ラヴィアンローズ(薔薇色の人生) 3-⑴
3. 夏の邂逅、冬の暴露
母と私がこの街に住み始めてから半年が経った。
蝉の声が降り注ぐなか、洋服や本の入った段ボール箱や食器棚や、テーブルやら布団やらを汗まみれになって部屋に運び入れた日には、吐く息が白く凍る季節のことなどまだ考えることもなかった。
朝起きて、リビングの暖房のスイッチを入れるのは私の役目だ。母は低血圧で寝起きが悪いのだ。
分厚いカーディガンを羽織り、暖かい空気が部屋に広がるのを待つ。
これは何度目の引っ越しだっただろう。
年中行事のように引っ越しを繰り返してきた私と母にとって、それはもう曖昧にしか思い出せないものとなっていた。
見知らぬ街に到着して、新しい学校や職場に入っては人と出会い、別れる。
友だちのリップクリームの匂いがすぐそばにある関係。週末のランチの約束。それを煩わしく思ったことさえ、今となっては懐かしかった。
ようやく繋ぎかけた誰かの手を、私は強く握り返すこともなく通り過ぎてきたのだった。
*
私は今、街の西のはずれにある小さな花屋で
働いている。
この街に着いたばかりの暑い夏の午後、商店街で買い物を済ませ自転車で花屋の前を通りかかった時に、偶然、従業員募集の貼り紙を見つけたのだ。
自転車から降り、端の崩れたコンクリートの石畳を踏みしめて店に近づいた。
長年の日射しに灼かれてくすんだ日除けの陰で、木箱に入った鉢植えの植物が幾つも涼んでいた。その横にある、チョークの消し跡が残る黒板には、夏のおすすめの花の名前が並んでいた。
向日葵、千日紅、トルコ桔梗。
ペンキの剥げた白い木枠のガラス窓の奥では、すらりと背筋を伸ばしたアネモネやガーベラ、青紫色のデルフィニウムなどが錫バケツの中で静かに咲いているのが見えた。
花の種類は多くない。でもそのぶん花たちは、
どこかのんびりと過ごしているようにみえた。
扉の隙間から流れ出してくる、植物の匂いのするひんやりした空気も心地よかった。
ここで働いてみるのはどうだろう。
コンビニのパイナップルアイスの棒を咥えたまま募集要項を眺めていると、店のなかから男の人が出てきて
「うちで働きたい人?」
と声をかけてきた。
その人は店主で、名前をユキオさんといった。
ユキオさんは白髪混じりの長い髪を野武士のように結い、八の字に口髭を生やしていた。
ユキオさんは、花屋で働いた経験はあるか、とか(スーパーマーケットでバイトをしていた時に
生花コーナーを受け持った程度の経験しかない)週に何日来られるか、など(週五日勤務を希望。休日の急な出勤も可能)ざっくり質問すると
「じゃあ決まりだね。明日から来てよ」
と言うなり配達車に乗り込んで出掛けてしまった。
戸口には《ただいま配達中》の看板。
ユキオさんはひとりで店を切り盛りしているので、配達中は店が無人になってしまう。その間はどうしても店を閉めなくてはならなかった。そこで店番をする人間が必要だったらしい。
まだハイともイイエとも返事をしないうちに、私の就職先は決定していた。アイスの棒を片手に面接を受けたのは、まったくもって初めてのことだった。
幼稚園のお砂場で『お花やさんじゃないし』と思っていた私は、今や本当に『お花やさん』になっていたのだった。
でも、悪くない。
木を隠すなら森の中。
思いがけず花を生んでしまっても、花屋ならば目立ちにくいだろう。
安心できる場所になるかもしれないという淡い期待が胸を占めた。
*
花屋の朝は早い。
冬の早朝の空色がまだ夜の領域にあるうちに、ユキオさんは花を買い付けに車を走らせる。
その間に私は店の鍵を開け、新しい花を入れる場所を確保したり、昨日までの花の手入れや水かえをしておく。それが私の日課だ。
鳥の声しか聞こえない、生まれたての朝の街を歩く。
通りを真っ直ぐに行き、花屋が見えてくると、いつものことがいつものようにそこにあることに
私は安らぐ。
店の扉の真鍮のノブに鍵をさし、灯りのスイッチを入れる。暗かった部屋がぱっと明るくなると、植物たちが目を覚ます気配がした。
私が花を生むことを、ここの植物たちは許してくれるだろうか。
息を潜めて私を観察している花たちに、おはよう、と挨拶をする。彼らは知らん顔をきめこむけれど、聞き耳を立てているようだった。
配達のない日には、ユキオさんは花の種類や扱い方を丁寧に教えてくれた。
花によって異なる水あげや水切りの仕方、薔薇の棘の取り方など、覚えることは尽きない。
それでも何かを知ってゆくことは新鮮で、毎日が発見の光に満ちていた。
ユキオさんはひとつひとつの花に愛を囁きながら、細やかな手つきであしらう。
ブーケを作りながら花を褒めそやすユキオさんに、最初は面喰らってしまった。
私が唖然としていると、ユキオさんは
「俺みたいな怖そうなオジサンが花に声をかけるなんて、気味が悪いと思ってるだろう」
といいながら、こちらへ鋭い視線を走らせた。
「少し驚いただけです。声かけがあまりにもエロくて」
ユキオさんの眼差しにたじろぎながらも、私の顔はきっと、半笑いになってしまっていたのだと思う。
ユキオさんは気を悪くしたようにむすりとしながら、これだから嫌だねえ、と小声でぼやいた。
「花はいきものだから。呼吸をしたり眠ったり、
人の感情を読み取ったりしてるんだよ。こっちの話をぜんぶ聞いてる」
バケツの深い所で花ばさみを動かすユキオさんの輪郭が、逆光の中でくっきりと見えた。
葉をどこまで落とすのか、蕾がいつ開くように調整するのか。
恋人のからだをそっと抱くように、腕のなかの花に手を添えてユキオさんは見極める。この店の花は持ちがいいとお客さんによくいわれるのは、
ユキオさんと花が秘密の約束を交わしているからなのかもしれない。この人は本当に花が好きなのだ。好きというより、愛しているのだろう。
年明けの花の配達がひと心地ついた午後。
何か飲みますか、と聞くとユキオさんは、それならいいお茶があるんだ、といって流し台から赤いマグカップをふたつと、くまの絵柄のついた紅茶缶を手にしてきた。
「このくまの紅茶、好きなんです」
「あ、俺も」
「好きなものが似てるかもですね」
「そうだな」
ティーポットに茶葉をさらさら入れると、華やかな香りが立つ。冬の日を暖める陽だまりの味がした。穏やかなひとときに心もゆるむ。
「えりかは花と気が合いそうだな。ここの花たちはみんな、前より元気になったみたいだ」
ユキオさんは店内を見回すと、目を細めて紅茶を飲んだ。
「そうだとしたら嬉しいです。花と仲良くなりたいと思っているから」
私の言葉を聞くとユキオさんは唇を横にひいて、にっと笑った。
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3.夏の邂逅、冬の暴露⑵ へ続く
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