『千年の泥濘(でいねい)』 ②
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第二章:拒絶の村
ワゴン車のフロントガラスを、執拗な細雨が叩いていた。
ワイパーが不快なゴム音を立てて往復するたび、視界の先にある未舗装の山道が、白く濁った霧の向こうへと遮断されていく。
「先生、本当にこの先に道があるんですか」
ハンドルを握る助手の阿部が、バックミラー越しに後部座席の宗方を不安そうに見やった。阿部の横、助手席に座る筆頭助手の藤原は、タブレット端末に表示されたGPS画面を凝視したまま動かない。
「GPSの電波はさっきから切れたままです。地図上では、私たちはとうに道のない山林のただ中にいることになっています」
後部座席でカメラと録音機材を抱えた女性助手の長谷川も、心細そうに窓外の鬱蒼とした杉林を見つめていた。昼間だというのに、外は夜のように薄暗い。木々の隙間から見える斜面は、異常なほど濃い、黒色に近い土で覆われていた。
「構わん、進め」
宗方はノートに目を落としたまま、冷淡に言い放った。
「古い地形図と現在の等高線を照らし合わせれば、この谷筋の奥に平坦な集落跡のような空間が存在することは間違いない。道が途切れているのではない。歴史が隠されているだけだ」
それからさらに三十分ほど、車が激しく揺れる悪路を泥を跳ね上げながら進んだとき、不意に視界が開けた。
霧の合間から現れたのは、斜面にへばりつくようにして点在する、十数軒の古びた木造家屋だった。
トタンの屋根はどれも赤黒く錆びつき、壁の木材は湿気で腐食して炭のように黒ずんでいる。現代的な電柱は見当たらず、家々の間を細い未舗装の路地が網の目のように這っていた。周囲を険しい山々に囲まれたその集落は、まるで巨大なすり鉢の底に取り残された、過去の遺物のようだった。
「……人が、いますね」
藤原が呟いた。
路地の脇や、傾斜の急な段々畑の中に、いくつかの人影があった。皆、一様に泥に汚れた地味な作業着をまとい、黙々と手を動かしている。
阿部が広場のようになった泥の敷地に車を止め、エンジンを切った。
車内を唐突な静寂が支配する。雨音だけが、トタンの屋根を叩くように小さく響いていた。
「よし、降りよう。各自、機材を持て。まずは村の代表者、あるいは事情を知っていそうな年長者を探す」
宗方がドアを開けて外に出ると、山の冷気とともに、奇妙な臭いが鼻腔を突いた。
雨に濡れた土の臭いに混じる、微かな、しかし確実に存在する生臭さ。植物が腐ったような、あるいは動物の死骸が遠くで放置されているかのような、じっとりとした不快な臭気だった。
「何ですか、この環境……空気がひどく重い」
長谷川が顔をしかめながら車外に出る。
宗方を先頭に、一行は一番近い畑の脇に立つ老人のもとへと歩み寄った。老人は、腰を深く曲げ、鍬(くわ)を使って黙々と黒い土を耕していた。その手元を見ると、畑に植えられている大根のような作物が、異常なほど丸々と肥大し、不自然に波打つような形状に育っているのが見えた。
「失礼します」
宗方が声をかけた。老人の動かす鍬の手が、ピタッと止まった。
「私たちは東都大学の歴史研究室の者です。この地域の古い歴史や風習について調査をしておりまして、少しお話を伺いたいのですが」
老人はゆっくりと首を動かし、宗方の方を向いた。
だが、その目は宗方の顔を見ていなかった。正確には、宗方の胸元のあたり、あるいは彼の背後にある空間を虚ろに見つめているだけで、決して視線を合わせようとはしなかった。
老人の口は固く結ばれたままで、一言も発しない。ただ、値踏みをするような、あるいは目の前にある「物」の輪郭を確認するような、徹底的な無関心がその表情から透けて見えていた。
「あの、聞こえていますか?」
阿部が少し声を大きくして尋ねる。
老人はやはり何も答えず、ただ静かに視線を元の土へと戻した。そして、何事もなかったかのように、再び規則正しい動作で鍬を振り下ろし始めた。ザシュ、ザシュ、と湿った土が爆ぜる音だけが周囲に響く。
「……なんなんだ、一体」阿部が困惑して呟いた。
宗方たちは諦めて、集落の中心へと続く細い坂道を上り始めた。
すれ違う村人は数人いた。背負い籠を運ぶ中年女性、軒先で刃物を研いでいる老人。誰もが宗方たちの姿を視界に入れているはずだった。これほど閉鎖的な山奥の村に、機材を持った余所者の集団が突然現れたのだ。不審に思うか、あるいは声を荒らげて追い返すのが通常の「排他的な田舎」の反応だろう。
しかし、この村の人間たちは違った。
彼らは誰も、宗方たちを拒絶しなかった。声をかけると、動作を止め、こちらに顔を向ける。だが、誰一人として目を合わせようとはせず、言葉も返さなかった。
ある女性とすれ違ったとき、藤原が「こんにちは」と声をかけた。女性は足を止め、藤原の顎のあたりをじっと見つめ、数秒の沈黙の後、何事もなかったかのように再び歩き去った。
それは、無視というよりも、もっと冷徹な何かだった。
まるで、言葉の通じない家畜や、そこにあらかじめ置いてある石ころを眺めるかのような、絶対的なディスコミュニケーション。
「先生、おかしいです」
藤原が声を潜めて宗方に耳打ちした。
「彼ら、僕たちを警戒しているんじゃない。ただ……僕たちに『関心』がまったくないんです。名前を聞こうともしないし、何をしに来たのかも尋ねない。完全に存在を無視されているわけではないのに、人間として扱われていないような、変な居心地の悪さがあります」
「気にするな。言葉が通じないわけではない。古いコミュニティには、余所者に対する独自の距離感があるものだ」
宗方はそう言ったが、その背中にも微かな緊張が走っていた。
坂道を上るにつれ、一つの異常な現象に気づく。
彼らが歩を進め、家々の脇を通り過ぎるたび、それまで聞こえていた村人たちの微かな話し声や、作業の音が、ピタッと止まるのだ。
振り返ると、少し離れた場所から、さっきすれ違った村人たちが無言でこちらを見つめていた。
やはり目は合わない。彼らは宗方たちの「顔」ではなく、その「身体」を、事務的な作業の合間に確認するかのように、遠巻きにじっと見つめているだけだった。数人の村人が集まっても、互いにヒソヒソ話をするわけでもなく、ただ口数を極限まで減らしたまま、静かにそこに佇んでいる。
「息が、詰まりそう……」
長谷川が小さく息を漏らした。カメラを構える手がつなぎ目の部分で震えている。
村全体を包む、説明のつかない不気味な静寂と、まとわりつくような視線。
歓迎もされず、明確に拒絶もされない。
ただ、「そこにいること」を静かに容認されている。まるで、あらかじめ用意された檻の中に、自ら進んで入ってきた動物を眺めるかのように。
「先生、あそこを見てください」
阿部が指差した先、集落の最も高い場所に、一段と黒く古びた平屋の建物が見えた。周囲を囲む家々とは明らかに造りが異なり、窓は一切なく、入り口には太い注連縄(しめなわ)のようなものが飾られている。
「あれが、この村の祭祀の場……あるいは、記録の保管場所か」
宗方の目が、再び狂気的な歓喜に濡れた。村人たちの異常な態度など、彼の研究欲の前には些細な問題だった。
「行くぞ。あの建物に、私たちが求める『空白』の答えがある」
足元の黒い土が、歩くたびにグチャリと不気味な音を立てて靴底にへばりついてくる。その土の下に何が眠っているのか、この時の彼らはまだ、想像すらしていなかった。
