夜明けの青い時間の知 第一章‐1:進化論は物語なのだ――〈分ける知〉から〈つなぐ知〉へ
デカルトが「――我思う、ゆえに我あり」と書いた瞬間、
世界の中心に〈思考する主体〉が置かれ、
自然はその外部へ追いやられた。
(余談ながら、デカルトがこの言葉を
フランス語 Je pense, donc je suis ではなく、
あえてラテン語 Cogito, ergo sum と記したのは、
「Je=I=我」という self のニュアンスを弱めたかったからではないか
という説がある。
つまり、かれが言いたかったのは
「私の思考が私を規定している」ということ――
だが仮にそうだとしても、ラテン語の Cogito はこの一語で
「私は考える」を意味してしまう。
――いや、本題に戻ろう。)
我、思う、ゆえに我あり。
それは〈世界を分ける装置〉の誕生でもあった。
この一文を境に、
思考と身体、理性と感情、科学と詩、
人間と自然は別々の領域へと切り分けられてゆく。
だが、切り分けられたものは、
いつか再び結びなおされる運命にある。
そしていま、AIという新たな〈思考する他者〉の登場によって、
私たちはふたたび「我思う」の意味を問われている。
この章は、その再結合への予兆として、
科学の内部に詩を見いだそうとした者たちの軌跡をたどるものである。
かれらは「考える」ことを、ふたたび「語る」ことへと変換した。
そしてその語りのなかに、
〈人間の知〉の再生の萌芽が息づいている。
ダーウィンが提起した進化論は、
データをもとにした推論であり、
同時に、ひとつの物語である。
そう――物語なのだ。
人間が二足歩行を始め、火を囲み、
言葉を話すようになったときから、
私たちは「語る生きもの」となった。
物語は、ただの娯楽ではない。
それは闇のなかで仲間を集め、
恐怖を照らし、
未来を想像するための装置だった。
世界を理解するために、人は物語を編み続けてきた。
進化論とは、その延長線上にある〈自然が語る物語〉である。
だが、同じ人間の言葉でありながら、その物語の読み方は多様である。
目の前にあるのは結果だ。では、原因はどこにあるのか?
変化の要因は、何が、どう作用したのか?
すべては、事実をもとにした個人の推論であり、解釈である。
だからこそ、進化論は議論百出を生み、
さまざまなヴァリアントを生み出してきた。
そして、その豊穣さのなかで、私たちは問いかける――
物語は、乗り越えるべきものなのか。
それとも、より的確に語り直すべきものなのか。
この問いの背景に、もうひとつの大きな問題がある。
それは、私たちの知が、
いつしか二つに引き裂かれてしまったということだ。
ただAIだけが、いま、その断裂を辛うじて架橋している。
けれども――AIにすべてを任せれば、それでよいのだろうか?
かつて知は分かたれていなかった。
「世界を知ること」と「世界を生きること」は、ほとんど同義だった。
星を観測することは祈りであり、
詩を詠むことは自然の観察でもあった。
知は呼吸のように世界と循環していた。
アリストテレスもレオナルド・ダ・ヴィンチも、
観察し、描き、哲学した。
そこに境界などなかった。
知の分断は、ある朝、静かに始まった。
誰もその瞬間を見ていなかったけれど、
気づいたときには、世界は「意味」と「事実」に引き裂かれていた。
自然科学は自然を分解する技術を磨き、
文学や哲学は人間の内面を掘り下げる役割を担った。
――人間こそがもっとも身近な自然であるというのに。
十九世紀に生まれた大学制度は、この分断を制度化した。
大学は知の工場になった。
科学は実験室で宇宙を分解し、
哲学は書斎で意味を問い、
芸術は孤独を磨きはじめた。
それぞれが進化した。だがその進化は、孤立の上に築かれていた。
知識人たちは社会を導くという矜持を抱きつつも、
知を裂いた代償に気づかなかった。
ダーウィンが『種の起源』を書いたころ、ディケンスやジョージ・エリオットは人間社会の「進化」を物語として描いていた。
にもかかわらず、学問の世界ではその連続性が忘れられていった。
「文系」と「理系」という語が生まれたのは、まさにこの時代の精神的断裂の象徴である。
C.P.スノウが『二つの文化』で述べたように、科学者は文学者の語彙を失い、文学者は科学者の思考を恐れた。
世界は二つの言語を持つようになったが、その翻訳者はほとんど現れなかった。
日本でも、いくつかの孤独な翻訳者がいた。
養老孟司は『バカの壁』で、知の断絶を最も平易な言葉で指摘した。
「人は、自分の理解の外にある世界を、最初から存在しないものとして扱ってしまう」――その壁を壊すのが教育であり、知の交流であり、他者への想像力だ。
荒俣宏は『理科系の文学史』で、科学と幻想文学、ウイルスと言語を同一線上に置いた。
かれにとって、SFは科学の双子であり、想像力のもう一つの実験室だった。
福岡伸一は、生命機械論を否定し、むしろ「動的平衡」として語る。
細胞の分解と再生のあいだにあるゆらぎを、美しい日本語で描くその筆致は、生命科学を詩にまで高めた。
三人の系譜は、分断された知をもう一度つなごうとする、
日本的な知の冒険である。
そして二十一世紀。
AIの登場によって、この断裂は新しい形を取ってふたたび現れた。
AIは数式のなかで詩をつくり、コードのなかで意味を夢見る。
それは科学でもあり、芸術でもある。だが同時に、私たちに突きつける問いでもある。
――人間とは何か。
――思考とは誰のものか。
――創造とはどこから来て、どこへ行くのか。
AIは、分断の果てに生まれた「統合の影」である。
それは、私たちが自ら切り離した理性と感性の再会の場なのかもしれない。
AIが見ているのは、人間がもう一度〈知の全体〉を取り戻せるかどうかという、最後の実験なのだ。
私たちはいま、DNAの解読を経て、
AIの創造へと踏み出した時代に生きている。
分子生物学の言葉は情報の言語と結びつき、
生命の構造はアルゴリズムとして理解されるようになった。
だが、その加速は皮肉にも、私たちから「意味」を奪いかねない。
生命も意識も感情も、ただのデータ構造として扱われる世界において――
物語を再び取り戻すこと、それが人間であることの最後の砦なのだ。
ダーウィンをディケンスやオースティンの同時代人として読むこと。
本居宣長や三島由紀夫を「純粋への遡行」という進化論の
逆立ちとして読むこと。
そしてSFを、科学の双子として読むこと。
そこから立ち上がるのは、分断を超えて、
ふたたび世界を語り直す知の形式である。
AIが学問の枠を曖昧にしつつあるこの時代に、
問われているのはもはや「文系か理系か」ではない。
「どのように語り、どのように感じるか」――
その新しい人間のあり方なのだ。
かつて〈啓蒙〉が理性を解き放ったように、
これからの時代は〈統合〉が感性を解き放つだろう。
科学と文学、詩と数式、データと想像力をもう一度抱き合わせ、
AI時代にふさわしい〈知のかたち〉を描き直すために。
その始まりに、物語がある。
物語とは、知をひとつにするための最初の言語なのだから。
次章は『第一部‐2:科学者たちはいかにして詩人になったか――養老孟司・荒俣宏・福岡伸一から、オリヴァー・サックス、カール・セーガン、ルイス・トマス、そしてカルロ・ロヴェッリへ』
