見出し画像

ふたつの音楽世界の境界を歩くーーなぜ坂本龍一は沖縄音楽に惑溺していったのか?

境界の時間、揺れるリズム(1)

かつて私は坂本龍一(1952 - 2023)の1970年代後半から1987年あたりまでのアヴァンギャルドな時期を愛した。アルバム『B2 UNIT』に代表させることもできるにせよ、むしろかれの全活動に夢中になった。私はこの時期のかれの活動が好きすぎるあまり、後年のかれの活動を注意深く追いかけることはなかった。しかし、かれの没後、私は喪の務めのようにすべての作品を聴き直していった。そして私はふたつのことに気づく。拍の漸進的消滅と沖縄への惑溺である。おそらくこのふたつは密接に関係している。これはいったいどういうことだろう? 私は思う、坂本龍一の全作品はもう一度解釈され直す必要がある。

1|民族音楽との遭遇

坂本龍一が藝大在学中に、民族音楽学者の小泉文夫の授業を熱心に受けたことは有名である。小泉文夫は世界の民族音楽の専門家として地球上のありとあらゆる音楽に博覧強記であり、その好奇心に満ち溢れた生涯はWikipediaに詳しい。しかも、かれは気の軽い人で、歌謡曲の構造をわかりやすく分析もすれば、はたまた当時『Japanese Giri』でデビューし、津軽民謡をアメリカのロック・バンド、リトルフィートを従えて、ジャズ由来のピアノで弾き歌って、誰もを驚かせた矢野顕子との対談の席では、彼女にこうアドヴァイスもした。「日本の音楽のエッセンスを知るには、わらべ歌が一番ですよ。」かれのこのアドヴァイスに従って、彼女は童謡のジャズ化(?)というか、矢野顕子化を図ったものだ。

他方、坂本龍一は小泉文夫に絶大な讃辞を捧げる。「小泉文夫はぼくの音楽に対する態度に決定的に影響を与えた人です。実は音楽にとどまらず、あらゆる文化・人を公平に見るということを教えてくれた人です。小泉文夫の授業に参加し、個人的にも知り合えたことはぼくの人生の誇りであり忘れられない思い出です。あんなに明晰で、しかも暖かい人には会ったことがありません。今でも小泉文夫の笑顔を思い浮かべる時彼を失った悲しさで涙が出、彼をうばった死に対して行き場のない憤りをおぼえます。ぼくたちは、小泉文夫が何をし何を言ったか、もう一度よく知る必要があります。」(岡田真紀著『世界を聴いた男:小泉文夫と民族音楽』平凡社刊 1995のための帯文)


坂本龍一は小泉文夫に触発されて、世界のありとあらゆる音楽を分析する。そもそもYMOにしてからが初期の代表的ナンバーには、日本的メロディのシンセ・マーチ化(?)の方向が散見される。さらに本格的には映画『ラストエンペラー』のテーマ曲であり、まるで中国の古典宮廷音楽のような堂々たるものだった。同時に、当時かれが担当していたNHK FMの『サウンドストリート』では、民族音楽の回もあり、そこでは韓国国立音楽院の『鳥の歌』や、ヴェトナム山地民族の『葬式の歌』、はたまたインドネシアのガムラン音楽などが紹介されている。(吉村栄一著『坂本龍一のプレイ・リスト』イースト・プレス刊 2025)。

2|失われた日本音楽と沖縄音楽への「回帰」

さて、そんなかれはこんなことをつぶやいたことがある、「日本って、フィリピンみたいに、自国の音楽を失っちゃったんですねぇ。」もっとも、これはいくらか大局的な発言であり、前述の小泉文夫発言にあるとおり、けっして完全に失われてしまったわけではないにせよ。しかし、そんなかれは沖縄民謡だけは贔屓で、たとえば『ちんさぐの花』をネーネーズとともに演奏したり、うないぐみ とともに『弥勒世果報 (みるくゆがふ)』をリリースしたものだ。これらの曲を聴くと、東京育ちのかれの心の故郷がまるで沖縄だったかのように思える。これはいったいどういうことだろう?

そもそも沖縄は「日本の内部の異国」である。これは観光パンフレット的な常套句ではなく、音楽学的にも歴史的にも厳然とした事実だ。琉球王国が消滅したのは19世紀末だけれど、しかし音楽の記憶はもっと
長い時間を生きる。
おおらかな三線に乗せたのんびりした節回し、
あっけらかんとした歌詞の語りとほのぼのした抒情、
寄せては返す波のような反復、そして誰もを赦す伸びやかさ。
つまり本土の五音音階とはまったく違うのどかな“呼吸”を、
沖縄のうたはいまなお保っている。

声の出し方、息の使い方が違う。
低い声から高い声まで、
独特のこぶしをまわしきらめきを放ちながら自在に揺れ動く。
時間の扱い方の柔らかさ。
寄せては返す波のような、揺らぎをともなった時間感覚。
おのずと拍の刻み方もしなやかになる。
五線譜とはまったく違う構造が内面化され、
命を吹き込まれ、生き物のように、使いこなされているのだ。

坂本龍一が沖縄民謡に惹かれたのは、
この「呼吸の異質さ」を直感したからだろう。
かれは若かった頃のアヴァンギャルド精神を、
そしてしれに続くポップ・スター時代の知的なセルフイメージを
忘れこそしないものの、
しかし、いつからかれが敏感に嗅ぎとっていたのは、
音楽における“呼吸とともにある人懐こいズレ”や、
人間らしく味わい深い“偏差”こそが、
世界の豊かさである
という事実だったのではないか。
テクノは均質化の象徴と思われがちだけれど、
しかしかれがおこなったことは、むしろ
ドラムマシンのビートをわずかに人間っぽいタメを作って、
グルーヴ感を演出したり、
シーケンサーの裏にディレイをかけた手弾きのフレーズを潜ませたり、
マシンと人間のあわいで音楽を作ること。さらに言えば、
“世界の拍の不一致”を可視化する試みだったのではないか。

沖縄民謡は、かれの内部のコンパスを狂わせた
唯一の音楽だったのではないだろうか。
いや、狂わせたというよりも、
もうひとつの重力を与えたとさえ言うべきだかもしれない。
それは本土の「四拍子化された日本」という時間軸とはまったく別の、
南の海から吹いてくる、しなやかで、ねばりのあるリズムだった。

坂本龍一はこうも言ったことがある、
「日本の音楽は、明治以降ずっと“均されて”しまった。」
軍歌も唱歌も、戦後の歌謡曲の大半も、
西洋式のコード進行と均質なビートに回収されていった。
近代国家とは、拍の統一を求めるものなのだ。
そこにあるのは、帝国のルールとしての“四拍子”である。

しかし、沖縄は、おそらくかれにとっては沖縄だけが、
その同化の波を跳ね返した。
本土に取り込まれながら取り込まれない微妙な位置にあり、
アジアの海域世界の文化圏に深く足を浸し続けた。
だからこそ、坂本龍一にとって沖縄は、
「失われた日本の音楽」ではなく、
“失われなかった方の(広義の)日本”
として響いたのではないか。

そして、もうひとつ付け加えるなら、
沖縄民謡の多くは「語り」と「祈り」の境界に立っている。
民謡というより、シャーマニズムの残響だ。
かれが後年、「音楽とは記憶の器であり、
祈りのかたちである」と語ったとき、
その背景に沖縄の影が見えるのは、私の思い過ごしだろうか。

かれがネーネーズやうないぐみと演奏したとき、
かれは“伴奏者”というより“帰郷者”のようだった。
ネーネーズが演奏する『ちんさぐの花』は、
1989年の『Buaty』収録ヴァージョンと、
2021年のリマスタード・ヴァージョンを聴き比べるとき、
かれの音楽人生のなかでの沖縄への惑溺がわかる。
本土の均質化された音楽世界から、
もうひとつの日本、海の向こうの原風景へと帰っていくような、
あの静かな佇まいが深まってゆく。

では、なぜ沖縄音楽だったのか?
なぜ他のアジアの音楽ではなく、沖縄だけが彼の心を引き寄せたのか?
それは単なる趣味や文化人類学的興味では片づけられない。
むしろ私はこう思う。

3|Behind the Mask

坂本龍一は子供の頃からドビュッシーにあこがれ、
藝大在学中から世界中のありとあらゆる音楽を分析でき、
作品化することができた。
しかし、かれは1990年以降ニューヨークに暮らし、
コスモポリタンとして活躍しながらも、
その身体はおそらく日本に属していた。
にもかかわらず、けっしてかれは日本に居場所を見つけられなかった。
J-POPの世界はもとより、
都合のいい時だけ持ち上げられ利用される文化人枠や、
なにも生み出せない日本のクラシック業界、
どこであってもかれはストレンジャーだった。
その“居場所なさ”が、沖縄音楽に
救われたのではないだろうか。

音楽は、土地以上に、身体に忠実な芸術である。
そして身体は、けっして「四拍子がすべての世界」を信じてはいない。
とりわけ坂本龍一のように、
世界の不均質性や複層性に敏感な耳を持つ人にとっては。

では、この「居場所なさ」と「救済のリズム」は、
かれのどの作品に、どのような形で現れたのだろう?
――そこからが、この章の核心である。

4|拍を棄却した後にたゆたう音楽

坂本龍一の作品の中で、沖縄の影を最も濃厚に感じるのは、
必ずしも沖縄民謡と直接関わった曲だけではない。
むしろ、かれの静けさの感覚の根に、沖縄の“祈りの拍”が沈んでいる。

近代音楽が「拍の均質化」を進める歴史だったとすれば、
沖縄音楽はその対極――
時間のほうが、歌に合わせて揺れる
そういう世界だ。

坂本は、この“揺れ”を敬愛した。
そしてこの揺れこそが、かれの晩年の作品の核でもある。

たとえばアルバム《async》(2017)。
あのアルバムは、戦後ポップスやクラシックの四拍子世界から
遠く離れた場所で作られている。
かれ自身の生のリズム、呼吸の沈み、祈りの滞留――
それらが拍を曖昧にし、時間を波のように揺らす。

《andata》を聴けば、ピアノは規則的に配置されているようで、
実際には“波打ち際で崩れる拍”のように、微妙に偏っている。
これをピアニスト、ヴァレリー アファナシエフへの憧憬と、
アンビエントを経由した、
「どこにも存在しない教会音楽」
と言うこともできるでしょう。
むしろ注目すべきは、かれの沖縄民謡への惑溺が、
ドイツの音楽家Aova Note との共演と平行して起こっていることである。
おそらくかれにとってアンビエントへの沈潜と、
沖縄のうたが持つ“ゆらぎの記憶”への惑溺は、
ひとつの音楽精神の違った現れなのだ。

晩年のライブで坂本は、
かつての大曲を“ほぐし”、
骨格だけにして再演した。
あれは単なるミニマル化ではなく、
拍を消していく作業だったのではなかったか。
近代音楽が付与したメトリック(metric)な時間を脱ぎ捨て、
音の生まれ方そのものを、もう一度“土地化”しようとするかのようだった。

その行為は、沖縄民謡の“島唄の時間”に近い。
歌い手の呼吸で拍が決まる。
語彙の重心でフレーズが揺れる。
ひとの生のリズムが音楽の内部に露出した、あの独特の時間感覚だ。

坂本龍一は、はっきりとは言わなかったけれど、
かれの音楽の使命のひとつは、
「近代の拍子を解体すること」
だったのではないか。

四拍子は便利で、構造化しやすく、商品化に向いている。
だがその便利さが、世界の音楽的身体感覚を均してしまった。
そして、その均しすぎた時間をほぐすヒントが、
かれにとっては、沖縄のうたにあったのだ。
この構造は、まるで反転した植民地史のようである。

本土の近代化=四拍子化の波にさらされながらも、
沖縄はその根底に“揺れるリズム”を残した。
坂本はその揺れを、本土出身者でありながら、
「発見」したのではなく――回帰したのだと私は思う。

それは血縁でも民族的本質でもなく、音楽的な精神の帰郷である。


5|癌

しかもかれは2014年中咽喉癌に侵されて以降、
かれの身体そのものが静かに、しかし不可避に
瓦解へ向かってゆく過程にあった。
中咽頭癌は快癒したものの、
しかし、20年直腸癌が発見され、手術を経たものの、
21年直腸癌は消えてなかったことが判明。
手術は20時間にも及んだ。
だが、この手術もまた癌細胞をすべて取り除くことはできなかった。
やがて癌細胞の一部が血管の中に入り込み、
肝臓やリンパ節、肺などに広く転移してゆく。
この過程、6度もの手術のなかで、坂本龍一の晩年の音楽は、
異様なほど“肉体を超えた拍”へと沈んでゆく。

私はいまでも、かれの遺作、死のニケ月まえの2023年1月17日、かれの誕生日にリリースされたに発表されたアルバム『12』を通して聴くことができずにいる。
あの作品はあまりにも静謐で、深刻で、昏く切迫していて、
それでいて異界からのまなざしのように慈悲深い。
私にとって『12』は、もはや霊界の音楽に属する。
そこでは拍もメロディも、死と生の境目のようにぼやけ、
音だけが淡い光のように響き、ひそやかに変化してゆく。


坂本龍一において、沖縄の“揺れるリズム”は
異国趣味でも民族音楽の引用でもなかった。
それは、世界から拍子が剝がれ落ちていくとき、
最後に残る“生そのものの震え”だったのではないだろうか。

私たちは教授からたくさんの贈り物を頂いた。
ありがとう、坂本さん。

ここから私たちは、次の土地へ向かうことになる。
次章では『台湾――阿爆(Abao)の歌声が作り出す、
もうひとつの“揺れる時間”へ』
を扱う。


いいなと思ったら応援しよう!