翻訳論:スラヴォイ・ジジェクは叫ぶ、「おれを読み間違えろ、ただし、精読を経てから。」
1|翻訳=裏切りとしての歴史と倫理
明治以降、日本は世界に冠たる翻訳大国でそれは誇るべきことで日本文化をゆたかにしてきた。しかしその反面、翻訳とは、ほんらい思想と言語のあいだで誠実に橋を架ける行為であるはずなのに、しかし日本語の思想翻訳はときとして「通訳」以下のものに堕してしまう。それどころか翻訳者が著者を裏切って、訳書を捻じ曲げてしまうことさえある。たとえばアダム・スミスの"An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations"でありる。すなわちスミスはあの本で、国富の本質と原因を問いかけ、読者とともに探求を呼びかけているのだ。しかし、これを『国富論』と訳してしまうことによって、スミスの問いかけはご宣託になってしまう。同様に、ドラッカーの「イノベーションと企業家精神」もまた、原著では自立した個人がいかにして創造的集団を形成しうるかを主題にしているのに対して、しかし翻訳者の裏切りによって、和を貴ぶ企業社会におけるサラリーマンの自己啓発書に変貌してしまった。すなわち、なんとドラッカーは、あろうことか、日本の組織論と官僚主義に都合よく「咀嚼」されてしまったのだ。
そしていまジジェクもまさに翻訳の生贄にされた。
2|ジジェクという〈試み〉――思想の言語実験
ヘーゲルとマルクスをラカンで脱構築し、さらにポップ・カルチャーと横断させて語る稀代の哲人、スロヴェニアの碩学スラヴォイ・ジジェク。その最新作が『「進歩」を疑うーーなえ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』なる訳題をまとって、NHK出版新書として刊行された。訳者は早川健治氏。
日本では依然としてラカン理解のハードルは高い。フランス語の難解さに加え、既存の日本語訳がしばしば支離滅裂であることがその一因だろう。ラカン思想の手がかりは、ようやく佐々木中の『野戦と永遠』によって立ち現れたばかりである。そうした土壌にあって、ジジェクの毒舌ユーモアや理論的ラディカリズムが正しく伝わることは難しい。
だからこそ、本書の翻訳出版には、それなりの意義がある。ジジェクはここでも絶好調である。〈未来がないとき、その先にはなにがあるのか〉という問いを掲げ、直線的な歴史観と〈進歩信仰〉の神話を粉砕する。進歩の裏にはつねに犠牲者がいる――まさに現在、AIによって生み出されつつある大量失業の現実がそれを物語っている。
斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」にも言及される。ジジェクは、斎藤のスロウダウン的ヴィジョンを映画『PERFECT DAYS』になぞらえて紹介しながら、特有の皮肉とユーモアでその思想を茶化す場面も(もちろん、愛ある批判として)。読者は苦笑しつつも、その批評的射程の深さに唸らされるだろう。ぼくは1990年以降の日本を新しい江戸時代と見ているものの、それでも同様である。
ジジェクの問いは鋭い。終末は必ずやってくる。その時、私たちは何を選び、何を手放すのか――進歩の彼方にある「終わり」を、いま見つめ直す時が来ている。
訳書は全12章構成。訳者解説によれば、他書との重複を避けるために原著から1章が割愛され、また章タイトルも日本語読者にとって理解しやすくなるように意訳されているという。だが、訳書にはなぜか原著表記がない。ぼくは新宿高島屋の紀伊國屋書店・洋書部まで足を運び、ようやく原題が ”Against Progress ”であることを突き止めた。
3|編集の暴力性――NHK出版新書版を読む
原著と訳書を突き合わせてみたところ、ぼくは考え込んでしまった。本書の翻訳は、本文訳こそ誠実に心を込めてなされているものの、しかし章タイトルは過激に翻案され、しかもなぜか一章が丸ごと割愛されているのだ。
たとえば原著の第1章 “Progress and Its Vicissitudes” は『進歩、この波乱に満ちた概念』に、第2章 “Against Progress” は『「脱成長コミュニズム」は進歩か?』に、第3章 “Acceleration” は『加速主義の基本的な弱点』に訳されている。第4章の “Holographic History” を『ホログラフィックな歴史』とするのは妥当だとしても、第5章 “Absolute Invariant” を『人間は相対性の渦中にある』とするのは大胆すぎるだろう。第6章 “Worsting” は『もっと悪いものにする』と訳されているが、第7章 “Concrete Analysis of a Concrete Situation” を『真の変革のための実践主義』と訳してしまうのは、やはり問題がある。
さらに重大なことは、第8章 “Civil War” (同名映画をアメリカの現状に結びつけて論じ、アドルノの言葉「絶望以外に救済の道はない」で結ばれる章)を経て、これに続く “Authority”の章が、訳書では丸ごとカットされている点である。この章では、現代において〈かつての意味での専門家〉はすでに存在しえないことが論じられ、その論証にあたってキルケゴールが召喚される、まさにジジェクらしい重要な一章である。
ぼくは本書の編集方針に疑問を持たざるをえない。これは翻訳者に帰せられる問題ではないだろう。訳書末尾の「訳者謝辞」には、「NHK出版新書編集部の田中遼氏には、本書の構想から校了までの道のりを真摯にリードしていただいた」とある。ぼくはそこに翻訳者・早川健治さんの切実な叫びを聞く――「わかってくれよ、おれだって、こんな本にしたかったわけじゃないんだよ!!!」
……いいえ、それはぼくの空耳だろうか?
たぶん空耳ではない。
しかもその後知り及んだことには、NHK出版新書は、2024年にジジェクの著書を『戦時から目覚めよ: 未来なき今、何をなすべきか』なる創造性に富んだ訳題とともに、富永晶子さんの翻訳で出版していた。訳者が違ってもアジビラ・スタイルは変わらない。ジジェクがこんなわかりやすいことを言うわけがない。この過剰編集は、ジジェクの日本語読者にとって不幸なことと言わざるを得ない。
4|「読み間違えろ、ただし深く読め」――誤訳の倫理へ
ジジェクに日本人は試されている。しかしそのことに日本人は気づけない。担当編集者は、ジジェクの本をアジビラまがいに「編集」して、よろこんでいる場合ではない。ジジェクは読者に問う、「あなたは本当に“思想する”つもりがあるのか?」なるほど、ジジェクの本は、フレンドリーで冗談たっぷりな語り口ながら、しかし、実は内容は難しい。ジジェクはある理念を呈示する → それを笑いながら解体する → それでも捨てきれない核を指さす → 「じゃあどうする?」と読者に問いかける。すなわちかれの著書の、したしみやすい見かけの奥に潜む難しさはかれの倫理であり、読者に自分で考えることを促す、大切な要素なのだ。したがって、ジジェクの本を読者にわかりやすくするために、バイアスをかけまくって「編集・翻訳」するなんてことはやってはいけないことなのだ。
そもそもジジェクの「冗談」は、もちろんただの笑いではない。ラカン的な言語のずれ、倒錯、間違いを逆手に取ることで、イデオロギーの中核を暴くための手段です。つまり笑いは、理論的仕掛けの一部であり、「政治的装置」なのに、それが単なるギャグやユーモアとして消費されるか、あるいは「変な人の変な話」として無視されてしまう。
しかも、それが「冗談とわかって訳す」ことができる訳者はきわめて少ない。下手にまじめに訳すと、冗談が冗談に見えず、逆にギャグだけ訳すと、ジジェクの〈真剣さ〉が失われる。ラカンの〈言語のラプス(失言)〉を理解していなければ、ジジェクの理論的ジョークは全滅だ。
たとえばかれの言い回し――
“We feel free because we lack the very language to articulate our unfreedom.”
これを「私たちが自由だと感じるのは、不自由を言語化する術を欠いているからだ」と訳すだけでは足りない。その倒錯を、「不自由であることすら感じられない自由の感覚」だと、読み手が構造として理解できるように導かなくては、翻訳の意味はない。
むしろ、ジジェクを「忠実に裏切る」訳が必要なのかもしれない。つまり、かれの思想を「日本語の中でラカン的に生まれ変わらせる」ような、第二の著作として再構築する覚悟が必要――それが佐々木中が『野戦と永遠』で試みたことであり、柄谷行人が清水幾太郎の言語を脱臼させながら行ったことでもある。
いま日本に必要なのは、「忠実な翻訳」ではなく、「危険な誤読」なのかもしれない。ジジェクを誤訳せよ。もしも、その誤訳に理論的誠実さと歴史的覚悟があるならば。
ジジェクが本当に言っているのは、「読み間違えろ、ただし深く読め」ということなのだから。
5|柄谷行人とジジェク――終末的思考の二重奏
さて、ここで一つの比較が浮かび上がる。スラヴォイ・ジジェクは、ある意味で「柄谷行人のポップ・ヴァージョン」である。
両者に共通するのは、哲学・政治・経済を横断する壮大な理論的野心である。ヘーゲル、マルクス、カント、ラカン――近代思想の核に位置する重量級の素材を、まったく異なる手法で再構成しようとする意志。
柄谷行人は、共同体の可能性をめぐって「交換様式」という独自の理論を打ち立て、マルクスを超えつつ、なおマルクスに忠実であろうとする。ジジェクはラカン的主体論を武器に、「マルクスを裏返すことでマルクスに忠実であろうとする」。柄谷が沈黙と抽象へ、ジジェクが饒舌と引用へ――方法論はまったく逆でありながら、両者とも〈理論は世界を変えるためにある〉という倫理的態度を崩さない。
決定的な違いがあるとすれば、普遍性へのアプローチである。柄谷は「日本という場所の特殊性」から〈外部〉を構想し、「世界共和国」という倫理的普遍へと向かう。ジジェクは、むしろ「ヨーロッパという病」の内側から、その〈内部〉の裂け目を通してしか普遍には到達できないと考える。
そしてもう一つ、笑いである。柄谷行人が『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の読者だったというどうでもいい知識をぼくは持っているが、それでも柄谷は基本的に笑わない。いつでも一貫してマジなのだ。他方、ジジェクは笑いを武器とする。というより、彼の理論運動そのものが「道化による反転」であり、「笑い」がその加速装置となっている。このユーモアの政治性こそが、ジジェクの最大の武器であり、同時に最大の誤読の源でもある。
ジジェクは、哲学とポップ・カルチャーのあいだにある壁を笑いで破壊する。マトリックス、スターバックス、ディズニー、スラッシャー映画――世界を覆うイデオロギーを解体するために、かれはそれらを過剰に引用し、真似し、暴露し、裏返してみせる。
もし柄谷行人が「沈黙するマルクス」だとすれば、ジジェクは「爆笑するラカン派マルクス」である。両者とも世界の終わりを予感しながら、そこから〈新しい意味の政治〉を立ち上げようとしている。ただし、柄谷が祈りに近づくとき、ジジェクは毒舌を重ねる。そして、どちらも、けっして諦めてはいない。
ジジェクの声は、いまや〈終末の時代の理論の声〉である。それは、失われた未来に向かって、それでも語り続ける者の声なのだ。
わが友、ジジェクを読もうじゃないか。翻訳と原著を突き合わせ、語りのねじれを読み、冗談の奥に潜む真剣さを見抜く。それは面倒で骨の折れる営みだけれど、しかしそれをくぐった言葉だけが、ぼくらの現実に働きかける力を持つ。ジジェクには漢方薬のような効用がある。しかも、ジジェクを読んでいると、絶望的な現実を笑いとともに耐えることができるようになる。そして安直な答えに手を伸ばすことを恥じるようになり、宙ぶらりんの状態のなかに希望を見ることができるようになる。つまりジジェクは、その宙ぶらりんな知の形で、私たちを〈まだ終わっていない者たち〉として立ち上がらせるのだ。
おそらくジジェクは言っている。
おれを読み間違えろ。ただし、深く読め。
