環境が変われば創造力も変化する。映画製作機材の変化を例にして。そして情報は受容された後で、天使にも悪魔にも育ってゆくことについて。
まず最初に、機材環境およびテクノロジーが
作り手の想像力を変えるという話から
はじめましょう。
ここ15年くらいで映画表現は大きく変わった。
たとえば恋人たちは愛の絶頂で夜空に舞い上がりダンスする。
登場人物が絶叫するとき髪の毛が逆毛出つ。
世界各国の絶景がいともたやすく現れる。
化け物やゾンビの描写がやたらとリアルになった。
エキストラの仕事も(インド映画以外では)激減した。
アニメーターの仕事の大半もCGに置き換えられた。
しかし、もっとも大きな変化は、
かつてのように1秒間24コマというシステムが、
デジタルになることで蒸発してしまったことではないかしらん。
いまにしておもえば坂本龍一さんは、
映画がフィルムだった時代の、最後の偉大なる映画音楽作曲家だった。
おそらく坂本さんは1コマ(film frame)づつの連続をご覧になりながら、
音楽設計を組み立てたに違いない。
坂本さんの目には、
目の前の複数枚連なるコマが、それこそ音楽における小節単位として、
視えただろう。
もっとも、ぼくはデヴィッド・リンチの音響や音楽の使い方にも
ぞわぞわ想像力をかきたてられて大好きではあるものの、
ただし、リンチの映像と音楽の関係には、
坂本さんほどのそれこそ秒単位の緊密な関係はない。
したがって、この話題は製作者の個性次第ではあるにせよ。
次に、デジタルになってから映画は、
シーンの長さに対する感覚がだらしなくなったように感じる。
それもまたコマと時間の関係が消滅したからだろう。
すなわち、機材環境が変われば、
作家が描く世界もまた変わってしまうのだ。
もちろんこれは映画だけの話ではない。
音楽は言うに及ばず、
CADが登場してから、
建築デザインは大きく変わった。
自動車のデザインも同様である。
文章もまたワープロ~パソコン~ChatGPTの登場のなかで、
大きく変わった。
論文的文章の精度があがり、
他方、総じてエッセイがつまらなくなった。
橋本治さんは初期にこそワープロを使ったものの、
しかしある時期、ワープロで書くと文章が攻撃的になりがちだから、
手書きに戻すことにした、とおっしゃっていた。
なるほど『源氏物語』の現代的変奏曲を書くにあたって、
ワープロは似合わない。
ときどきぼくは橋本さんの言葉をおもいだす、
なぜなら、ぼくはパソコンを使って文章を書いているなかで、
ともすればノッてきて、ライティング・ハイになって、
わはは、わはは、わはははは、
と夜中にひとりで笑いながら、おのずと文章は暴走してゆく。
たしかにそこにはともすれば攻撃性が燃え上がっている。
環境が変化すると表現が変わってしまう。
なお、環境とは機材、居住環境、人間関係だけの話ではない。
自分の年齢や身体もまた環境なのだ。
環境が変化すると表現が変わってしまう。
なんとなれば、わたし(the Self)とは、
なんて頼りなく優柔不断な存在かしらん。
いいえ、ぼくは自分がそういう人間であることは承知しているけれど、
とはいえここにはいくらか考えるべき問いがありそうだ。
自分に飽きたら引っ越しでもしようかしらん?
少しは運動もしなくちゃな。
いいえ、必ずしもそういう話だけではなく、
むしろ情報が受容された後に
情報がどう変容し、どんな影響をもたらすかこそが興味深い。
読んだ本、観た映画、恋人とのおしゃべり、
したしい仲間との雑談や、
たまたますれ違った人たちとの立ち話、
それらがいつのまにかあなたの脳内で、
べつのなにかと結びついたり、
イメージが育っていったりもするもの。
情報は想像力の触媒である。
受容された後どんな結果がもたらされるか、
あらかじめわかるものではない。
すなわち、誰かの脳内でいつのまにかぼくは、あなたは、
天使になっていたり悪魔になっていたりする可能性がある。
なぜなら、認知戦~情報戦はけっして
ロシア‐ウクライナ戦争に限った話ではなく。
平和な日々のオン・ライン世界もまた日夜
認知戦~情報戦の渦中なのだ。
