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​『千年の泥濘(でいねい)』 ③

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第三章:無言の浸食

集落の最上部に佇む黒い平屋――そのお堂のような建物の前まで辿り着いたときには、雨はいっそう密度を増し、煙のような細かな水滴が辺り一面を白く覆い尽くしていた。
案内を乞うたわけではなかった。拒絶の言葉を投げかけられたわけでもない。
しかし、宗方たちがその建物の前に立った瞬間、いつの間にか彼らの背後、十数歩ほど離れた霧の境界に、一人の初老の男が立っていた。衣服は泥に汚れ、手には古びた真鍮製の大きな鍵の束をぶら下げている。
男は宗方たちの顔を一度も見なかった。ただ、近づいてくる足音すら立てず、すり抜けるように彼らの脇を通り過ぎると、お堂の重い木の扉に向き直った。
「あの、あなたがこのお堂の管理を?」
藤原が背後から問いかけたが、男の背中は微動だにしない。ただ錆びついた錠前に鍵を差し込み、ギチギチと嫌な金属音を立てて回すだけだった。言葉によるコミュニケーションを完全に拒否された空間のせいで、藤原の喉が乾いた音を立てて鳴る。
開け放たれた扉の奥から、外の雨気よりも遥かに濃厚な、あの生臭い腐臭がどっと吹き出してきた。
長谷川が思わず口元を袖で覆い、激しく咳き込む。
「……っ、先生、これ、何の匂いですか。まるで、何か大きな動物が何匹も腐っているような……」
「ただのカビと土の匂いだ。古い建物にはよくある」
宗方はそう言い捨てると、懐中電灯を点灯させ、躊躇なく暗がりの奥へと足を踏み入れた。
お堂の内部は、外見以上に異様だった。
中央には本尊にあたる仏像や神体などは一切なく、ただ黒ずんだ木製の太い四角柱が床から天井へと貫いているだけだった。その柱の表面には、数え切れないほどの文字、あるいは記号のようなものが、ノミで乱暴に刻み込まれている。壁際に並ぶ棚には、湿気で波打った古い和紙の束や、文字の潰れた石碑の断片が、乱雑に、しかし執拗なまでの量で積み上げられていた。
「素晴らしい……」
宗方は取り憑かれたようにその柱に駆け寄り、懐中電灯の光を至近距離で当てた。
「藤原、阿部、すぐに記録の準備だ。この柱に刻まれているのは、中世、いや古代の変体仮名と、見たこともない独自の符号だ。これほどまとまった未発見の金石文が残されているなど、学会はおろか、日本の歴史そのものがひっくり返るぞ」
しかし、指示を受けた助手たちの動きは鈍かった。
学術的な興奮に狂う宗方とは対照的に、彼らの五感は、この空間が発する「生理的な危険信号」を正確に捉えていた。
「先生……ちょっと、外を見てください」
お堂の入り口で三脚を立てようとしていた阿部が、震える声で言った。
開け放たれた扉の向こう、白く煙る雨の中に、人影が並んでいた。
一人や二人ではない。先ほど畑仕事や作業をしていたはずの村人たちが、いつの間にかお堂を取り囲むように、一定の間隔をあけて佇んでいる。
彼らは傘も差さず、激しくなる雨に身を濡らしながら、ただじっとこちらを見ていた。
やはり、目は合わない。全員の視線は、宗方たちの足元や、機材を持つ手元、あるいは呼吸で上下する胸のあたりに向けられている。誰一人として声を出さず、身じろぎもせず、ただ雨の中に突っ立っている。
その光景は、人間というよりも、畑に突き立てられた無数の不気味な案山子(かかし)のようだった。
「長谷川、ビデオを回せ。村人たちの配置、動きもすべて記録に収めるんだ」
宗方は柱から目を離さずに命じたが、長谷川はファインダーを覗いたまま、凍りついたように動けなくなっていた。
「……先生、変なんです」
長谷川の声は完全に震えていた。
「カメラの顔認識フォーカスが、さっきから一人も、村人の顔を捉えないんです。いつもなら、どれだけ遠くても四角い枠が出るのに……まるで、ただの背景の物体として認識されているみたいに……」
「電子機器の不調だろ。気にするな、手動で合わせろ」
「違います!」
長谷川はついに堪えきれず、カメラを下ろして叫んだ。
「おかしいですよ、この村! 排他的とかそういうレベルじゃないです。あの人たち、私たちが何をしてても、怒りもしないし不審がりもしない。ただ……ただ、そこに置かれた肉でも見るみたいに、じっと待ってるんです。さっきから、誰も一度も瞬き(まばたき)をしていないように見えるんです!」
お堂の中に、張り詰めた沈黙が落ちる。
外から聞こえるのは、トタンを激しく叩く雨音と、村人たちの濡れた衣服から滴る水の音だけだった。
阿部が自分の靴の裏を見つめながら、青ざめた顔で呟いた。
「……ここの土、変ですよ。粘り気が強すぎて、靴底から全然離れない。それに、この匂い、建物の外も中も全部、土から染み出してる。まるであの黒い土の下に、何かとんでもないものが詰まってて、それが腐りながらこの村を押し上げてるような……」
「静かにしろ!」
宗方は声を荒らげた。彼のプライドと焦燥が、助手たちの正当な恐怖を拒絶する。
「ここで引き返せば、私はすべてを失うんだ。お前たちのキャリアだって同じだぞ。この『空白』を解き明かせば、我々は歴史に名を残す。文句を言わずに手を動かせ!」
藤原は宗方の横顔を冷ややかに見つめていた。歴史の狂気にとらわれた師の姿は、この村の異常性と、ある種の同質性を帯び始めているように思えた。
「先生」藤原は極めて冷静な、しかし冷徹なトーンで言った。「一度、頭を冷やしましょう。今日の調査はここまでにして、一旦麓の町へ戻るべきです。この環境での作業は、助手たちの精神的にも限界です」
「戻る? この雨の中、あの悪路を引き返せると思うか。もう日暮れだぞ。車が泥に埋まればそれこそ終わりだ。今日はここに泊まる」
宗方の言葉を待っていたかのように、お堂の入り口に立っていた例の初老の男が、無言で一本の古びた木箱を床に置いた。中には、錆びついた真鍮の燭台と、数本の和蝋燭が入っていた。
男はそれだけを置くと、やはり何も言わずに、雨の中に立つ村人たちの群れの中へと戻っていった。
村人たちの群れが、ゆっくりと動き出す。
襲いかかってくる気配は微塵もなかった。彼らはただ、事務的に作業を終えたかのように、等間隔のまま、ある一つの古い民家の方へと歩き始めた。その動きの連携には、一切の無駄がなく、アイコンタクトすら交わされていないようだった。
「……あそこに泊まれ、ということですかね」阿部が力なく言った。
頼んでもいないのに、いつの間にか彼らのワゴン車から、すべての荷物と機材がその民家の軒先へと運び込まれていた。村人の誰がそれを運んだのか、誰も見ていなかった。
荷物は、大きさごとに不自然なほど整然と、まるで工場の検品作業のように完璧に分類されて並べられていた。彼らの持ち物を詮索した形跡は一切ない。ただ、「余所者の荷物」という物体として、冷淡に処理されているだけだった。
「ほら見ろ、彼らなりに宿を用意してくれたんだ」
宗方はそう言って荷物へと歩き出したが、藤原はその背後で、徹底的な閉塞感に胸を圧迫されていた。
彼らは歓迎されていない。しかし、逃げることも許されていない。
村人たちのあの「無関心」は、逃げ出すはずがない家畜を、ただ静かに放牧しているだけの態度だったのではないか。
暗転していく山奥の集落で、雨は激しさを増し、周囲の山々は完全な闇へと沈んでいく。
彼らを乗せてきたワゴン車のタイヤは、いつの間にか、異常に肥沃な黒い泥の中に、ハブの高さまで深く沈み込んでいた。誰も触れていないはずなのに、まるで地面そのものが、彼らを足元からじわじわと引きずり込んでいるかのように。

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