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どうやらAIは創造に向いていないようだ?

さいきん受難のイーロン・マスク氏が、かれご自慢のX の AI ボット Grok が AI アートの生成に、しらっとした顔をしてひそかにチェロ奏者で写真家のCharles Brooks氏の写真を使用して作成していたことがバレて、笑いものになっています。やっぱりね、とぼくはおもった。AIが人間の知性を越える日、シンギュラリティが迫っている、どうする人間!?? なんて叫びがかまびすしい。たしかにこの危機感が妥当である領域はおもいのほか広そうだ。しかし、とはいえ、さすがのAIとて得意分野と不得意分野があるものだ。あるいは、この一件だけで論を展開するのはいくらか無謀かもしれないけれど、しかしいけるところまでいってみましょう。どうやらAIは創造に向いていないようだ?


なぜならAIがいくら賢いと言っても、オン・ラインに出回っている情報のなかでしか考えることができない。ところがオン・ラインに乗っていない情報は膨大にある。同様に、画像にしてもたとえばゴッホの油絵は、まるで画家がいましがたまで描いていたかのような絵の具の盛りとペインティング・ナイフの跡がなまなましく、ほとんど半立体と呼びたくなるほど。しかしAIはそんなことなど知ったことではありません。いいえ、盛りを測定するアルゴリズムさえ作れば即座に解決するだろうにしても。しかし、AIは創造することが得意ではない。たとえば1980年代音楽シーンがヴィデオ・クリップに席巻されたときぼくはおもったものだ、これは映画史アーカイヴの二次利用ではないか。消費的創造。過去の遺産を喰い潰しながら、新作映像が次から次へと現れる。AIはこういう流れを加速することでしょう。


あるいは二元論への落とし込みが激しい、もっと多角的な考察が必要だ、と非難されるかもしれないけれど、しかし、イメージの原型を作り出す創造行為はあるひとりの(ともすればイカれた?)人間がおこなってこそ、人の心を揺り動かせるものではないかしらん。他方、AIは優秀な公務員のようなもの。どれだけ優秀な公務員が情熱を傾けたところで、ボッシュや、レオナルド、ピカソ、マティス、はたまたギーガー、あるいはチャップリンやキートン、ホドロフスキーやジョン・ウォーターズになどなれるわけがない。宮崎駿タッチのイラストが山のようにでまわったところで仕方がないではないか。もっとも、まず最初に人間がAIに出す指示に創造性が乏しいという事情もまたありそうではあるにせよ。


話は余談に逸れてしまうけれど、Protoolsがポップ・ミュージックのレコーディングに必須になってからというもの、(悪いけれどぼくには)ポップ・ミュージックががぜんつまらなくなった。いまや録音上で音程の悪い歌手はいなくなった。それどころかギターの3弦の音程の狂いさえ直してしまえるのだ。リズム隊が走ったりもたったりすることもなくなった。こんな音楽がおもしろいわけがない。デジタルは及ばざるが如しである。いいえ、たとえば Timbaland に才能があることはあきらかだけれど、しかし、ぼくはそっちを選びはしない。ぼくは急速にジャズの生演奏に惹かれるようになっていった。アケタの店、万歳!


本題に戻りましょう。そもそも創造行為はコスパもタイパも悪いもの。効率性&利便性の論理に乗るものではありません。もっとも、だからと言って、必ずしも人間の方がAIより偉いともおもえないけれど、けっきょくおたがい向いていることをやればいい、おたがいの共労にこそ未来があるということではないかしらん。



なお、この文章を書き上げた後AIにかけてみたところ、いつものようにAIは公平に要約と批評をしてくれた。AIは「この文章の魅力は詩的なリズムと批評性のバランスにあります。また、極端な拒否や恐怖ではなく、違いの自覚と共存へと着地する態度は、現代において非常に理性的です。」とぼくを励ましてもくれた。しかし他方、「やや感覚主義に寄りすぎ?」、「創造性とは何か、その定義が曖昧」との批評もあって、総じてどこか不機嫌そうだった。ごめん、AI、いつもぼくのお世話をしてくれて、ありがとう!



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