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ラヴィアンローズ(薔薇色の人生) 3-⑵



「俺にはえりかと同じ年頃の娘がいるんだ」
ユキオさんは静かに話し始めた。
「俺が家族と別れた時、娘はまだ妻のおなかの中にいた。花のことしか考えてなかった俺に愛想を尽かして、妻は出ていったのさ。今どうしているのか知ることもできない。この先俺が家族に会うことはないんだろうな」
紅茶の澄んだ赤さを見つめるユキオさんの顔に、
淋しい皺が浮かんだ。

 花作りを仕事にしていたユキオさんは、昼も夜も花のことだけを考えて生きていた。
 花のめしべのかたちが昨日と違うことには、すぐに気づいた。
 水は。太陽の光は。温度はどうだ。
 何日も家に帰らず、温室の長椅子の上で眠る生活が続いた。
 花のことには敏感だったユキオさんだけれど、家族の気持ちには気づかないまま時は過ぎていった。
 毎晩家の食卓で待っていた温かい食事が、誰にも手をつけられずに捨てられていたことや、妻が夜中におなかの痛みを感じて病院に搬送されたことも、ユキオさんは知らずにいたのだった。家族のクライシスのさなかも、ユキオさんは花と逢瀬を重ねていた。
 日常のなかにじわりと入り込んだ花たちは、やがてユキオさんの姿を完全に覆い隠してしまった。幾重にも絡みついた花茎や葉をかき分けて家族が伸ばした手は、もうユキオさんに届かなくなってしまったのだ。
 あなたに娘は守れない。
 妻はそう言い残して出ていったのだった。

 大切な人を傷つけた痛みは、払っても払ってもつきまとう影のようなものだった。ユキオさんがどこへ行こうともぴったりとついてきて、黙ったまま見つめていた。
 ユキオさんをこの寂れた小さな花屋に連れてきたのは、無言の影なのだろう。でもそれは、ユキオさん自身から飛び出したものなのだ。

「花を愛してるからって、優しい人間とは限らないよ。別れたばかりの頃は、これで思う存分花のことに専念できるとさえ思ったんだ。酷いだろう。そのくせ新しい花が咲くのを見ているうちに、だんだん苦しくなった。妻や顔も知らない娘を傷つけてきた俺が作り出した花は、誰かを喜ばせるためのものじゃなかった。俺には人とちゃんと向き合う資格も覚悟もない。新しい花にも申し訳なかった」
ユキオさんは私から視線を外し、窓の外を見つめた。紅茶の上で光が揺れた。
「家族だとかどんなに親しい間柄でも、同じ方を向いているとは限らないんだ。気持ちが揃わなければ、冷たい川が平行に流れてるだけになる。どこに向かって流れていくのかもわからなくなる」
 私たちはみんな、別々の体を持った別々の人間だから。考えていることも感じていることも、本当のところは外側からはわからない。手を繋いでいても、皮膚一枚を隔てただけなのにそれは正しく伝わらなかったりする。それを少しでも乗り越えるために言葉があるのだろう。会話を諦めたら、すれ違った思いは行き場を失くして流れてゆくしかない。

 ユキオさんが私に良くしてくれるのは、娘にしてあげられなかったことを埋め合わせたいからなのだろうか。ユキオさんが望むなら、私はここで娘のふりをしたっていい。
 けれども私が花を生むばけものだと知ったら、花を愛するこの人もきっと、私を拒むに違いない。


 根を持たなくても咲いている切り花たち。それは地に根を張って生きてゆくことはできない私に似ていた。
 切り花は、命を繋ぐために精一杯水を吸い上げる。根がないことを信じないで。種や実を結ぶことは叶わない夢だと、彼らは知っているのだろうか。
 母は私に、私らしく生きてほしいという。
 でも私が私のままで生きたら、ほんとうは苦しい。根がないことを知っているから、苦しいのだ。

 今、この瞬間だけを生きる。
 長くとどまることなど考えもせず、刹那の儚さのなかで咲く花を、私は精いっぱい輝かせてあげたいと思う。誰かの元へ届けられるまで、思うまま咲かせてあげることが、私にできるささやかな行いなのだ。
 それは罪滅ぼしにも似ていた。ぼんやりと体の底に眠る罪悪感は、誰かと会話している間でさえ
私を時々孤独にした。もしかしたら、ユキオさんと私は似ているのかもしれない。
 ユキオさんと私はたくさんの花のなかにいて、それぞれに、ひとりだった。


 やるせなさを持て余して、私は感情の繭のなかでため息をついた。
 すると、紺青色の半透明なガラス質の花が私の口からあふれ、虚ろな音を立ててテーブルの上に転がった。
 向かい合う人の目の前で、私は見間違いようもなく花を生んでしまった。この事態を言い逃れられる機転も頓知も、持ち合わせていないのに。
 ユキオさんの視線は、たった今吐き出された花に強く注がれている。
 鼓動が速まり呼吸が荒くなって咳こむと、テーブルの花と同じものがふたたび口から飛び出して、私の膝の上に広がった。
 言い訳もおふざけも、もう通用しない。

「なんだろうこの花は。まったく見たことないな」
私が口から生み出した名もない奇妙な花を、ユキオさんは慎重に自分の手のひらに乗せた。真上から横から眺め回し、陽の光に透かしたり匂いを嗅いだりした。
 その様子を愕然と眺めているうちに、私は苛立ちを感じ始めた。
「気持ち悪くないんですか?見たでしょう、私、花を生むばけものなんですよ」
「だから何」
私の目をまっすぐに見つめ、ユキオさんは言い放った。
「ばけもので何が悪い?」
それから、羨ましいなあ、と呟き、少し悔しそうな顔をした。


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3.夏の邂逅、冬の暴露⑶ へ続く

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鈴懸ねいろ 文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。