人のアイデンティティが書き換えられる

私たちはもはや、「GDPを押し上げるための歯車」として自分を定義する必要はない。

「自分自身の幸福と、未来世代のウェルビーイングに貢献する人間」という、より誇らしく、ポジティブなアイデンティティを持って生きることができるようになるのだ。

国が「成長」の呪縛を解いたとき、初めて私たち個人もまた、本当の意味で自由になれるのかもしれない。

頑張らなくていい仕組み:ナッジ理論による「行動のデフォルト化」

価値観の転換と同時に、もっと即効性のあるアプローチも必要だ。

そこで登場するのが、行動経済学の「ナッジ(Nudge)理論」である。

これを社会システムに組み込むことで、サステナブルな行動を「努力の要らないデフォルト(初期設定)」にしてしまうのだ。

ナッジとは、直訳すれば「肘で軽く突く」という意味。

人々の選択の自由を奪うことなく、望ましい方向へ「そっと背中を押す」手法を指す。

例えば、社員食堂で野菜や果物をレジ横の目立つ場所に置くだけで、健康的な食事を選ぶ人が増える。

これも立派なナッジだ。

■ 「怠惰」を味方につけるデフォルト・ルール

これを社会規模で実装すると、劇的な変化が起きる。

例えば、企業の年金積立金の運用先を考えてみよう。

「特に指定がない場合、自動的にESG(環境・社会・ガバナンス)投資のファンドに振り分ける

というルールをデフォルトにする。

人間は基本的に面倒くさがりな生き物だ。

わざわざ設定を変更する人は少ない。

たったこれだけの仕組みで、多くの人々が意識的な努力を一切することなく、知らぬ間にサステナブルな投資の担い手となり、巨額の資金が環境配慮型企業へと流れるようになる。

■ 「見栄」を利用する情報提示

情報の見せ方も重要だ。

電力会社からの請求書に、単なる使用量だけでなく、「近隣住民の平均消費量と比較してどうか」というグラフを載せる。

「あなたは平均より使いすぎています」と可視化されると、人は

「他者と同じようにありたい」
「恥ずかしい思いをしたくない」

という社会的規範(ソーシャル・ノーマル)の心理が働き、無意識に節電行動をとるようになる。

特に、「和」を重んじ、周囲との調和を大切にする私たち日本人にとって、これほど効果てきめんなアプローチはないかもしれない。

国家の指針がGDP以外にも向けられ、その価値観が制度設計に反映されれば、これらのナッジが真の威力を発揮する。

システム全体がウェルビーイングに最適化されることで、サステナブルな行動が、個人にとって「最も抵抗が少なく、自然で、楽な行動」となるのだ 。

「人を作る工場」を変える:教育と企業行動の変革

ウェルビーイング経済への転換は、個人のアイデンティティ形成に最も影響を与える二大要素、すなわち「教育」と「企業行動」を根本から変える力を持つ。

■ 教育:競争者から貢献者へ

学校教育のカリキュラムに、「気候リテラシー」や「エシカル消費」といった科目を必須化する。

そこで評価されるのは、単なる暗記力ではない。

環境課題を解決するための協調性や、他者の痛みを想像する共感力といった、ウェルビーイングに不可欠なスキルだ。

これにより、次世代の子供たちのアイデンティティは、「他人を蹴落として勝つ者」から、「持続可能な社会を共に築く貢献者」へと、自然な形でシフトしていく。

■ 企業評価:利益と倫理の統合

そして、大人の戦場である企業の評価基準も変わる。

株主利益の最大化だけではなく、経済・社会・環境の三側面を評価する「トリプル・ボトムライン」へと転換するのだ。

こうなれば、環境負荷の高いビジネスモデルは市場から淘汰され、サステナブルなイノベーションこそが、企業にとっても個人にとっても、最も魅力的で称賛されるキャリアとなる。

このとき初めて、環境行動は「コスト」ではなく「競争優位性」となり、私たちを苦しめていた「個人の成長」と「環境への貢献」の間にあった深い矛盾は、完全に解消されるのである。

アイデンティティ変容を促す「競争からの離脱期間」

冒頭で紹介した「エコ洗剤を受け入れる妻」と「拒絶する夫」のエピソード。

実は、こうした構図は決して珍しいものではない。

環境問題に関心を持つ層を統計的に見ると、男性よりも女性の比率が圧倒的に高いことは、多くの調査で示されている事実だ。(*1)

実際、私の運営するサステラのInstagramのフォロワーも、2024年までの女性比率は実に8割にものぼっていた。

この男女による関心度の差について、一般的に語られる根拠は

「女性が男性よりも共感性が高く、他者志向的な傾向がある」

というジェンダーの社会化理論だ。

しかし、私はこの根拠に加え、「資本主義社会における競争からの離脱期間」が大きく関与しているという独自の仮説を提唱する。

多くの女性は、男性とは異なり、人生のある時期に出産や育児というステージを迎え、キャリアを中断せざるを得ない期間が生じる。

私は、この離脱期間こそが、環境行動へのアイデンティティの再構築を促すうえで極めて重要であると分析している。

レールを降りて、初めて見える景色

現代の日本社会において、出産や育児を機に、一時的であれキャリアを中断し、職場という戦場から離れるのは、依然として女性が圧倒的多数だ。

私は、この「離脱期間」こそが、成長至上アイデンティティを解体し、環境行動へと向かわせる決定的な転機になっていると分析している。

想像してみてほしい。

それまで「キャリア・プロフェッショナル」や「経済的な稼ぎ手」として、数字と効率を追い求めてきた自分が、ある日突然、そのレールから降ろされる

社会との接点が薄れ、取り残されるような焦燥感を感じるかもしれない。

しかし、この期間は同時に、一種の「俯瞰的な視点(メタ認知)」を獲得する貴重な時間としても機能する。

組織の論理や、短期的な利益追求というプレッシャーから解放され、一人の人間として社会を見つめ直す

すると、これまで絶対だと思っていた「経済合理性」や「成長至上主義」といった価値観が、実は自分を縛り付けていた鎖だったことに気づく瞬間が訪れる。

かつての強固な自己概念が一時的に解体され、心に空白が生まれる。

その空白に、「持続可能性」や「コミュニティとの繋がり」、そして「子供の未来」といった、成長以外の新しい価値観が、じんわりと入り込んでくるのだ。

これは、環境行動を阻んでいた最大の壁である「GDP成長モデルに最適化されたアイデンティティ」が、競争からの離脱によって強制的にリセットされ、逆説的に「人間としての本来の感性」を取り戻すプロセスだと言えるだろう。

妻が洗剤を変えたのは、彼女が単に優しかったからではない。

彼女は一度レールを降り、私たちを乗せて暴走する列車の危うさに、いち早く気づいた「目撃者」だったからなのかもしれない。

人生の転機としての「指針の転換」

さらに、このアイデンティティの再構築を決定的なものにするのが、「子ども」という存在だ。

自分の人生とは切り離せない、守るべき新たな命。

この指針が加わることで、私の仮説はより確かな輪郭を帯びる。

心理学や社会学において、出産などの人生の転機(ライフ・トランジション)は、人の価値観が最も劇的に変わりやすいタイミングだとされている。

なぜなら、子どもが生まれた瞬間、それまで抽象的だった「30年後の地球」が、我が子が生きる「具体的な現実」へと変わるからだ。

個人の合理的な判断基準に、「将来のリスク」が強烈なリアリティを持って組み込まれる。

その結果、どうなるか。

「今の自分が、資本主義的な成功(GDP成長の恩恵)を享受すること」よりも、「気候変動が、将来この子に牙を剥くかもしれない」という恐怖の方が、行動の動機として圧倒的に強くなるのだ。

これは単なる社会的な正義感ではない。

「子どもという、自己の一部への拡張」とも呼べる、本能的で切実な共感性の広がりである。

■ レールから降りられない男たちの悲哀

一方で、多くの成人男性には、この転機が訪れにくい残酷な事情がある。

彼らには、社会的な期待やプレッシャーにより、資本主義社会のレールから一時的にでも離脱して、世界を俯瞰するような時間的な余裕が与えられていないのだ。

たとえ仕事を辞めたとしても、離職期間が長くなればなるほど、転職市場での価値は傷つく

「男は稼いでなんぼ」という無言の圧力の中、経済競争のレールへ一刻も早く戻ることが社会的に要求され続ける。

結果として、男性は自分の精神を保つために、「成長至上アイデンティティ」をより強固に維持せざるを得なくなる。

だからこそ、「脱成長」や「スローライフ」といった価値観に対し、自分の生存戦略を否定されるような強い認知的不協和を感じてしまうのだ。

■ 洗剤の泡立ちに隠された「本音」

この「資本主義からの離脱の有無」という仮説を裏付けるのが、冒頭の洗剤のエピソードだ。

あの夫婦の間で起きていたのは、単なる好みの違いではなく、アイデンティティの正面衝突だった。

妻にとってのエコ洗剤の選択は、「子どもの健康と未来をケアする責任ある親」という、再構築された新しい価値観に基づく行動だ。

一方、夫が口にした「泡立ちが悪い」という不満。

それは単なる機能性へのクレームではない。

彼が本当に言いたかったのは、「時間対効果(タイパ)」や「効率性」、そして「良い製品を買うだけの経済力がある自分」といった、彼が長年、資本主義社会という戦場で培い、自分を支えてきた「成長至上アイデンティティ」の主張だったのだ。

エコや脱炭素といった価値観は、成長至上アイデンティティを持つ男性にとって、「効率を追求する自分の仕事」や「経済的な成功」そのものが否定されているかのように響いてしまう。

例えるなら、休日の野球観戦を楽しみに生きてきた夫に対し、突然

「野球なんてやめて、クラシックコンサートに行きましょう」

と提案するようなものかもしれない。

夫にしてみれば、自分の楽しみや価値観一方的に断罪されたように感じるだろう。

日常のたった一つの洗剤。

しかしそこには、「持続可能性」という新しい合理性と、「成長・効率」という従来の合理性がぶつかり合う、現代社会の無意識の対立構造が、縮図のように横たわっているのである。

考察の原点:私自身の「成長至上アイデンティティ」の崩壊

成長至上アイデンティティが、環境行動に対する大きなハードルになっているという推察は、私自身の経験にも深く根ざしている。

私は2016年に会社を辞めて起業したが、当時の私の行動原理はまさにこの成長至上アイデンティティに駆り立てられていた。

サステラを立ち上げた2020年当時まで、私は環境問題には関心がなく、起業してからの4年間はファッションのWebメディアを運営していた。

当時の目標は、Webメディア運営によって売上を拡大し、経済的な成功を収めることに尽きていた。

実際、私は会社員時代では考えられないほどの経済力を手に入れ、ブランド品を買いあさったり、高額な賃料の物件に住んだりしていた。

しかし2020年、世界的なパンデミックによってファッションWebメディアの売上が激減し、ブランド品を売ったり、賃料の安い物件への引っ越しを余儀なくされた。

この経済的な後退は、私の成長至上アイデンティティという信念が、否応なしに揺らいでいた時期と重なる。

売上不振という現実から目を背けるように、私はゲームをしたりNetflixを見たりした時期があった。

(サステラを立ち上げるきっかけにもなった環境問題のドキュメンタリー番組はこの時期に視聴した)

これはまさに、資本主義社会の競争から一時的に離脱していた時間といえる。

この時期の体験こそが、私自身を環境問題への関心へと向かわせた、個人的な転機となった。

リブランディングの成功という実証的裏付け

地球に生存する人間の半分は男性であり、彼らの行動変容なくして地球規模の課題を解決することはできない。

「環境問題に関心を持ち、行動できない人たちがいる背景には、成長至上アイデンティティという根深い問題が横たわっている。」

この仮説を元に、私たちは2024年、サステラというアカウントのリブランディングを図った。

資本主義社会を否定するのではなく、「サステナブルな事業によってイノベーションを起こし、環境問題への貢献と資本主義社会における成功を両立している人たち」に焦点を当てることで、「環境配慮=成功の否定ではない」というメッセージを発信するようになったのだ。

結果として、このリブランディングは功を奏し、現在ではフォロワーの男女比は女性55%、男性45%へと、男性比率が大幅に増加した。

これは、サステナビリティのメッセージが、「成長至上アイデンティティ」を脅かすものではないと認識されたときに、行動への障壁が低くなるという、私の仮説の「逆の側面」を実証的に裏付ける重要な事例である。

ここで強調したいのは、「だから男性は環境問題に関心を持つべきだ」といったジェンダーの役割論ではないということだ。

もちろん、結婚や出産よりもキャリア形成に価値を見出す女性は数多く存在し、逆に育児のためにキャリアから離脱し、価値観の転機を迎える男性もいる。

性別は問題の本質ではない。

この見出しで私が論じたい核心は、資本主義社会における「競争のレール」に留まるか否かという、構造的な位置づけの変化が、個人のアイデンティティと価値観にいかに強い影響を及ぼすかという点にある。

性別を問わず、競争から一時的に距離を置く経験こそが、「成長至上アイデンティティ」という強固な自己概念を揺さぶり、環境意識という新しい価値観を受け入れるための精神的な余白を生み出しているのだ。

しかし、個人の覚醒を待っているだけでは、社会を変えるスピードは圧倒的に足りない。

私たちが立ち向かうべきは、個人の心ではなく、もっと巨大な「社会の構造」そのものだ。

では、私たち市民はいかにして、この強固な資本主義システムや政治に対して影響力を持ち、構造を変革することができるのだろうか?

その具体的な「戦い方」については、以下の記事で歴史的な事例と共に詳しく解説している。

個人の変容は「心の準備」から始まる

本記事を通して私が主張したいことは、環境行動の遅れが、個人の意識や性格、経験といった問題に還元されるべきではないことだ。

これは属人的な問題ではなく、社会構造の問題なのだ。

個人の意識は社会によって形成される。

現状は、成長至上アイデンティティに根ざす人々が多い社会の中で、運良く環境問題を自分ごと化することに成功した善意の人々の行動に支えられているに過ぎない。

問題の根源は、個人の心理的な防衛本能と、GDP中心の社会システムという二重の構造的制約にある。

サステナビリティの要求は、現状のシステムに最適化された人々の成長至上アイデンティティを脅かし、認知的不協和による抵抗を生んでいる。

そして、私自身の体験から言えば、この抵抗を乗り越えるには「心の準備」が必要だ。

私は、環境に優しい洗剤を簡単に受け入れられない夫の気持ちが痛いほどよくわかる。

なぜなら、私自身が人生の大半を成長至上アイデンティティに縛られ、環境行動を起こせなかった「非行動者」だったからだ。

しかし2020年の世界的パンデミックが訪れたタイミングで

  • 売上不振という、成長至上アイデンティティに揺らぎが生じ

  • 現実から目を背けるようにゲームをしたりNetflixを見て資本主義社会の競争から一時的に離脱し

  • 地球環境に関するドキュメンタリーを見て問題意識を持ち

  • 環境行動を起こす(サステラというメディア事業を運営すること)ことが私自身の「経営者」としてのアイデンティティとも矛盾が生じない

以上の条件がそろったことで、運よくアイデンティティの再構築を促した。

もし、経済競争のレールに強く留まっていた別のタイミングだったら、どれほど優れた情報に触れたとしても、関心を持つことはなかった可能性が高い。

知識や情報だけでは決して人は動かない

個人の心と身体、そしてアイデンティティが受け入れる準備ができて初めて、環境行動を起こすことができるのだ。

私はよくフォロワーの方から

「どうやって家族や友人に環境問題を伝えていますか?」

と質問されることがあるが、私は直接本人に問題を伝えることはない

その人たちが、環境行動を起こせる最適なタイミングかどうかが分からないからだ。

もし不用意に説得を試みれば、下手すれば環境問題に対する「無関心」ではなく「嫌悪感」にすら繋がる可能性もある。

だからこそSNSで不特定多数に向けて情報発信をしているのだ。

しかし現実的な問題として、個人が運よく環境問題に関心を持ち、行動を起こすのを待っていられるほど、人類が直面している課題は時間的な猶予がないのもまた事実である。

この呪縛を解き放つ本質的な解決策は、国家の羅針盤をGDPからウェルビーイングへと転換することである。

GDP以外の指標が社会の主要な目標となることで、成功の定義が経済的豊かさから持続可能な幸福へと再定義される。

これにより、教育、インフラ、企業活動といった社会の全てのシステムが、環境行動を「合理的で、簡単で、社会的評価の高い」選択肢として個人に提供するようになる。

サステナブルな行動が新しいアイデンティティの源泉となり、「我慢」から「自己実現」へとその意味が変わったとき、初めて私たちは、地球の限界と個人の幸福を両立させる、真に持続可能な社会へと移行できるのである。

この価値観とシステムの再設計こそが、現代社会に課せられた最大の挑戦であると、私は強く主張する。

文献

*1.https://www.ons.gov.uk/peoplepopulationandcommunity/wellbeing/articles/mostadultsreportmakingsomechangestotheirlifestyleforenvironmentalreasons/2023-07-05#:~:text=Over%20the%20short%20term%2C%20recycling,lifestyle%20to%20tackle%20environmental%20issues

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