『千年の泥濘(でいねい)』 ④
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第四章:深淵の解読
あてがわれた古い民家の内部は、外見以上に荒廃していた。
畳は湿気を吸ってぶよぶよと波打ち、歩くたびに足の裏へ不快な冷たさが伝わってくる。部屋の中央に置かれた古い囲炉裏には灰だけが冷たく積もっており、天井の隅からは、雨水とも、何か別の粘り気のある液体ともつかない滴が、規則正しい音を立てて畳にシミを作っていた。
例の初老の男が置いていった和蝋燭の炎が、不安定に揺れながら、部屋の壁に四人の歪んだ影を長く引き延ばしている。
「おい、長谷川はどこへ行った」
夜も更けた頃、それまで一心不乱に資料をめくっていた宗方が、ふと顔を上げて言った。
言われた藤原と阿部がハッとして辺りを見回す。部屋の隅で機材の整理をしていたはずの長谷川の姿が、いつの間にか消えていた。彼らが持ち込んだデジタル時計の表示は午前二時を回っている。
「……トイレ、でしょうか。お堂から戻ってきてから、ずっと顔色が悪かったので」
阿部が立ち上がり、廊下へと続く古い襖(ふすま)を開けた。
家の中は完全に静まり返っていた。外の激しい雨音だけが、遮るもののない暴力的な質量を持って家全体を揺らしている。あの土の腐臭は、夜が深まるにつれてさらに濃くなり、今や部屋の空気を物理的に重くしているかのように錯覚させた。
「長谷川さん?」
阿部が暗い廊下の奥に向かって声をかけたが、返事はない。
「僕、ちょっと見てきます」
阿部が懐中電灯を手に取って廊下へ出ていく。引き戸がガタガタと閉まる音が、妙に大きく響いた。
部屋に残された藤原は、デスクライト代わりに灯された蝋燭の傍らで、宗方の手元をじっと見つめていた。宗方のノートには、昼間にお堂の柱や古い和紙から複写した奇妙な符号の解読図が、びっしりと狂気的な密度で書き込まれていた。
「先生……やはり、おかしいです」
藤原は声を潜めて切り出した。
「長谷川の言っていた顔認識の件だけじゃない。さっき、窓の隙間から外を見たんです。雨の中、村の人間たちがまだ外にいます」
宗方はペンを動かす手を止めない。
「彼らは何も持たず、ただ、この家の周りに等間隔で立っているんです。松明を灯すわけでも、何かを叫ぶわけでもない。ただ、暗闇の中で雨に打たれながら、じっとこの家の方を向いている。まるで、私たちが中から出てこないかを見張っているかのように」
「だからどうした」
宗方の声は、低く、しかし奇妙に平坦だった。
「彼らが何をしようと、私たちがこの村の歴史を暴くことには関係ない。見ろ、藤原。ついにこの村の『本質』が見えてきたぞ」
宗方はノートを藤原の方へと突き出した。そこには、直訳されたいくつかの不穏な単語が並んでいた。
『千年の泥濘、足元の命、無言の契約』
「この村には、千年以上前から続く『土信仰』のようなものがある」宗方は濁った目で笑った。「彼らは、この土地の繁栄と無事を保つために、数年に一度、特定の『儀礼』を行ってきた。その記述が、この中世の記録に克明に残されている。周囲の村々が飢饉や疫病で全滅しかけた時も、この村だけが不自然なほど豊かな収穫を上げ、一切の災厄から免れてきた理由がここにある」
「その儀礼というのは……まさか、生贄(いけにえ)ですか」
藤原の背筋に、冷たい汗が伝わった。
「だとしたら、過去にここへ来た研究者たちが失踪したという話も……」
「そうだ。彼らはその儀式に巻き込まれた、あるいは利用されたのだろう」
宗方は当然のことを言うように頷いた。
「だが、それがどうした? 私たちがそのシステムを完全に解明し、論文として発表すれば、それは民俗学における今世紀最大の発見になる。恐怖に目を曇らせるな、藤原。歴史の真実を前にして、人間の倫理などという一過性の基準で測るな」
藤原は目の前の男に恐怖を覚えた。宗方はすでに、この村の持つ「異常性」に侵食されている。自分の命の危険すら、研究の成果という麻薬の前には認識できなくなっているのだ。
その時、廊下の奥から「あ、」という短い、掠れたような声が聞こえた。
悲鳴ではなかった。何かに躓いたか、あるいはごく自然に息を漏らしたかのような、あまりにも静かな音。
「阿部か?」
藤原が立ち上がり、襖を開けて廊下を懐中電灯で照らした。
光の輪の先には、誰もいなかった。廊下の突き当たりにある勝手口の扉が、外の風雨に煽られて、静かにギィギィと揺れているだけだった。阿部の持っていったはずの懐中電灯が、床の上に転がり、壁の一点だけを虚しく照らしていた。
「阿部! 長谷川!」
藤原が声を張り上げる。だが、返ってくるのは屋根を打つ雨音だけだ。
藤原は勝手口へと駆け寄り、床の懐中電灯を拾い上げて外を照らした。
雨のカーテンの向こう、黒い泥の地面が激しく波打っているのが見えた。昼間、彼らが乗ってきたワゴン車は、すでにボンネットの手前まで泥の中に沈み込んでおり、脱出することは物理的に不可能であることが一目で分かった。
そして、その車の周囲、そして民家を取り囲む暗闇の中に、無数の影が静かに佇んでいた。
村人たちだった。
彼らはやはり、誰も武器のようなものは持っていなかった。鍬も、鎌も、縄も持っていない。ただ、泥にまみれた衣服を着たまま、微動だにせず、藤原の方を見つめている。
懐中電灯の強い光を直接その顔に当てても、彼らは眩しそうな素振りすら見せなかった。誰も瞬きをせず、誰も口を開けない。ただ、事務的に「そこに在る」だけの存在として、藤原という物質を観察していた。
その沈黙の圧迫感に、藤原は息ができなくなるほどの悍(おぞ)ましさを感じた。
彼らは襲ってこない。ただ、逃げ場が完全になくなるその瞬間を、冷徹に、淡々と待っているのだ。まるで、網にかかった獲物が自ら暴れて疲弊していくのを眺める漁師のように。
「先生! もう駄目です、二人がやられました! すぐにここを出ないと!」
藤原は部屋に飛び戻り、宗方の腕を掴んだ。
しかし、宗方はその手を激しく振り払った。
「黙れ! 邪魔をするな! あと一息なんだ……あと数行で、この千年の大いなる記録の、最後のピースが埋まるんだ!」
宗方のペンは、もはやノートの罫線を無視し、紙面を黒いインクで塗りつぶすかのように猛烈な勢いで走り続けていた。彼の老眼鏡のレンズには、激しく揺れる蝋燭の炎と、部屋の外からじわじわと染み出してくる、あの黒い土の匂いが立ち込めていた。
外の雨音が、一段と高くなる。
それはまるで、地面の下に眠る数千の「何か」が、一斉に歓喜の声を上げているかのような、地響きを伴う轟音だった。
