『労働文集 考働』を作った感想
『労働文集 考働』という本を作ってきた活動を振り返り、感想を書いてみたい。
※本書についての詳細は以下に書いています
読んでくれた方に何かを提供できたのなら、嬉しい
販売開始してからこの記事を書いている現在まで、ちょうど2週間が経過している。この2週間で多くの感想をいただけている。少部数販売のZINEなので感想をいただける機会も少ないだろう、もしかしたら誰からも反応が無いかもしれないな……ということは覚悟していたので、すごく嬉しい。
読んでくださった方へ、「自分はこの社会の中で、働くということとどう付き合っていきながら、どう生きていこうか」を考えるキッカケや、考える材料を少しでも提供できていたらと思う。
『労働文集 考働』の執筆者は全員、今の社会で当たり前とされている「働く」って、なんかおかしくないか? という疑問を持っている。そういう疑問を持つに至った経験や、その疑問にどう向き合いながら生きていこうとしているかを書いたのが本書だ。僕たちと同じく「働く」への疑問がある人たちは今の社会に間違いなく大勢いる。そういう人たちに、同じような疑問やつらさを抱えているのは自分だけではない、ということも伝えられていたらいいなと思う。
創作活動による充足感、達成感
やはり、物を作る活動っていいなあ……ということも、今回改めて強く実感した。作っている最中は、後述するような楽しいこと・大変なことがあり、それらをひっくるめて「充足感」をふんだんに享受できた。
また、「達成感」も味わえている。『労働文集 考働』では、僕は執筆者の一人であると同時に、企画者であり、編集者でもあった。会社の仕事を除けば、人と一緒に何かを作る活動において、企画も編集も人生で初めての経験だと思う。だから「本当に自分にやれるのか? 途中で破綻して失敗して、巻き込んだ人に迷惑をかけるんじゃないのか?」という不安は終始自分の頭の中につきまとっていた、というのが正直なところだ。でも、そんな不安も今となってはいい思い出である。そういう不安を乗り越えて、無事に完成させられて、販売もできている。だからこそ、達成感に繋がっている。
人と一緒に何かやるハードルが下がった
『労働文集 考働』の制作を経験したことで、今後、人と一緒にまた何かをやる際の心理的ハードルが格段に下がった感覚がある。
『考働』でも少し触れたのだけど、僕は一人でやれることならフットワーク軽く動けるものの、人と一緒となると途端に足が重くなるタイプの人間だ。それは内向的な気質や慎重な気質によるだろう。先に待ち受けているであろう面倒事を次々と先回りして想像して、「やめておこう」となりやすい。
僕は生来、かなりの慎重な人間なのだ。それゆえ、世間一般の「これが普通」というレールに内心では大きな不満を抱きつつも、なんだかんだ従っている人間であった。
それでいつまでも行動できないままどんどん時間が過ぎていき、どんどん歳を取っていき、当たり前に存在してくれた人がこの世からいなくなり、人生の有限性を痛感し、「このままだと、このままだぞ」と悟り、開き直り、もう、えいやでやってみちゃう人間へ変貌したのである。ただし、一人でやれること限定で。
ところが、『考働』の制作で初めて会社の仕事以外で人と一緒に何かを作る挑戦をしたことで、「一人でやれること限定」という制約を外せたような気がする。一度やってみた挑戦は、二度目はもう挑戦ではなく、日常へと飲み込めるのである。
また、「考働」という軸が生まれたのも、人と一緒に何かやりやすくなった理由となっている。本来「考働」は、あくまで本のタイトルとして付けたものだった(ぬるいぬさんの案である)。でも、この言葉はすごくいい。気に入っている。「働く」とは自分にとってどういうものなのか。それとどのように付き合いながら生きていくのか。そういうことを、改めて自分で考えて、行動していく。そういう意味を込めている。そういう意味での「考働」をキーワードとして据えることで、企画をしやすくなっている。
さっそく、2つの新しいことをやろうとしている。「考働ラジオ」と、「みんなで考働してみる会 in 小田原」だ。いずれも一人ではなく人と一緒にやるものである。詳細は近日中におしらせしたい。
人と一緒に何かやることが「挑戦」ではなく「経験済みな日常」となり、「考働」という旗印も得られた。いずれも『労働文集 考働』を作ったことによる。この2つによって、次の何かを人とやりやすくなった。そういう効能を狙っていた意図は別になくて、とにかくやってみたかったからやってみた結果、次に繋がる効能を得られた。僕はずっと、こういう営みを連鎖させてきている。今回もまた連鎖できちゃう。我ながらすごい。何か持ってるのかも。
楽しかったこと
同じ目的に向かって、人と定期的に活動する楽しさ
楽しかったことを色々と書こうと思っていたのだけど、「同じ目的に向かって、人と定期的に活動する楽しさ」に尽きる。楽しかったことを思い返していったときに浮かぶのは、全てこれの具体的事例だ。
基本的に、僕は寂しいのだ。えっへん。結婚しており、毎日妻と暮らしており、完全に一人だった頃とは全然違うものの、それでも寂しさが0かというと、そんなことはない。妻には救われまくっていて、ある部分の孤独は完全に解消したのだけど、他の部分の孤独はやはりある。毎日毎日、家で一人でパソコンに向かって文章を書いて消して書いて消して書いているときの孤独感といったら、なかなかつらいものがある。
なにか、日常的に人とコミュニケーションしながら物やサービスを作るような活動をしたい。そういう気持ちがある。僕は「働きたくない」わけではないのだ。そもそも「働く」とは何かという定義をしないと「働きたい」とか「働きたくない」とか言えないのだけど、ここではざっくり「動いて、何かしら作り、人に提供する」という行為を「働く」とするなら、かなり働きたい側の人間だとすら思う(お金のために他人の管理化に置かれたくないという意味では一切働きたくないが)。
孤独と格闘しながらも、一人でやりたいこともある。でもそれだけだとつらくて、孤独に負けそうになる。そこで、一人でやりたいこととは別で、人とも何かをやりたい。そんな気持ちから『労働文集 考働』の制作活動を立ち上げて、やり切って、人に届けられている。これが僕の生きたい人生なのだ。
大変だったこと
自分の原稿で何を書くか
本書を作る上で最も苦労したのは、企画でも編集でもなくて、自分の原稿を書くことだった。
僕はもう、会社員時代の経験は『会社を辞めて生き方を変えることにした』に書いたし、その後の3年間も『会社を辞めて生き方を変えてからの3年間』に書いた。もちろん経験のすべてを書き尽くしたわけではなくて、書いていない話だってある。でも、それらはなぜ書いていないかといえば、わざわざ書くほどのことではないからだ。
既に単著で書いた経験を、切り口を変えて別の形で表現する、という選択肢もあるだろうけど、具体的な形が思い浮かばなかった。
となるともう、会社を辞めて生き方を変えてからの3年間の後の現在まで(約半年ほど)を題材に書くしかない。と考えて、その半年を題材にして自分の原稿を絞り出した、というのが正直なところだ。
最終的には、これまでの単著と同等の「自分の作品」と思えるものは書けたような気はするものの(勘違いだったらすみません)、四苦八苦しまくった。淡々と出来事を描写しているだけで何を表現したいのかわからないものを書いては消して、書いては消してを繰り返す中で、だんだん「自分はこの経験の中にある、この考えを表現したいのだ」と見えてきてくれた。
他の方の原稿をどう編集するか
最も大変だったのは自分の原稿を書くことだったけど、他の方の原稿を編集するのもその次ぐらいで大変だった。
そもそも「編集」という言葉は幅が広すぎて具体的に何をすることなのかはケースバイケースだろう。今回の僕の場合は、内容は執筆者に完全にお任せした上で、「その内容を文章でいかに表現するか?」という観点では、全ての原稿に対して自分の原稿と同じスタンスで細かいところまで推敲している。
これは、言うのは簡単なのだけど、実際にやるのはとても難しかった。文章には人それぞれの個性があり、その個性が味になる。味になる個性を僕の単なる好みによって消して、僕の文章のようにしてしまうのは避けなければいけない。単なる好みなのか、読者目線での改善なのか、ということを切り分けるべき。しかし、その切り分けが難しかった。
これについては、今後『労働文集 考働2』を仮に作るとなった際の課題だ。個人的好みと読者目線の改善を完璧に切り分けるのは、そもそも無理なのだ。主観と客観を分けるのが無理なのと同様である。客観的に考えようとしているのが主観だからだ。主観による客観とは、結局、主観にすぎない。
『考働2』を作るとしたら、どうするのがいいんだろうか。という論点は、今後の話として、今はまだ置いておく。
どんどん販売していきます!
以上、『労働文集 考働』の制作を振り返っての感想を書いてみた。
今後は積極的に販売を続けていき、多くの方にお届けしたい(制作費のペイもしたい)。おわり。
