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真理など存在しない。科学とは、終わりのない「仮説の集積」である

「この記事、間違いですよ」

サステナビリティについて発信を続けていると、この種のコメントやDMは頻繁に届く。

一言だけ置いていく人もいれば、「訂正したほうがいいですよ」と迫ってくる人もいる。

根拠の添え方にも、グラデーションがある。

雑な人だと「YouTubeであの人が言ってた」。

丁寧な人になると、WEBサイトのURLや学術論文のリンクを、わざわざ探して送ってくれる。

つい先日も、深夜に一件のDMが届いた。

「あなたの記事、この部分が間違っています」

「これを読めば、地球温暖化が人為的なものではないことは明らかです」

添えられていたのは、あるシンクタンクの研究員が書いたレポートのリンクだった。

文面も根拠の精度も、毎回違う。

送り主も、毎回別の人だ。

それでも、構造だけはいつも同じ。

YouTubeの動画でも、一本の論文でも、そこで果たしている役割は変わらない。

「これさえあれば議論は終わる」という確信の、弾として使われている。

「間違いを訂正せよ」という言葉の裏側には、ある種の残酷なまでの純粋さが透けて見える。

送り主にとって、その根拠は疑いようのない「真実」であり、こちらはそこから外れた「誤答」を垂れ流す存在なのだろう。

別々の人間が、示し合わせたわけでもなく、同じ形式に辿り着く。

だとすればこれは、個人の癖ではなく、時代の症状だ。

私たちは、いつからこれほどまでに「正解」を、あるいは「真実」という名の麻薬を求めるようになってしまったのだろうか?

複雑に絡み合った現実の糸を強引に一本だけ引き抜き、「これが答えだ」と叫ぶ。

その暴力的なまでのシンプルさが、今の社会を覆い尽くそうとしている。


私たちはなぜ「正解」という麻薬を求めてしまう?

そもそも、なぜこれほどまでに多くの人が、たった一つの論文やデータに「模範解答」としての役割を期待してしまうのか?

その背景には、現代社会が抱える「不確実性への耐性の低さ」がある。

地球温暖化、生物多様性の喪失、マイクロプラスチック汚染…。

私たちが直面している問題は、どれも変数が多すぎて、一つの数式で解けるようなものではない。

原因と結果は複雑に絡み合い、ある地点での「良かれ」と思った行動が、遠く離れた別の場所で致命的な欠陥を生む。

かつて私は、Instagramでこう投稿したことがある。

「オーガニックコットンは、慣行栽培のコットンより水の使用量を90%削減できる」

Soil Association、Textile Exchange、Kering。

世界中の権威ある機関と大手ブランドが引用してきた数字だ。

私はそれを、疑いようのない「正解」として発信した。

思いつきで書いたわけではない。

当時、調べられる範囲の資料にはあたっていた。

ただ、どこを見ても、同じ数字が書いてあった。疑う理由が、見当たらなかった。

その数字が、2021年以降崩れることになる。

LCA(ライフサイクルアセスメント)の研究者、ヴェロニカ・ベイツ・カサットリーらが指摘したのは、根拠となった研究の設計そのものに潜む問題だった。

比較に使われた慣行コットンは、灌漑に頼らなければ育たない乾燥地で栽培されたもの。

一方のオーガニックコットンは、雨の多い地域で雨水だけで育てられたもの。

つまり「90%の差」の正体は、栽培方法ではなく雨量の差だった。

さらに、オーガニックコットンは慣行栽培より収量が低い。

面積あたりで見れば環境負荷は小さくても、コットン1kgを作るのに必要な土地と水で測り直すと、むしろ慣行栽培を上回る場合すらある。

「オーガニックだから水が少ない」のではなかった。

「雨が多い場所で育てたから灌漑が要らない」だけだった。

私が正解として掲げた数字は、正解ではなく、特定の条件の下でだけ成立する一つの仮説だった。

そして私は、その条件を問わないまま、数字だけを世界に流した。

人々が白黒つけたがるのは、こうしたグレーゾーンの痛み、条件と文脈の中に留まり続けることが苦痛だからに他ならない。

環境にいいのか、悪いのか。

その二分法に逃げ込むことで、私たちは「条件を問い続ける重さ」から解放される。

それは一種の知的な逃避だ。

数字の背後にある前提条件、論文に書き切れないもの、そして数字を受け取った人がその後にする無数の選択。

それらを切り捨てて得られる「真実」に、一体どれほどの価値があるのだろう?

私たちは今、効率と正解の追求の果てに、最も大切な「納得感」という身体的感覚を失いかけている。

科学とは「真実」ではなく、絶え間なき「仮説の集積」である

あの投稿を消してしまいたい衝動に駆られたとき、私はひとつの問いに突き当たった。

私は何を間違えたのか?

数字を間違えたのか?

それとも、数字というものへの向き合い方を間違えたのか。

かつての私は、科学を「一度決まれば動かない絶対的な真実」だと思い込んでいた。

教科書に載っていること、論文に書かれていることは、この世界を統べる不動のルールなのだと。

そう信じていた方が、複雑な世界を解釈するのが楽だったからだ。

しかし、実際にはその正反対だった。

科学の本質は、到達できない「真実」という頂を目指して、暗闇の中で無数の登山者たちが「ここがルートではないか」と声を掛け合う、終わりのないプロセスそのものにある。

かつて、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「重いものほど速く落下する」と説いた。

この説は、私たちの直感にあまりに合致していたがゆえに、二千年近くもの間、人類にとって疑いようのない「真実」として君臨し続けた。

しかし、その「真実」はどうなったか?

ガリレオがピサの斜塔から重さの異なる球を落とし、ニュートンが万有引力を定式化するに至って、二千年の重みを持ったアリストテレスの説は、一夜にして「古い仮説」へと格下げされた。

私たちが今、喉を枯らして主張している「科学的根拠」も、数百年後の人類から見れば、あまりに素朴で、不完全な「当時の思い込み」に過ぎないかもしれない。

科学の歴史とは、昨日までの真実を、今日提示されたより洗練された仮説が葬り去る、その冷徹な更新の連続である。

絶対的な真理に到達できた理論など、この世には存在しない。

なぜなら、その理論が本当に究極の真実であるかどうかを、客観的に確かめられる「神の視点」を持つ人間などいないからだ。

だから、深夜に届いたDMが提示する「地球は温暖化していない」というレポートも、一つの仮説としては成立する。

しかし、それはあくまで、広大な議論のテーブルに乗せられた、数あるカードのうちの一枚に過ぎない。

重要なのは、その一枚のカードが「真実」かどうかを争うことではない。

そのカードが、他の何百、何千というカードとどのように響き合い、あるいは反発し合っているのか。

その全体像を眺める忍耐強さを持つことではないだろうか?

科学的な態度とは、信じることではなく、疑い続けることにある。

自分の立脚している地面が、いつか覆されるかもしれないという恐怖を受け入れながら、それでも現時点で最も「正しそうな」場所を探し続ける。

きっと、その危ういバランスの上にしか、誠実な知性は宿らないのかもしれない。

論文という名の武器:「部分最適」がもたらす盲点

論文は、決して「模範解答」ではない。

それは、ある研究者が、ある特定の条件下で、ある特定の仮説を検証した「報告書」に過ぎない。

一つの事象に対して、100人の研究者がいれば、そこには100通りの切り口がある。

ある論文はAという側面を照らし、別の論文はBという側面からそれに反論する。

このダイナミズムこそが科学を前進させるエンジンなのであって、一つの論文で議論を終わらせようとするのは、科学的な態度とは言えない。

自分の主張を補強するために、膨大なデータの中から都合の良い事実だけをつまみ上げる行為は、一般に「チェリー・ピッキング」と呼ばれる。

バスケットの中に山積みになったサクランボの中から、熟したものだけを選び取り、その下にある傷んだ現実には目をつむる。

ただし、オーガニックコットンの「90%」を世界に広めた人々が、故意に嘘をついたのかといえば、話はそれほど単純ではない。

LCAには「機能単位」という考え方がある。

1ヘクタールあたりで測るのか、1kgあたりで測るのか。

同じ作物が、単位の取り方ひとつでまったく違う顔を見せる。

そしてマーケティングの現場では、その作物にとって有利な単位が、ほとんど無意識に選ばれていく。

数字そのものは計算として正しくても、単位の選択にはすでに意図が忍び込んでいる。

同じことは、他の場所でも起きていた。

「ファッション業界は世界の温室効果ガス排出の10%を占める」。

私自身、何度も引用してきたこの数字の出所を辿ると、2018年のUNEP(国連環境計画)の記事に行き着く。

ところが、英語版の原文が示していたのは「2〜8%」だった。

他言語版への翻訳の過程でこれが「10%」に化け、その数字だけが世界中のメディアに拡散していた。

誰も嘘をついていない。

それでも、出所と方法論が曖昧な数字が、確定的な「正解」として何万回も繰り返されていく。

論文という名の「武器」を持ち出し、相手を屈服させようとする時、そこには対話の余地は消え失せる。

サステナビリティという、人類が一丸となって取り組まなければならない巨大な課題を前にして、この「部分最適」な正義感ほど、歩みを止めるものはない。

私たちは、論文の行間に隠された、著者の葛藤や前提条件の限界を読み解かなければならない。

その数字が、どのような文脈で、誰のために導き出されたものなのか?

それを問うことなしに、データの奴隷になってはならない。

仮説には「厚み」がある

ここまで書くと、こう返されるかもしれない。

「すべてが仮説なら、何を信じても同じではないか。あなたの90%も、深夜のDMが突きつけた温暖化懐疑論も、等価ではないか」

そうはならない。

仮説には厚みの差がある。

私の「90%」は、実質的に一つの研究設計に寄りかかった数字だった。

比較の非対称という一点を突かれただけで、足場ごと崩れた。

一方、人為的な地球温暖化という仮説は、氷床コア、衛星観測、海水温、生物の分布の変化…。

独立した何千という観測が、別々の場所から同じ方向を指している状態だ。

どれか一枚のカードが覆っても、全体は崩れない。

一枚に寄りかかった数字とは、構造がまるで違う。

「すべては仮説である」という言葉は、「すべては同じ重さである」を意味しない。

一枚のカードと、何千枚のカードの収束。

その厚みを測ろうとする姿勢こそが、相対主義と科学的態度を分ける一線だと私は思う。

そしてもうひとつ、書き残しておきたいことがある。

90%という数字が崩れたあと、オーガニックコットンの価値も一緒に崩れ去ったのかといえば、そうはならなかった。

農薬への曝露から生産者の健康を守ること。

土壌の生態系。

合成繊維のようにマイクロプラスチックを出さないこと。

節水という一枚のカードが偽物でも、別の軸のカードは生きていた。

たしかに数字は死んだが、それでも判断は、更新されながら生き残った。

仮説が覆ることと、すべてが無に帰すことは違う。

覆るたびに、手元に残ったカードの重みを測り直す。

その地味な作業の繰り返しだけが、判断を鍛えていく。

100の仮説と対話する:「正しいっぽい」を積み上げる流儀

私たちが発信する言葉は、決して天から降ってきた啓示ではない。

それは、泥臭い情報の取捨選択と、終わりのない自問自答の末に絞り出された残滓のようなものだ。

一つのテーマについて書くとき、少なくとも数十の「仮説」に触れる。

学術論文、公的な統計データ、現場の記者のルポルタージュ、生産地に立った人の独白。

それらは時に互いを補完し、時に激しく衝突する。

私の頭の中は、常にこの「矛盾する声」で溢れかえっている。

重要なのは、それらを一つの結論に無理やり統合しようとしないことだ。

むしろ、矛盾を矛盾のまま自分の中に同居させる。

100の論文のうち1つを正解とするのではなく、100の論文が描く100通りのグラデーションを、そのまま眺め続ける。

その果てに、ようやく「正しいっぽい」という微かな手応えが残る。

この曖昧な言葉にこそ、私は誠実さが宿ると信じている。

それは、膨大な「間違いっぽい」を排除し、消去法で生き残った、現時点での最善の選択肢だ。

オーガニックコットンの一件で私が認識を改めたのも、単に一本の批判を読んだからではない。

比較設計の非対称という指摘、収量のデータ、機能単位という考え方、そして数字の引用が連鎖していく構造。

それら無数の「仮説」と対話した結果、自分の中にあった「オーガニック=節水」という仮説が、あまりにも「間違いっぽい」ものに思えてきたからだ。

机上の確信が現場の重みに覆される経験なら、対馬の海洋ゴミについて書いたときにもした。

情報を積み上げるという作業は、レンガを積んで強固な城壁を作るようなものではない。

むしろ、色の異なる無数の砂を重ねて、地層を作るような感覚に近い。

その地層は脆く、新しい情報の雨が降れば簡単に形を変える。

しかし、その時々の地層の重なりこそが、その瞬間に語る「言葉の重み」になる。

「これが正解だ」という言葉は、たしかに軽やかで聞き心地が良い。

しかし、その言葉には奥行きがない。

一方で、「現時点ではこう考えるのが最も妥当だと思われるが、同時にこうした懸念も残る」という、まどろっこしく、慎重な言葉。

そこには、対象を安易に消費せず、真正面から向き合おうとする人間の「身体性」が宿っている。

情報収集とは、最短距離で正解を盗むことではない。

どれだけ多くの「寄り道」をし、どれだけ多くの「ノイズ」に耳を傾けたか。

その無駄とも思えるプロセスの積み重ねだけが、血の通った「主張」へと変えてくれる。

そして何より、一人の人間が、一生をかけて触れられる仮説の数には限界がある。

私という一人の人間が持つフィルターは、どうしても私自身の年齢、性別、知識、そしてこれまでの経験という枠に縛られている。

権威ある機関が並べた数字の設計を、自力では疑えなかったように、私一人の目で見える世界は、あまりに狭く、脆い。

サステラは現在、たった数名で運営されている極めて小さなメディアだ。

私たちが直接知り得ること、肌で経験できることなど、広大な世界の数パーセントにも満たない。

だからこそ、私たちは「サスラボ」という名の、ある種の拡張編集部をつくることに決めた。

年齢も専攻も、日々の生業も異なる多様な人々を、私たちの編集空間へと招き入れ、みんなでメディアをつくろうとする試みだ。

学生の瑞々しい感性、現場を知る職人の頑固な手触り、研究者が積み上げてきた理論の重み。

それらを混ぜ合わせ、時には激しくぶつけ合う。

自らの限界を認め、他者の知性に扉を開くこと。

それこそが、一人の「正解」という檻から抜け出し、より解像度の高い「グレーな領域」へと踏み込むための唯一の手段だと考えたからだ。

サスラボに集う人々と共に、私たちは答えの出ない問いに悩み、共に傷つきながら、言葉を紡いでいく。

一人では抱えきれないほどの仮説を、みんなで少しずつ分かち合いながら、現時点での「正しいっぽい」を積み上げていく。

この泥臭い、あるいは一見すると非効率極まりない対話のプロセスこそが、サステラというメディアの鼓動そのものなのだ。

間違いを認める勇気と、科学的態度という名の誠実さ

自分の間違いを認めることは、決して敗北ではない。

科学的な態度とは、常に「自分は間違っているかもしれない」という可能性に、扉を開けておくことだ。

あの90%の足場が崩れたとき、羞恥のあとに、私はある種の爽快感すら覚えた。

自分の無知を突きつけられることは、苦痛であると同時に、世界をより解像度高く捉え直すチャンスでもあったからだ。

もし私が、あの深夜のDMに対して「私はこう信じているから、あなたのレポートは無視する」と答えたとしたら、私はその瞬間に「一人の実践者」であることを辞め、単なる「宗教家」に成り下がっていただろう。

だから、読者からの指摘には、いつでも扉を開けている。

指摘が正しく、自分たちの間違いが確かなら、真摯に訂正したい。

それは敗北ではなく、ここまで書いてきたことの実践だからだ。

ただ、正直に書いておくと、一本の論文だけで記事が覆ることは、それほど多くない。

投稿を出す前に、複数のソースにあたっているからだ。

一枚のカードで組んだ主張は、一枚のカードで崩れる。

何十枚かを重ねて組んだ主張を動かすには、それに見合う厚みが要る。

あの90%にしても、投稿した時点では、調べうる限りのソースにあたっていた。

どの機関も、どのブランドも、同じ数字を挙げていた。

それでも、覆った。

設計の歪みを突く検証が、当時はまだこの世に存在しなかったからだ。

どれだけ誠実に調べても、まだ書かれていない批判からは守られない。

だからあれは、怠慢の話ではなく、更新の話なのだ。

ただ、あの経験は一つだけ、私の手癖を変えた。

引用元の数ではなく、元をたどって独立した根が何本あるかを数えるようになった。

世界中で引用されていても、根が一本なら、それは厚い束ではなく、一枚のカードだ。

重ねた束の根が一本だったと、あとから分かることもある。

そのときは、躊躇なく手放す。

サステナビリティという概念は、日々刻々と更新されている。

昨日までサステナブルだと思われていたものが、今日には環境破壊の元凶とされることもある。

その変化の激しさに翻弄され、疲弊することもあるだろう。

しかし、その揺らぎこそが、この営みが健全であることの証明なのだ。

私たちは、正解を所有する権利など持っていない。

でも、答えのない問いの海を、溺れそうになりながらも泳ぎ続ける自由なら持っている。

思考を止めて「真実」という陸地に逃げ込むのではなく、波に揉まれながら問い続ける。

その呼吸を止めないこと。

それだけが、私たちがこの場所で発信を続ける、たった一つの理由だ。

過ちを認め、仮説を更新し続けること。

その泥臭いプロセスを隠さず、読者に見せていくこと。

それこそが、情報が氾濫し、誰もが「真実」を騙る現代において、発信者に求められる最低限の倫理だと考えている。

完璧な人間などいない。

完璧な理論もない。

だからこそ、私たちは互いの不完全さを認め合い、よりマシな仮説を求めて、議論を積み上げていかなければならない。

あなたと終わりのない問いを分かち合うために

冒頭に引いた、あの深夜のDM。

私は結局、添えられていたレポートを精読することにした。

内容は確かに、温暖化に対して懐疑的な立場を取るものだった。

だが、そこで引かれているデータの選び方や、前提の置き方を一つひとつ紐解いていくと、それが地球全体の大きなトレンドを説明するにはあまりに不十分であることも見えてきた。

しかし、私は送り主を論破しようとは思わない。

「間違ってますよ」と言い放つ人の中にも、言いっぱなしで去っていく人と、心のどこかで返事を待っている人がいる。

画面のこちら側から、その違いを見分けることはできない。

だから私は、後者の可能性に賭けることにしている。

彼もまた、自分なりの「真実」を探し求め、何かに縋り付こうとしている一人の人間なのかもしれない。

かつて、一枚の数字を「正解」として握りしめていた私と、何も変わらない。

その孤独な探求心だけは、否定したくない。

私はキーボードを叩き、返信を書く。

「貴重な資料をありがとうございます。一つの視点として、非常に興味深く拝読しました。ただ、私は他の数十の仮説と照らし合わせた結果、現時点では温暖化の影響を重く見る立場をとっています。もしよろしければ、あなたがそのレポートに辿り着いた背景や、他のデータとの矛盾をどう考えているか、また教えてください」

送信ボタンを押すと、画面の光がふっと消えた。

私たちの仕事は、誰かを打ち負かすことではない。

正解を提示して思考を停止させることでもない。

画面の向こう側にいる「あなた」と、このままではいけないという焦燥感を共有し、答えのない問いの海を共に泳ぎ続けることだ。

かつて私が投稿した、あの数字のことを、時々思い出す。

あの投稿は、消さないことにした。

あの数字も、それが崩れた日のことも、私という地層の一部だからだ。

私たちは、これからも間違え続けるだろう。

恥をかき、言葉を濁し、迷い続けるだろう。

だが、その足跡こそが、私たちがこの不確実な世界を、誠実に生きた証になる。

明日もまた、どこかから「この記事、間違いですよ」が届くかもしれない。

その一通が、私の次の仮説の始まりになる。


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