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【エッセイ|読了10分】トロッコ問題で考える道徳観 ー SNSによって作られる傍観者たちの社会

トロッコ問題という有名な思考実験があります。

あなたが線路の切り替えポイントに立っていて、向こうからトロッコがこちらに向かって走ってきています。

そして、線路の先には五人が線路に括りつけられていて、このままトロッコが進行すると五人が死んでしまいます。

あるいは、ポイントを切り替えることでトロッコを別な線路に切り替えることもできますが、

その先には一人が線路に括りつけられていて、その一人が死んでしまう場合、あなたはどういう行動を取りますかという話です。

よく言われる最適解としては、より死者の少ない結果を得るためポイントを切り替えて五人を救うという判断になるのでしょうが、物事はそんなに単純なものではないですよね。

そもそも、一体この思考実験は何を明らかにしようとしたんでしょうか。

今回は、この有名な思考実験について考えてみたいと思います。


そもそもトロッコ問題とは

この有名な思考実験は、フィリッパ・フットというイギリスの女性哲学者が1967年に提起したものです。

この思考実験の主要な論点としては、功利主義(多数の命の優先)と義務論(殺人・加害の禁止)の対立や、作為と不作為の責任の所在などがあります。

で、彼女はそもそも何に問題意識があってこれをやろうとしたかというと、

二重結果の原理と言われる、物事によって引き起こされる二つの結果、一つは良い結果、もう一つは悪い結果について、そのバランスをどのように取るべきかという議論を行うためだったと言われています。

事例を挙げると、以下のようなものがありますが、他にもいくらでもありそうですよね。

  • 妊娠している女性に対する子宮がん切除手術

  • 戦争における市街地に対する爆撃

  • 末期がん患者へのモルヒネ投与

この場合、行為自体は善であるが、その結果起こる悪い結果は道徳的に許容されるという論理で、主に正当防衛の議論の文脈で使われます。

つまり、トロッコ問題で言えば、ポイントを切り替えることで救われる五人の命(善行)と、一人の命(悪行)の比較となり、

フット自身は、五人の命を救う善行に対し、一人の命を奪う行為は「意図していない結果」であるから道徳的に許容されるという理屈で、一人の方の線路が優先されるのは当然であると結論付けています。


道徳とは「ルール集」である

では、この議論の前提となっている道徳って、そもそも何なんでしょうか。

僕は、道徳というのは、「今」の社会構造を維持するために構成員が守るべき「ルール集」に過ぎないのではないかと考えています。

つまり、絶対的に普遍的なものではないということです。

どういうことかというと、

夜中に酒を飲んで大騒ぎして、ゴミをまき散らしたりするのは、今の社会においては非道徳的な行動にあたるでしょう。

結果として騒音などで近隣住民がストレスを感じ、彼らの次の日の仕事に支障が出ることで社会の生産性が低下するでしょうし、

公費を無駄に消費して、まき散らされたゴミを清掃したり、治安維持のための人員を雇用したりするでしょう。

つまり、社会の収入が減り、支出が増えることになるわけで、このような人たちが増えると社会の維持コストの収支が悪化し、社会が維持できなくなってしまうわけです。

よってそれらの行為が社会的に排除されるように、「反道徳的行為」としてカテゴライズしているわけですね。

しかし、これはあくまでも今の社会構造、つまり、社会的なコストを皆で分担して形成している社会であるという前提に基づく判断です。

極端な例ですが、夜中に酒を飲んで大騒ぎすることで、外敵から街を守っているという効果があるとしたらどうでしょう。

あるいは、まき散らされたゴミを清掃するための清掃員が、社会的弱者の重要な仕事として役立っていたりしたらどうでしょうか。

この場合、社会的な収支は黒字になります。

つまり、大騒ぎして町を汚す行動も、社会的背景によっては「道徳的行為」になり得るのです。

これはスポーツやゲームのルールに近くて、サッカーの試合でフィールドプレーヤーが足を使ってプレーするのは、彼らがそれを本能的にしたいからやっているわけでなく、「サッカーの試合」の秩序を維持するためにやっている行いに過ぎないということです。

もちろん、実際の人間社会においてはこの道徳を発展させた「法律」というものでガードレールを敷いているので、「道徳」と「法律」の相互補強によって社会が維持されているという側面もあるでしょう。


英雄と殺人者を分かつもの

一方で、社会がどう変わろうと道徳的に普遍的な行動もありそうに思いますが、これらについても考えてみましょう。

例えば、殺人という行為があります。これはどのような状況においても絶対NGに思えますよね。

これは、人間がグループで行動する生物であるということに起因します。

殺人は単純にグループの構成員を減らし、グループを弱体化させます。
殺した側もそのグループに所属しているため構成員としての自分にも損となるわけです。

さらに、殺人者はグループ内で迫害されるでしょう。グループ外に放逐される可能性だってあります。

また、自分が他人を殺すことは、自分が他人に殺されることを容認することにもなってしまいますし、利害関係者からの報復リスクもあります。

こうしてみると、グループで生きなければならない人間にとってはデメリットしかないですよね。だから忌避されるわけです。

では、逆に善行についてはどうでしょうか。

社会において英雄的行動、いわゆる人の命を救ったり立派な行いをするのは、本当に、何らかの内面的なものに突き動かされて行われる無償の奉仕なのでしょうか。

これも結局、自身の所属するグループ内においての「自身の地位向上」が図られることが大きいでしょう。結果として生存可能性が高まるわけです。

では、このような行動は、あらゆる状況において普遍的な行動原則と言えるのでしょうか。

しかし、これも普遍的に見えているだけで、実は違うという見方もできます。なぜなら、いずれもグループの構成員としての評判(レピュテーション)を意識した行動だからです。

例えば、有史以前や核戦争後に社会秩序が崩壊した状況下ではどうでしょう。

戦時下の戦場でも同様ですね。

この場合、皆で社会を構成し維持しているという前提はありません。
むしろ、力の強いものが勝つという、暴力が支配する社会なのです。

この場合、こちらが先に殺さなければこちらが殺される状況になるわけで、そういった状況下においては積極的な殺人が選択されることになるでしょう。

立派な行動も同じです。いわゆる英雄的な行動が称賛されない社会、あるいはその社会すら存在しない状況においては、そのような行動は無意味となります。

つまり本質を見れば、人間の普遍的に見える道徳であっても、結局は環境に左右されると言えるのではないでしょうか。


トロッコ問題には正解などない

再度トロッコ問題の話に戻ります。

線路上の五人を救うためポイントを切り替える行動を取ったとして、

二重結果の原理で考えた場合、本当に一人の人間の死は「倫理的に許容される結果」として割り切れるものなのでしょうか。

これは問いをどのように立てるかで、論点は大きく変わってきます。

例えば、人数の多寡だけで物事を考えるのであれば、死者は少ない方がいいはずで一人の死が選択されるはずです。

しかし、例えば死ぬ一人が、自身の所属するグループにおいて唯一食料のありかを知っている人物だったとしたらどうでしょう。

その人物が失われることで、自分の所属するグループは食料が欠乏し、最終的に破滅することになるでしょう。

この場合は五人が死ぬ方が正解ということだってあり得ます。

また、視点を変えれば、五人を救った英雄は、死ななくてもよかった一人を殺した殺人者にもなりうるわけです。

実際に、その選択の結果に対し、選択者が所属する社会がどのような反応をするかは、その社会の状況や背景、構造に依存すると言えるのではないでしょうか。

つまり、トロッコ問題には正解はないのです。

だからこそ、トロッコ問題について考えることは、その時点の社会構造の歪み、課題などをあぶりだすために有益であると思うのです。


傍観者たちの社会

では、本当に今の日本でこのような状況に追い込まれたら、どのような決断が合理的になるでしょうか。

意思決定者と、線路に括りつけられた人とは利害関係がない前提とします。

皆さんならどうするでしょうか?

僕はおそらく、何もしないという決断がもっとも選ばれるのではないかと思っています。

なぜなら、その現象に関与しなければ部外者になれるからです。部外者は称賛されることも、罪に問われることもありません。

仮にポイントを操作して切り替えてしまったときに、何が起こるでしょうか。

五人を救った英雄として称賛する声ももちろん一部では上がるでしょう。

しかし、称賛の声がかき消されるほどに、能動的に一人の人間を殺した殺人者として糾弾されることになるのです。

なぜなら、現代のSNS社会においては、ネガティブな要素が増幅して伝達されるからです。

結果として、生存に直結する社会的評価(レピュテーション)が地に落ちる可能性があるわけです。

つまり、現代においては、先のトロッコ問題でフットが考えたかった二重結果の原理の収支が、マイナス方向に振り切れてしまっているんですね。

ならば、何もしないという選択肢が最も合理的な選択になるのではないでしょうか。

しかし、この状況は果たして、健全な社会と言えるのでしょうか。

社会のあらゆる構成員が「傍観者」に堕した時、何が起こるのでしょう。

人が死にゆくことが傍観されるというのは、逆に言えば、自分が死の危機に瀕しているときにも等しく傍観されるということです。

それはいずれ社会全体にも拡張されるでしょう。

結果訪れるのは、自身が所属する社会システムが死にゆくさまを、皆がただ何もせずに見守っているような地獄の世界なのではないでしょうか。


今回の「トロッコ問題」をテーマにショートストーリーを書いています。
短くて気楽に読める話ですので、よろしければぜひどうぞ。

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