ふたつの音楽世界の境界を歩くーー台湾の綺麗なお姉さん阿爆(ABAO)さんは誰? 彼女の歌声が作り出す、もうひとつの“揺れる時間”
境界の時間、揺れるリズム(2)

jazzy でゴスペル・フィーリングあふれる
rare grooveっぽいEDMトラックにのせて、
謎の言語でハスキーに囁き、
鼻母音がかったしゃべり言葉が自然に歌い出すような歌を歌う、
リズム感抜群の綺麗なお姉さん。
フレーズとフレーズの間で息を吸う音までがリズムに乗っている。
(これを消さないエンジニアの意思が伝わってくるとともに、
かれがどれだけ彼女の声を大事にしているかがわかる。)
呼吸、息づかい、ビートに対する間合いが作るなにか。
土臭ささ、祈りのようなもの、魔術的な力。
これはけっして英語では絶対に表現できないものだ。
彼女は台湾の阿爆(ABAO)さん、本名Aljenljeng Tjaluvie(b.1981‐)、
なお、彼女は「阿仍仍」と表記されることもあって、
こちらは本名を中国語に音写したもの。
台東県金峰郷嘉蘭正興族で生まれ、少数民族排灣族(パイワン族)の女性シンガーソングライターである。
彼女の歌は一度聴くと忘れられなくなる。
彼女の声とともに時間が揺れているのだ。
この揺れが気持ちよく、私の心の奥のなにかに働きかける。
ライヴで聴いたわけでもなく、YOUTUBEで聴いただけなのに。
こんな経験はとてもめずらしい。
そもそも排灣族っていったいどんな人たちなんでしょう?
そしてグルーヴィなトラックに乗せて、
あえて排灣語で歌うということは、
台湾において、いったいどんな文化政治性を帯びているだろう?
そこには彼女の、なんとしてでも
自分の民族の文化的記憶を残すという強い
意思がある。
もしも自分の母語を、自分たちの文化を忘れてしまえば、
人はのっぺらぼうの誰かになってしまうではないか。
誰がそんな人生を生きたいだろう?
2014年の作品『vavayan女(パイワンウーマン)』である。 オルガンのコンピングとエレクトリック・ピアノの絡みが特徴的な groovy なトラックにのせて、ダブルトラックの彼女の低い囁き、それに応じる彼女のよく伸びる高い声、これがまた可憐だ。ヴォーカルの、ビートとダンスを踊るような絶妙な感覚。リズム感も抜群。ブレイクで天界から降ってくるようなバックコーラスの、排灣語で繰り返される、vavayan、vavayan、vavayan。そしてまたサウンドを引き連れてテーマに戻り、ヴォーカルとバックコーラスの掛け合い。ブレイクではエレキ・ギターのカッティングのスポット・シーンを経て、ふたたびテーマで盛り上げにかかる。なんてメッセージが明快なアレンジだろう。中音域が分厚いサウンドも温かみがある。かっこいい。心にに残るではないか、vavayan、vavayan、vavayanーー。(※1)
排灣族は少数民族、台湾 2200 万人余りの人口のなかで排灣族は8万人。台湾原住民族の中で(アミ族、タイヤル族に次いで)3番目に人口が多い主要な民族の一つです。排灣族は主に台湾南部の屏東県や台東県に居住しています。排湾族は排湾語(パイワン語)を話します。これはオーストロネシア語族に属する言語と言われています、もっとも、そんなこと言われたって私たちにはなんのことやらわかりませんけれど。
排湾族は、農耕(粟、タロイモなど)や狩猟をおこない、粟の栽培は儀礼的にも大事なものだった。かれらは石板屋(スレートでつくった家)に住んできた。祖霊の物語や家の起源を、貴族は家の前面に彫刻し、平民は衣服の織り方や刺繍で表現する場でもあったそうな。
かれらの文化は象徴に満ちていて、青銅刀(男子の権威)、陶甕(貴族の権勢)、琉璃珠(トンボ玉)(富の象徴)は、貴族が結婚する際の重要な婚資とされてきた。
また、百歩蛇(ひゃっぽだ)は、排湾族にとって最も神聖な存在で、貴族階級の祖先として崇拝されるシンボル。衣装や工芸品の主要なモチーフとして使用されます。百合の花は貴族の象徴とされ、平民でも純潔や勇気を認められた者に限り、身に着ける栄誉が与えられた。
ところがいまの排湾族の若者たちは台湾華語(中国語)や台湾語(ホーロー語)をしゃべる。わずかに部族のコミュニティや祭祀などでは排湾語をしゃべるけれど。
このままでは排湾語は消えてしまいかねない。自分の一族の言語が消えてしまうのは悲しい。自分たちのアイデンティティが失われることに近い。そこで彼女は(けっして母親ほどには巧く使えないけれど、それでも自分の母語である)排灣語で歌った。いわば排灣族のゴスペルなのである。
ABAOさんは語る、「排灣語ってスペイン語に似てるんですよ。音の高低が激しいからgroovyな音楽に合うんです。」もちろんそれは彼女のプロジェクトのただのきっかけに過ぎない。彼女は排灣族の暮らし、遊び、お洒落、フィロソフィーを慈しみ、その魅力をあまねく広く伝えたいのだ。
もちろん彼女が書く排灣語の歌詞は、排灣語話者にしか通じない。たとえ翻訳したところで詩の精霊は消えてしまう。それでもなにかは確実に伝わる。異語の力と言うべきでしょう。それは言語に先立って体に働きかける。思えば近代台湾史は、抑圧・同化・忘却に満ちている。母語が奪われた世代は沈黙する。しかし、ABAOはその沈黙を声に変換する。そのとき音楽は、語られなかった記憶のリカヴァリー装置になるのだ。
さて、阿爆(Abao)さんである。彼女は、そしてこの曲はいったい台湾のどんな文脈から生まれただろう? 私たちはまず台湾という国の過去と現在について知るべきでしょう。

1|台湾、多民族が生きる島の歴史
日本は言語、地域、民族の3つのカテゴリーがおおむね重なっている。もちろん厳密に言えば違うとはいえ、それでも世界でめずらしい国である。対照的に、台湾は九州ほどの大きさの島ながら、さまざまな原住民が暮らしていた島であり、しかもかれらは現在も台湾に暮らしている。台湾はむかしもいまも複数の民族が異なった言語を使いながらともに生きている島なのだ。
かつては大日本帝国が植民し、大きなお世話にも近代化を行った島である。台湾は大日本帝国の版図の一部だった。ところが1945年、大日本帝国は敗戦によって台湾を手放し、そこに福建省の中国人たちや客家と呼ばれる広東の方の人たちや、蒋介石と中国国民党の残党は台湾に逃れ台湾にやってきて台湾統治をはじめた。1990年あたりまで台湾は中国人が威張って暮らしている社会だった。
ところがそれ以降、台湾人たちは自分たちは中国人ではなく台湾人である、台湾と中国は対等なふたつの「国」なのだという民意が高まる。両「国」は軍事力こそ非対称ではあるものの、台湾は民主主義とITと文化で独立国家であると考える。かつて黒砂糖しか作れなかった台湾はいまや半導体産業で大成功していて、それは奇跡と言ってもいいでしょう。(しかしながら、中国は台湾を自国の領土と認識し、また、国連は台湾を国家として承認せず、また日本も同様である。したがって、髙市総理はどうぞご発言に気をつけてください。もっとも、台湾については世界中が戦略的曖昧さをもって扱っているゆえ、発言の注意ばかりが問われ、困りものではあるにせよ。しかしそれはそうであるにせよ、高市総理の「台湾有事は日本の有事」というご発言は、日本の憲法および法律に激しく齟齬をきたします。なるほど、習近平主席は「ひとつの中国」というお考えを在任中に名実ともの事実にすることを悲願としておられもします。なお、私自身は台湾が曖昧ながらも国家であると思っていますし、可能性としてありうる台湾有事を憂慮しています。しかもトランプ大統領の動向が見当もつかにゆえ問題は深刻です。ただし、だからといってそれを日本有事と見なすには、何段階か論理の飛躍があるのではないでしょうか。いいえ、本題に戻りましょう。)
台湾とは前述のとおりまったく一枚岩の民族の「国」ではなく、さまざまな民族が暮らしている。したがって台湾はいわゆる民族の「国」としてまとまることはできない。そこで李登輝政権とともに、かれらは台湾にふさわしい多文化主義マルチカルチュアリズムを採用し、推し進めるようになってゆく。1997 年の憲法改正では、「基本国策」の章に「国家は多元文化を肯定する」という文言が書き入れられる。学校の授業でもさまざまな先住民文化を教える時間が設けられる。すなわち国内のさまざまな文化的少数 派を認め、いろんな民族がみんなハッピーに暮らす「国」を作ってゆきましょうということ。これが新しい「台湾ナショナリズム 」であり、「 中国ナショナリズム」とはおよそ対照的である。
そもそも、台湾という島を流れる時間は、一本の線ではない。
それは複数のリズムが同時に鳴っている「ポリリズムの島」である。
ある民族は8拍のサイクルで暮らし、別の民族は3拍の祈りを刻み、都市は4拍子で動く。
そのすべてが互いに干渉しつつも、同じ土地に共存している。
16の先住民族の言語と歌、客家語、中国語、日本語、その背後にある神話体系と儀礼の時間が、島の内部で層のように重なり合っているのだ。
同じ島に住んでいながら、
人びとはそれぞれ異なる“時間の流速”を生きている。
ここに台湾の文化的な独自性がある。
2|母親的舌頭
BPM120ほどのテンポの心臓の音みたいなバスドラムス。遠くから聴こえてくるようなマリンバの音域を圧縮したような響き、そこにディレイやエコーをともなったなまなましい囁き=語りがはじまり、やがてその声はダブルトラックになり、やがて静かにはじまった音楽は編曲的厚みを増してゆき、バックコーラスもまた彼女の声であり、彼女の声は音域によって違った表情を持っていて、それがリスナーを魅了する。サウンド全体がディレイやエコーをともなって声の交響のようになってゆく。8小節ほどヴァイオリンが控えめに泣かせにかかり、ふたたびテーマに戻る。どこかしらケイト・ブッシュに通じるスペイシーな音の肌触り、しかし彼女独特の世界が生まれている。エンジニアリングがまたすばらしく、良いオーディオ・セットで聴きたくなる。言葉の意味がわからなくてもかっこいいとおもってしまうし、何度も聴きたくなる。この曲は、『KINAKAIYAN 母親的舌頭(mother tongue~母語)』というアルバムに収録されています。このタイトルは、阿爆は排灣族ゆえコドモの頃から排灣族の言語を話すのだけれど、おかあさんに「あなたの排灣語はまだまだね」と微笑まれた経験に由来するそうな。排灣語の「もうだめ、なんにもできない」を表す感嘆詞から部族のおいしい料理名まで、実用性の高いパイワンの言葉を選んで歌にしたそうな。

3|無奈 tjakudain featuring 李英宏 aka Dj Didilong
題名は無力という意味で、ふたりは愛し合っているのに民族の違いゆえどうしても乗り越えられない壁があってそのせつなさを、李英宏の閩南語によるラップと阿爆さんの排灣語の掛け合いで表現しています。EDMの上での男女のRAPの応酬で越えられない壁の悲劇を現しておられます。
4|阿爆(Abao)の囁きが拍に命を吹き込む
都市化した世界では、多くの音楽が均質化してゆく。
テンポは120〜130BPMの範囲に収まり、サビまでの構成は似通い、
「世界ヒットのためのコード進行」がプロダクトのように量産される。
彼女の作品もまたバックトラックだけ聴けば、
jazzy でrare grooveっぽいEDMではある。
ところが彼女の低くどこか呪術的な声で囁くパイワン語によって、
いきなり音楽は魔術的なオーラを放ちはじめる。
しかも、ビートに対してダンスを踊るような囁きのテンポ感。
ビートは安定しているのにリズムの内部構造が揺れる。
このとき「拍」そのものに命が吹き込まれるのだ。
彼女の“呼吸の拍”は、ダンサーが踊りの途中でふっと重力を忘れる一瞬に似ている。
一拍がわずかに沈み、つぎの拍が微細に前へ滑る。
そのズレが、身体の奥の記憶を呼び覚ます。
たとえば、
4拍子の表面に、
3連系の細かな装飾が重なり、
さらにパイワン族の祭祀歌に由来する、周期の長い“呼吸の拍”が差し込まれる。
この“呼吸の拍”が、時間を伸縮させる。
都市的なポップの時間とは違う、
身体の奥のほうで感じる時間
が立ち上がる。
5|Abaoの音楽は時間の多層性の体験装置だ
Abaoを聴くと、ふしぎな感覚に襲われる。
それは「懐かしいのに新しい」という、あの矛盾した感覚だ。
懐かしいのは、歌の奥に古い神話や祭りの気配が潜んでいるからだ。
新しいのは、それを最新のエレクトロニックやR&Bの文脈で再構築しているからだ。
たとえば彼女の代表曲には、
パイワン族の祈りのメロディ
台湾南部の都市クラブの低音
EDM的な構造
ゴスペルにも似た声の重ね方
が同時に存在する。
これらは、文化の混合というより、
時間の層が折りたたまれている
と言ったほうが正確だ。
古代の声と未来のビートが同じ場所で“一瞬”を共有し、
その一瞬が、私たちの時間感覚を揺さぶる。
● 台湾という“島の哲学”を、Abaoの声が体現している
多文化主義は、ただ多様性を許容する政策ではない。
台湾においては、
異なる時間を共存させる知恵
として発達してきた。
Abaoの音楽は、まさにその知恵を音楽的言語に置き換えたものだ。
拍の揺れ、声の重層性、リズムの異文化的折り重なり。
それらは、台湾という島が100年以上の歴史のなかで経験してきた、
重層的な時間の“感じ方”そのものだ。
だからこそ、Abaoの音楽はけっして
「民族音楽 × ポップ」
「伝統 × 現代」
という単純な構図で語ることができない。
むしろ彼女は、
現代世界が失いつつある“揺れる時間”の豊かさを、
もう一度私たちに思い出させるアーティスト
なのである。
私たちは彼女の声と音楽に癒されながら、
私たちが失ってしまったものを思い出す。
日本が近代化のなかで“一つの時間”へと拍を整えてきたのに対し、
台湾は“複数の時間”をそのまま抱え込む島だった。
Abaoの声を聴くと、その違いが、身体の奥で静かに立ち上がってくる。
彼女は微笑んで言う、「パイワン族の生活はミュージカルみたい。日々の暮らしはミュージカルのようなもの。みんな自分の感情を表現するために歌うのが大好き。一年に祭りがたくさんあるの。母の日歌のコンテストもあるし、もっと言えば毎日がお祝いみたいなものね。幸せならば、毎日ミュージカルを上演してるようなものだから。」
つまり、排灣語そのものが音楽的なのだ。
そして彼女はそれを身体化させているのである。
彼女の表現は彼女個人を越え、コミュニティ、台湾のすべての人々、 ひいてはアジア全域はおろか世界へ届く。なぜなら、いまや世界中のほとんどの人は都市民であり、自分の文化的出自を忘れかけているから。ABAOさんの表現は、けっして失われゆく言語の最後の灯火ではなく、むしろ来るべき未来への火種なのだ。
ABAOの歌声は、けっして過去を保存するための冷凍庫ではない。
むしろそれは未来に向かって発酵しつづけるいわば文化の微生物だ。
かつて奪われた母語は、今や踊りながら繁殖している。
どの民族にも、どの土地にも、眠った声がある。
ABAOの歌を聴くとは、その声がふたたび世界に根を張る瞬間を
聴くということなのだ。
あるいは、私は彼女を神格化しすぎただろうか?
けっして私はそうは思わないけれど、
同時に、彼女がフレンドリーで気さくな女性であることにも
触れておくべきでしょう。
そしてそれは彼女自身の性格に由来すると同時に、
台湾という島の人たちの、人の良さでもあるのではないかしら。
なお、私はこのエッセイを書く過程で、
Abaoの音楽世界の構築に深く関わった人が、
日本と中国のハーフのパーカッショニストで編曲家の
荒井十一さんであることを知った。
こんなにも才能のある人が日本で話題にならないことが不思議である。
(かれのことは末尾の註で触れてあります。)
排湾族には、以下の芸術家たちもまた活動しています。『台湾先住民の経験』を書いた詩人・作家の莫那能 (Mónànéng)、(かれは台湾の現在の政治を告発しています。)作家・エッシストのサカヌイ・ストル(Sakinu Tali)はパイワン族の伝統や知恵を題材にした著作で知られている。彫刻家・建築家の撒古流・パウワ (Sakuliu Pavavalung)はパイワン族の伝統的なモチーフや建築様式を取り入れた彫刻や建築で国際的にも評価されている。現代美術作家の峨冷・魯魯安 (Eleng Luluan)はパイワン族の視点や社会状況を反映させた現代アート作品を制作している。彫刻家のレムルル・ルルアン (Lhemalu Luluan)は彫刻家として、その伝統を受け継ぎながら独自の表現を追求している。かれらはパイワンの伝統文化を守るべく共闘しているのだ。
阿爆の歌は、未来へと繁殖する声だ。
直線的な進歩の歴史を持たない歌。
始まりも終わりもなく、輪のようにめぐり続ける声。
――その感覚は、アジアのもう一つの島へと接続されてゆく。
バリとジャワのガムラン。
そこでは時間はまっすぐ走らない。
螺旋状に、ゆっくりと、時に激しく、何度でも帰ってくる。
音楽が円になったとき、西洋は免疫を失う。
次章では『バリ島のガムラン音楽:円環する時間と西洋の“音楽的免疫”の崩壊』を扱う。
(※1)本稿で紹介した阿爆(Abao)さんのアルバム『vavayan 女(パイワンウーマン)』 (2016)の編曲は、台湾を拠点に活動する日系パーカッショニストでかつまた中華圏の音楽業界で最も影響力のあるプロデューサーの一人として知られていま荒井十一(本名:荒井壯一郎~Ara Saichōichirō)さん、および香港ひいては中華圏の音楽業界において質の高いレコーディングとモダンなサウンドメイクで知られるDerrick Sepnio(張德銘)さん、カナダ人のFergus Chow(貢多傑)さんが手がけた。
なお、荒井十一さんは、日本と中国のハーフで、クラシック音楽の教育を受け、ドラム奏者としての確かな技術と、現代的なサウンドを取り入れるセンスを融合させ、ポップスからワールドミュージックまで幅広いジャンルを手掛けておられます。『vavayan 女』で、阿爆さんは最優秀原住民語歌手賞と最優秀アルバム賞を受賞し、また荒井十一さん自身もこの作品で最優秀アルバムプロデューサー賞にノミネートされています。
その他かれが関わった主なアーティストは、林憶蓮(Sandy Lam): アルバム『0』、莫文蔚(Karen Mok)の多くの作品の共同制作。李榮浩(Li Ronghao)、王菲(Faye Wong)、陳奕迅(Eason Chan)など。
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