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​『千年の泥濘(でいねい)』

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あらすじ
日本各地の古文書を調べる歴史学者・宗方(むなかた)は、ある山間部の一角だけが歴史の記録から「不自然に丸ごと抹消されている」ことに気づく。学会の発表期限が迫る中、宗方は周囲の不穏な警告を無視し、数人の助手を連れて地図にないその村へと足を踏み入れた。

​迎えた村人たちは、決して彼らを拒絶しなかった。ただ、誰一人として彼らと目を合わせず、名前すら覚えようとしない。異様なほどに肥えた作物、土壌から漂う微かな腐臭、そして村人たちの機械的で淡々とした動き。助手たちが次々と違和感を訴える中、歴史の空白に魅了された宗方は、村の奥深くに隠された「1000年の記録」の解読を進めていく。 ​それが、自ら退路を断つ行為だとも知らずに。 ――解き明かした歴史の終わりで、彼らが直面する絶対的な絶望とは。


第1章:空白の誘惑

蛍光灯の微かなハム音が、深夜の研究室に響いている。
机の上に広げられたのは、江戸時代中期の検地帳を複写した古色を帯びた紙片と、液晶画面に映し出された最新の国土地理院のデジタル地形図だった。
歴史学者・宗方(むなかた)は、老眼鏡の奥の目を血走らせ、二つの資料を交互に指でなぞっていた。
「……やはり、ここだけがない」
呟いた声は、乾燥した室内の空気に吸い込まれて消えた。
彼が調査しているのは、北関東の山間部に位置する、かつて天領(幕府直轄領)に隣接していたとされる地域一帯の郷土史だった。周囲の村々については、米の収穫高から住人の宗門改帳に至るまで、驚くほど緻密な記録が残されている。どの時期にどの家が途絶え、どの土地が荒廃したかまで追うことができる。
しかし、その山脈の窪地に位置する、直径数キロメートルほどの狭小な一角だけが、完全に空白になっていた。
江戸期の検地帳では、その実在を示す境界線が描かれているにもかかわらず、地名すら記されず黒く塗りつぶされている。明治の廃藩置県時の公図でも、大正、昭和の区画整理でも、その場所は「官有林」あるいは「保安林」という名目で、民間の立ち入りや詳細な測量から不自然に除外され続けていた。現代の衛星写真を見ても、そこにはただ、周囲より一段と濃い緑の樹冠が鬱蒼と広がっているだけだった。
歴史の連続性の中にぽっかりと開いた、底の知れない暗黒の穴。それが宗方の目には、たまらない魅力となって映っていた。
背後の扉が静かに開き、一人の男が入ってきた。同僚の准教授である佐伯(さえき)だった。手にはぬるくなった缶コーヒーを握っている。
「まだやっているのか、宗方」
「佐伯、これを見てくれ」
宗方は引き留めるように画面を指差した。佐伯は怪訝そうに眉をひそめ、宗方の肩越しに資料を覗き込んだ。だが、宗方が指し示している「空白地帯」を認識した瞬間、佐伯の表情から明確に余裕が消えた。缶コーヒーを持つ手が、わずかに強張る。
「……お前、まさかここを調べているのか」
「気付いていたんだろう。この不自然な抹消に」
宗方の声には、興奮が混じっていた。
「周囲の村の古文書には、この場所を指す言葉として『向こう側』とか『忌み山』といった曖昧な記述が散見される。だが、具体的な生業も、住人の存在も一切書かれていない。これは意図的な隠蔽だ。この土地には、中央の歴史に抹殺された、千年規模の未知のコミュニティが今も眠っている可能性がある」
佐伯はゆっくりと首を振った。その目は、宗方ではなく、画面の黒い空白を凝視している。
「やめておけ、宗方。あそこは郷土史家の間でも『触れてはならない場所』とされている」
「迷信を口にするな。我々は学者だぞ」
「迷信ではない。実害の話だ」
佐伯の声は、いつになく低く、冷ややかだった。
「三十年前、当時の地方史の研究グループが、その周辺のフィールドワークに向かった。結果はどうだったと思う。一人は山中で行方不明になり、残りの二人は数日後に麓で保護されたが、重度の精神錯乱を起こしていて、まともな会話すらできなくなっていた。彼らが残したノートは、全ページが黒いインクで塗りつぶされていたそうだ。それ以来、あの場所の調査を申請しようとする者は、大学の上層部から暗黙のうちに止められることになっている。歴史があるかどうかも分からない、ただの不毛な土地だ。関わるな」
「それは単なる遭難事故か、あるいは閉鎖的な地域特有のトラブルを大袈裟に言っているだけだ」
宗方は鼻で笑った。だが、佐伯の警告の冷たさは、じわりと部屋の空気を重くしていく。居心地の悪い沈黙が、二人の間に流れた。
佐伯はそれ以上宗方を説得しようとはせず、「忠告はした」とだけ言い残して、逃げるように研究室を去っていった。
一人残された宗方は、デスクの引き出しから一通の書類を取り出した。来月に迫った、国内最大の歴史学会での特別発表の案内状だった。
彼の脳裏に、焦燥感が黒い泥のように湧き上がってくる。
宗方の立場は、いま崖っぷちにあった。近年、目立った研究業績を上げられず、大学内での評価は下落の一途を辿っている。もしこの学会で、他を圧倒するような画期的な新発見を提示できなければ、次年度の教授選の道は完全に閉ざされ、研究室の予算も削られることになる。
「誰も足を踏み入れておらず、誰も論文を書いていない未開の土地……」
佐伯の言った「過去の研究者の失踪」という言葉が、恐怖ではなく、むしろ極上の果実のように思えてきた。それほどのタブーが隠されているということは、そこには確実に、過去の人間たちが命がけで隠そうとした「巨大な歴史的真実」が存在するということだ。
ここで引き下がるわけにはいかない。私にはこれしかないのだ。
宗方は手元のスマートフォンを操作し、ゼミの助手たちへメッセージを送った。
【明日朝六時、研究室に集合。北関東への緊急フィールドワークを行う。機材の準備をしておくように】
返信はすぐに届いた。
冷静で優秀な筆頭助手の藤原、実務能力の高い阿部、そして記録担当の女性助手の3名から、了解を意味する短い事務的な文面が並ぶ。彼らは宗方の強引な調査スタイルには慣れていたが、今回の行き先がどのような場所であるかは、まだ何も知らなかった。
窓の外を見ると、都会の夜空はどんよりと曇り、星一つ見えなかった。
宗方はパソコンの電源を落とし、暗転した画面に映る自分の、酷くやつれ、しかし狂気的な光を宿した瞳を見つめていた。
明日、歴史の空白が、ついに暴かれる。
その選択が、自分たちを二度と戻れない泥濘へと引きずり込む一歩になるとは、この時の宗方は微塵も疑っていなかった。

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