AI時代のダーウィン 第二部 生命の暗号を読む:DNA/RNA革命 第1章 二重螺旋を夢見た若者たちーー分子生物学の誕生
ダーウィンが他界して70年が経ち、生物学の広大な風景は、劇的な大変革の夜明け前を迎えていた。それは、古典的な博物学から、生命の根源を分子のレヴェルで解き明かす、分子生物学という新たな学問領域が誕生する瞬間だった。
ケンブリッジ――中世以来の歴史を刻むこの大学街は、かつてチャールズ・ダーウィンが、神学的自然科学という当時の主要な知の枠組みを学んだ場所である。
ケンブリッジの霧と「形」への渇望
冬の光が、中庭の芝生から研究棟の廊下に斜めに差し込む。その冷たい光の下、キャベンディッシュ研究所の古びた石壁の内部は、チョークの粉と、湿ったツイードのコートの匂いが混じり合い、特有の静けさに包まれていた。
ジェームズ・ワトソンは、その静寂を破るように、いつものように早足で階段を駆け上がった。背は高く、驚くほど痩せぎすで、手入れを怠ったぼさぼさの髪。かれは、口を開くと堰を切ったように一気にまくしたて、しばしば相手の言葉を途中で遮る癖があった。そのせっかちなアメリカ訛りの声が、古びた石の壁に響くたびに、伝統を重んじる老教授たちは、不快げに顔をしかめた。
だが、ワトソンには、そのような周囲の反応に気づく余裕など微塵もなかった。彼の脳内には、つねに「形(シェイプ)」があった。それは、見えない分子の立体構造であり、かれは、自分だけがそれを“視る”ことができるという盲目的な確信を持っていた。
すでに1940年代のアベリーの実験などにより、デオキシリボ核酸(DNA)こそが遺伝情報の担い手であることは確実視されていた。しかし、その「形」――すなわち、DNAの立体構造こそが、どのように遺伝情報が格納され、複製されるかを説明する鍵であったにもかかわらず、その構造は謎のままでした。この「形」を見つけ出すことが、当時の生物学者たちの聖杯となっていたのだ。
天才たちの共鳴:競争と感染
「君、また遅刻だぞ、ジム」
声をかけたのはフランシス・クリックだった。かれはワトソンより12歳年上で、四十を過ぎ、頭頂が薄くなりはじめていたが、その声には若々しい弾みと、知的好奇心からくる活力があった。クリックのユーモアは時に辛辣だったが、同時にかれは学問を遊びに変える天才でもあった。物理学の訓練を受けたかれのバックグラウンドは、生命現象をより厳密に、数理的に捉えることを可能にしていた。
「ワトソン、おれたちのモデルはまだ詩的すぎる。もう少し、神に近づこうじゃないか。生命の論理は、もっと優雅なはずだ。」
そう言って笑うと、クリックは机の上の紙切れに、製図工が使う2Bの鉛筆でラフに描いた螺旋を指差した。
それは、数式でも図面でもなく、ほとんど祈りに近い線だった。
――なお、いまこの論考を進めつつある「私」には、それを「優雅」と見なすことに深いためらいがある。だが、同時に、「いかにもサイエンティストらしいかれらの優雅」を否定することもまたできない。
いずれにせよ、二人のあいだに流れていたのは、単なる知的な競争ではなかった。それは、思考が思考に感染する瞬間、熱と知が同時に燃え上がる――そう、感染(インフェクション)だった。一方が発するアイディアの断片が、他方をまるで高熱にうなされるように駆り立てる。彼らの研究室は、発見のための礼拝堂であり、同時に、自由な夢想の遊技場でもあった。かれらは、既成概念にとらわれることなく、ボール紙やワイヤーを使って分子模型を組み立て、ひたすら試行錯誤を繰り返していた。
ロンドンの冷徹な眼差し:X線回折の精度
他方、そのころロンドンのキングズ・カレッジでは、かれらのライバルであるロザリンド・フランクリンが、静謐な集中力をもって研究に没頭していた。彼女は整った黒髪のショートヘアで、常に清潔な白衣の襟を正し、X線回折によるDNA結晶の解析を行っていた。フランクリンの眉は、暗室で撮影された一枚のX線写真(フォト51)を前に、鋭くひそめられていた。
彼女の目は、他の誰よりも正確だった。X線回折とは、結晶にX線を当て、回折したパターンから物質の原子配列(構造)を数学的に推定する技術であり、彼女はその技術の世界的権威でした。彼女のデータは、DNAが螺旋構造を持つこと、そしてその寸法について、疑いのない、冷徹な数字を突きつけていた。
しかし、当時の男性優位の学術界において、その正確さはしばしば「女性的頑固さ」として、正当に評価されなかった。
「彼女は神秘を語らない、語るのは数字だけだ。」ワトソンは仲間内でそう噂し、彼女の慎重な姿勢を非難した。クリックは相槌を打った、「ユダヤ人の銀行家のお嬢さんだものな。」だが、かれらが軽んじた、そのフランクリンの冷徹な数字と精密なX線パターンこそが、後にかれらが二重螺旋という「神の書」を読み解く、揺るぎない鍵となるのだった。
生命の記憶と暗号解読
夜、ケンブリッジの冷たい空気が研究室に忍び込む。クリックが煙草をふかしながら、テーブルの模型に視線を固定して呟いた、「生命とは、記憶を運ぶ分子のことさ。それがどう複製されるか、どうタンパク質を作るかがすべてだ。」
その言葉に、ワトソンは思わず笑った、「じゃあおれたちは記憶の地図を盗む神泥棒だな。神の最も大切な暗号を解読しようってんだから。」
かれらが解読しようとしていた暗号――DNAの二重螺旋構造の発見は、単に一つの分子の形を知ること以上の意味があった。それは、
遺伝情報の貯蔵方法:二本の鎖が互いに巻き付く螺旋構造(二重螺旋)であり、塩基(アデニン A、チミン T、グアニン G、シトシン C)が内側で対になって結合する(塩基対)。
自己複製(遺伝)の仕組み:二本の鎖が離れ、それぞれを鋳型(テンプレート)にして新しい鎖を作り出すことで、遺伝情報が正確に受け継がれる。
情報の発現(遺伝子の働き):DNAの塩基配列が、後にメッセンジャーRNA(mRNA)に転写され、その情報がタンパク質へと翻訳される(セントラルドグマ)。
すなわち、生命は暗号であり、その暗号は自己複製する。この発見は、ダーウィンが夢見た「生命の樹」に、分子という根を与えたのだ。
外では雪が降り始めていた。ケンブリッジの石畳を白く覆いながら、その雪は音もなく静かに降り積もっていた。それはまるで、ダーウィンの亡霊が、未だ解き明かされぬ世界の奥底に投げかけた、重く、深遠な、
沈黙のようだった。
