【jazz】作曲と演奏のあいだで——石田幹雄さんにおける、両者の有機的むすびつき
2025年6月29日。東京・渋谷・公園通りクラシックスにて、石田幹雄さんのピアノ・ソロ・ライヴを聴いた。
石田幹雄さんは、作曲家であり、ピアニストである。自作はもちろん、他者の楽曲も演奏する。好きな作曲家は明快だ。ビリー・ストレイホーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィ。
では、石田さんの作曲がかれらの曲に似ているかといえば、そうではない。
理知に統御されたゆたかなリリシズムが、石田さんの音楽には息づいている。たとえばそれは、構造をもちつつ、(この言い方は甘いかもしれないけれど、言わば)優しさのかたちをしている。
この夜の演奏は、ぼくに四つのベクトルを浮かびあげた。
第一に、第一部の冒頭で演奏された長大なフリー・ジャズ作品。
それはぼくの耳にセシル・テイラーの残響を感じさせ、さらには1950年代ヨーロッパ前衛音楽──青年だった頃のブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキス──にも通じる印象を与える。しかし、実際には石田さんはあっさりそれらを素通りして、ご自身の音楽を作り上げてこられた。ぼくの耳に似て聴こえるのは偶然であり、結果論でしかない。ただひとつ確かなことは、それがまぎれもなく「石田幹雄の音楽世界」であるということ。
第二に、セロニアス・モンク『クレプスキュール・フォア・ネリー』の驚異的な脱構築
華奢で痩せた石田さんが、突如として演奏の巨人へと化す。力強く、ダイナミックで、狂気と明晰がせめぎあい、モンクの楽曲が、石田幹雄の生きた創造言語へと変容する。
第三に、第二部で披露された自作『輝彩』ほか、石田作品の数々
石田さんはすでに、おそらく七つほどの(?)「音楽のかたち」──アルゴリズム──を手にしているように見える。そのアルゴリズムを、演奏のたびにくり返し試し、拡張しようと試みる。作曲が理論に属するいとなみだとすれば、他方、演奏はその理論に心を通わせ、生きた血をまぐらせる行為なのだ。
第四に、アンコールで演奏された Pixinguinha & Benedito Lacerda 作 “Vou Vivendo
丸みを帯びた、どこかアルフレッド・コルトーを思わせる音色。ひとつひとつの音に、懐かしい物語が宿る。情緒に満ち、それでいて表現のスケールはとてつもなく大きい。痩せっぽちで華奢な体の「小さなピアノの詩人」石田さんは、リスナーの感情を大きく揺り動かす。
作曲と演奏のあいだで
このごろ、ぼくはおもう。作曲とはアルゴリズムの創造である。
けれども、演奏はけっしてアルゴリズムを再現するだけの行為ではなく、
アルゴリズムに喜怒哀楽が注がれ、呼吸をはじめる。
しかも、演奏はアルゴリズムそのものに微細な変化をもたらす。
それはまるで、コードと人の恋愛のようなものだ。
石田さんの楽譜は、しばしば驚くほど簡素だ。五線譜にメロディが記され、上に簡略なコードネーム。まるでフォーク・ソングの譜面のようにも見える。だがそこから生まれる音楽は、精妙で複雑で、ときに破壊的で、ときに優しく、美の定義を更新しつづける。
石田さんが他人の曲を演奏する行為も、たんなる再演ではない。むしろ過去のジャズのハッキング、あるいはジャズ史の創造的書き換えなのだ。演奏とは、知的であると同時に、身体的な創造であるということ──そんな当たり前のようでいて見失われがちな真理を、石田幹雄さんは、いまの時代にあって示してくれる。
音楽は、演奏されるときはじめて、生きはじめる、
まるで魔法のように。
