作曲とはアルゴリズムの発案である。

モーツァルトは生涯たくさんの曲を書いた。
ただし、あれはひとつのアルゴリズムによる
無数のヴァリエーションではないか。
無邪気でプレイフルでチャーミングな、
アルゴリズムではあったけれど。

他方、ベートーヴェンは作曲するごとに、
これまでの自作とは違う試みを導入したい、
という意志があったようにおもえる。
でなければ、第9のような、
奇抜な構成の交響曲は生まれない。
(余談ながら、あの曲は、
かれがいったん期待し、しかし裏切られた、
あのナポレオンの死がかれを、
どれほど狂喜乱舞させたかがよくわかる。
しかし、この話はここではどうでもいい。)

20世紀前半、アカデミズムの作曲家たちは
12音作曲技法という共通のアルゴリズムのもとで、
山ほど作例をこしらえた。

しかし、その後かれらは、
作曲は1曲ごとに異なったアルゴリズムを創造すべきだ、
という暗黙のルールを選んだ。
1950年代の現代音楽である。
かれらは音楽概念をあらゆる方向に拡張すべく、
実験を重ねた。
それはリスナーに問うた、
きみはどこまでこの実験について来れるか?

しかし、このような実験について来れるリスナーが多いはずがない。
こうして音楽史は、線状的展開の時代を終えて、
複雑性の時代に突入した。

複雑性の時代において、
音楽はもはや「共有された言語」ではなくなった。
それは専門家たち~マニアたちのあいだでのみ通用する、
人工言語のようなものになってしまった。


だがそれは、けっして音楽が死んだことを意味しない。
むしろ音楽は、地下へ、辺境へ、デジタルの森へ、
あるいはあえて生演奏にこだわる演奏家たちをも含め、
音楽はさまざまに姿を変え、
無数のアルゴリズムたちがうごめく、
新しい生態系を生んだ。


アルゴリズムがアルゴリズムを生む。
ジャンルの境界は溶け、コード進行は再構成され、
サウンドとノイズの境界線すら溶け、
かつて「作曲」と呼ばれた行為は、
いまや「プログラミング」と呼ばれる行為に等しくなった。


ここで問われるのは、
「何を表現するか」ではなく、
「どのような仕組みで、
どこまでリスナーの心身に届くものを設計できるか」である。


かつてベートーヴェンが、
音を通して人間の情熱と理性を掘り下げたように、
現代の作曲家は、
アルゴリズムを通して世界の構造そのものにアクセスしようとする。
いま音楽は、〈聴かれるもの〉から、
〈感じとられる構造〉へと変貌している。


以上のようなことをぼくは、
2025年6月29日、
石田幹雄さんのピアノ・ソロ、
@東京・渋谷・公園通りクラシックス
で考えるようになった。
筆舌に尽くしがたいすばらしいライヴだった。
くわしくは、あらためて語ってみたい、
作曲/演奏の有機的なむすびつきを主題に。



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