トートバッグいっぱいの呪いを。10.
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例の女の人は名前を花蓮さんという。
パパの会社の部下で、パパが長期の出張で家を空けている間、様子を見に来てほしいと頼まれているのだそうだ。
溜まっている郵便物を整理したり、窓を開けて部屋の空気を入れ替えたり、書留の再配達の手配をして受け取ったりしているらしい。
「まるっきり彼女みたい」
ママは冷静かつ自嘲気味にそう言った。
パパの地獄のような日々の様子を、花蓮さんは半井さんに静かに語りだした。見ず知らずの半井さん相手に花蓮さんがどんどん話したのは、半井さんの不思議なちからのせいでもあるのだろうけれど、たぶん花蓮さんも誰かに胸の内を聞いて欲しかったのだと思う。
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僕とママを亡くしたパパは、いっそう仕事に打ち込むようになった。
悲しみは日に日に深まっていくのに、日常は続いていくという残酷な仕打ちに抗うように、パパは血走った眼をギラギラさせて、寝ることも食べることも忘れて仕事をした。
没頭することが、悲しみを紛らわせる一番の薬。真面目なパパはそれを実践したのだと思う。
無茶をして、気がおかしくなりそうなパパのために、花蓮さんは気分転換にとドライブに誘ったり、食材を持って夕食を作りにきたり、泣くパパの頭を一晩中撫で続けたりした。
花蓮さんが運転する車の助手席でパパは、家族ドライブの時によく聴いていた古い洋楽の『小さな願い』をかけ、壊れた人形みたいに涙を溢れさせていた。
♢
《パパの激白》
カイのそばにいた時間は、どれくらいなんだろう。1週間のうちで10分?15分?
ママは俺と結婚して幸せだったのか?
結婚する時、お嬢さんを必ず幸せにしますって、お義父さんお義母さんの前で宣言したくせに、俺はふたりを狭い鳥籠のなかに置き去りにした。
ふたりのためだといいながら夜中まで働いたのは、あの鳥籠の中に戻る時間を、少しでも遅らせたかったからなんじゃないのか。
俺は自由でいたかった。
何ものにも縛られずに。
ならば何故、あの教会で、ウェディングドレスを着た彼女に誓いのキスをしたのだろうか。
リビングのソファが居心地がよかったのは、ママとカイが俺のために精一杯気を使ってくれていたからだ。俺はそれに薄々気づいていたのに、投げやりな返事しかしなかった。
ふたりと最後にちゃんと話をしたのはいつだったろう。
ふたりが最近ハマっていることも、好きなお菓子も、俺は知らないんだ。今聴いているこの曲だって、ふたりが好きだった音楽じゃない。俺が勝手にかけただけなんだ。ママがどんな音楽を聴いていたのか知らないし、カイの得意な科目も友達の名前も知らない。俺はふたりの何も知らない。
家族の寝顔しか見ない生活で、家の中に気配はあるけど姿はない俺は、ふたりにとって幽霊みたいなものだったんだろう。
♢
パパは言葉を次々に吐き出したかと思うと、そのあと急に置き物のように黙り込んだ。
花蓮さんも黙って運転した。
そんなことないです、と言うのも違うし、ふたりは幸せだったはず、なんて陳腐な言葉をかけられるわけもない。
パパの言葉を耳の奥に眠らせたまま、花蓮さんはハンドルを握って、この世の果てまで車を走らせるつもりだった。『小さな願い』の歌が頭から離れない。
がらんどうの瞳に車窓の風景なんて映りはしないとわかっていたけれど、花蓮さんにできることは、パパが回復するのをただ待つことだけだった。
♢
《花蓮さんの告白》
塚田さんの奥さんと息子さんが亡くなったと聞いた時、私は怖くなってその場にしゃがみ込んでしまった。
だって私は毎日、塚田さんの奥さんと子どもがいなくならないかなと、心の底で思い続けていたのだから。
強く願うことって、叶ってしまうんだ。
その分、私は高い代償を払わされることになるに決まっている。塚田さんが大切にしてるひとに
消えてほしいだなんて、私の最低な願いを叶えた神様が見過ごしてくれるはずがない。
私は怖くて怖くて、大好きな塚田さんの顔を
まともにみられない日々を送っていた。
その一方で、どんな報いであっても受け入れる覚悟が、私の体の中に小さく芽生えていることにも気づいていた。
昨日の夜は気分が悪くなって、夕食のパスタをひとくちも食べられなかったけれど、それは塚田さんの家族のことだけが理由じゃない。
そのことはまだ塚田さんには話していない。
今の私の中には心臓がふたつある。
自分の鼓動と、もうひとつの別の鼓動。
かすかなラブソングが子宮のなかから聴こえてくる。
守るものができた私は、愛する人と自分のために、他の誰かを傷付けることさえ厭わない嫌な人間にだってなれる。
そうだ。
この子の名前は海にしよう。
塚田さんと初めて会ったのは、入社してから2ヶ月後の配属先決定の日だった。
ガチガチに緊張して、自己紹介で噛みまくった私に、そんなに堅くならなくていいんだよ、ここはみんなざっくばらんな人ばかりだから大丈夫、と、優しく言ってくれたのが塚田さんだった。
不慣れな私に根気強く仕事の手順を教えてくれて、ミスをしてしまった時には、一緒に関係先に頭を下げて回ってくれた。
そんな塚田さんにはちょっと子どもみたいなところがある。
塚田さんの後頭部にかぴかぴになったご飯つぶがついていたことがあった。
なぜこんなところに、と驚いた。
塚田さんの髪に触れていいものかさんざん迷い、結局は手を伸ばす勇気のなかった私は、
「頭の後ろにご飯つぶ、ついてますよ」
と耳打ちするのが精一杯だった。
塚田さんは慌てて髪をまさぐり、ああほんとだ、と恥ずかしそうに笑いながら、そのかぴかぴを取ってゴミ箱に捨てた。
昼休みのデスクのパソコンの横に、おにぎりの包装フィルムが丸められていた。そのくしゃくしゃのフィルムさえ愛おしくみえることが、塚田さんへの私の想いを教えていた。
塚田さんの左手の薬指には銀色の指輪が光っていたし、デスクの引き出しの中にこっそりと、奥さんと息子さんがピースサインをした写真をいれていることも知っていた。
それでも私は塚田さんに、自分でもあきれるほど惹かれていったのだ。
職場に傘を忘れたことを思い出し、取りに戻った雨の木曜日の夜のことだった。
もう9時を過ぎていたのに、塚田さんのデスクにだけぽつんと灯りがついているの見て、私は泣きそうになった。
「お疲れ様です」
私は差し入れの缶コーヒーを塚田さんのデスクの傍らにそっと置いた。
塚田さんは私の存在にいま気がついたというように目を丸くして、
「こんな遅くにどうしたの」
と、いつもの穏やかなやわらかい声で言った。
「塚田さんこそ、まだ帰らないんですか」
「あともう少しだけやったら帰るよ」
そう言うと、私があげた缶コーヒーのプルトップをプシッと開けた。
唇をつけてごくごくとひと息にコーヒーを飲む塚田さんの喉仏に、私は見惚れていた。
ああ、缶コーヒーになりたい。
「塚田さんは、どうしてそんなに一生懸命になれるんですか。正直に言って、他の人は要領よく振る舞ったり、狡かったりするのに」
パソコンとの睨めっこに疲れて眉間をおさえる塚田さんに、思わず聞いていた。
しばらく考えていた塚田さんは言った。
「たぶん、これが家族のためになると信じているからかな。あのふたりにはさみしい思いをさせているけれど、俺が存在しているのは、あのふたりがいるからなんだ。ふたりのためなら頑張れるんだよね、不思議と」
塚田さんの笑った目元に、少し皺が浮かんだ。
私はなぜだかその皺に猛烈に嫉妬して、反射的に塚田さんを背後から椅子の背もたれごと抱きしめていた。あっ、と思ったけれど、どうしようもなかった。私の腕は塚田さんを求め、それと同時に守りたがっていた。その衝動を拒むことはできなかった。
塚田さんはしばらくそのままじっとしていたけれど、やがて私の腕をそっとほどいていった。
「雨だから、足元に気をつけて帰りなさいね」
それだけ言うと、ぎこちなく笑い、またパソコンに向かい始めた。
私は傘を掴んで、小走りに出口へ向かった。
傘を持っているのに、差すこともしないで私は歩いた。雨の雫なのか涙なのか、自分でもわからなくしたかったのだ。
あの雨の夜、
私は自分に忠実に生きることに決めた。
(11.へ続く)↓
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✳︎
紙媒体の本を創りたい。という目標があります。
