【すずたく思考実験】 投票① なぜ僕たちは投票を虚しく感じるのか - 清き一票は、リビングに落ちてるたらこ一粒に過ぎない?
投票に手応えはあるか
すずたくです。
今回から、「投票」という概念について考える思考実験シリーズをはじめます。
求められているのかどうか、よくわからないテーマなのですが、
たとえ話(寓話)を駆使しながら、一緒に楽しく紐解いていくスタイルで、めちゃくちゃ軽い読み味ですので、ご安心ください。
特定の政党や政策などについてどうこう言う話でもありません。
あくまでも「投票システム」ってどうなってるの?ということを考えるだけです。
皆さんは「投票」という言葉にどのようなイメージを持つでしょうか。
僕なんかは出来てない人間なので、正直、「面倒だな」とか「意味なくない?」とか思ったりするんですよね。
僕たちは学校教育などで、投票は皆が快適に暮らすための社会の基盤である「民主主義」を下支えする、重要な社会システムである、と教えられてきました。
理念は全くそのとおりです。
国民一人一人が小さいながらも、国の行く末を決める権利をもっているわけですから、うまく運用できれば、理想的なシステムであることに異論はありません。
一方で、「上手な運用」がなされているとはとても思えなくて、なぜ放置されているのかが、ずっと不思議でした。
だって、何百万票、何千万票とあるうちの一票って、
そんな誤差としかいえないような影響を社会に及ぼすために、わざわざ投票所に足を運ぶって、コストパフォーマンスという観点では、相当割に合わない行為に思えないでしょうか。
まずは、この気持ち悪さから紐解いていきたいと思います。
以降は、全体感のつかみやすい国政選挙をイメージして話を進めます。
国民投票なども除外して考えます。
体感的な「一票の重さ」とは
たとえ話で考えてみましょう。
日本に一億人の有権者がいたとして、あなたにはそのうちの一票が割り振られているとします。
一般的な、70㎡の3LDKのマンションと比較してみましょう。
その場合のあなたの一票は、マンションの床面積に対し、
直径1.0mmにも満たない、たらこ一粒サイズです。
一腹じゃないですよ。ほぐした一粒です。
仮にあなたが、ある気に入らない人に復讐をするために、その人の家のどこかに「たらこ一粒」を配置してくるという計画を立案し、実行するとします。
「そんな復讐があるか」という思いは、いったんこらえてください。
震える手で、つまようじの先に乗せた、わずか一粒のたらこを、ぽとりと床に落とし、何事もなかったかのように帰るのです。
ミッション成功です。
達成感に包まれるでしょうか。
無理でしょう。
本当に置いてきたのかどうかさえ、不安になるレベルです。
たらこの粒を置かれた家人が気づいて、あなたに抗議の電話をするでしょうか。
全く気づかず、変わらぬ平穏な日常を送るだけです。
運がよければ、鼻の効く室内犬のポチのおやつになるくらいです。
もちろん、ポチのお腹は一切満たされませんが。
相手は、完全ノーダメージです。
わざわざ日曜日に着替えて、人の家まで出かけて、挨拶して、たらこ一粒を置いて、家まで帰ってくる、という労力をかけた末の成果がそれです。
あなたは、無駄な一日を過ごしたと思って、心から後悔することでしょう。
僕たちが持つ「一票の実感」をものすごく雑に言ってしまえば、このようなものなのです。
もちろん、質的にはとても重いですよ。ここではあくまでも「実感」のみにフォーカスしていますので、誤解されないようお願いします。
理想は起源にあった
でも、最初はそうではなく、自分たちの一票に誇りを持てていた時代もあったのではないでしょうか。
ここでいったん、投票の歴史について概観してみたいと思います。
どこかで変質したタイミングがあるはずです。
投票の起源は、史実レベルでは紀元前5世紀頃の、古代ギリシアのアテナイという都市国家にまでさかのぼります。
ここでは、今と違って「直接民主主義」という仕組みが取られていました。
当時は、男性の自由市民という比較的限定された人たちが、直接議論して意思決定を行っていました。
この頃の投票は、万単位の人が一箇所に集まって議論して、挙手による投票を行っていました。
紅白歌合戦みたいですね。
参加する人たちも、直接その場で発言するわけですから、議題についての事前知識の勉強も必要ですし、納得できるまで熟考したことでしょう。
しかも、顔をさらして発言するのですから、リスクや責任もついて回ります。
直接政治に関わっているという実感は、これ以上ないほど高かったのではないでしょうか。
洗練がもたらした希薄化
以降、さまざまな調整が加えられていくのですが、押さえておきたい重要な変化は以下の3つです。
間接民主主義への移行
投票の匿名化
投票権のオープン化
間接民主主義というのは、直接民主主義の仕組み(広場でみんなで議論して投票)が、参加者が物理的に増えすぎて無理になったので、
次善策として、有権者の代表を決めて、その人が議論するという仕組みです。
投票の匿名化は、プライバシーの観点からはいいのですが、逆に何も考えなくても良くなる、という逆作用をもたらす可能性も考えられる、諸刃の剣です。
そして投票権のオープン化ですが、これは成人であれば、身分を問わず誰でも投票できるというイノベーションです。
オープンになるのは素晴らしいのですが、誰でも投票できるようになったことで、一票の価値の希薄化がさらに進むことになりました。
すべてが必然の進化なのですが、少し雲行きが怪しくなってきましたね。
そして、たらこの粒になった
つまり、もともとは、課題はありながらも、とても良い仕組みとして機能していたものが、
社会がオープンになり、意思決定に参加できる人がどんどん増えていったことで意見集約が困難になり、
仕方なく「みんなの代表=代理人」を選んで、その人が代理で議論や意思決定を行うようになった、ということです。
でもよく考えてみてください。
ただでさえ、一票の希少性が極限まで薄まっている状態なのに、その一票でさえ「代理人」を選ぶためのものなのです。
そして、その代理人でさえ、あなたの意見の完全な代弁者ではありません。
多数の異なる意見を集約した存在にすぎないのです。
この状態で「投票することで、あなたは政治に参加しているんだよ」と言われて、その言葉を実感できますか。
それはまさに、
「知人の家にたらこ一粒を置いてくる作業を、よく知らない人に依頼する」
「作業が実行されるかは不明」
という、わけのわからないイベントに対し、やりがいを感じよ、と言われていることに等しいのではないでしょうか。
それは無茶というものです。
今回はここまでにしたいと思います。
今回は、僕たちの投票行動がいかに「やりがい」を感じない状況になってしまっているかを考えてみました。
やりがいが感じられないと、選挙に行く人も減ります。困りますよね。
なので、次回記事では、選挙という文脈でよく語られがちな「投票率」について考えてみたいと思います。
次の記事はこちらです。↓
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ではまた。

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