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忘れ物取扱所

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※ここから先はフィクションです。
※実在の施設・団体とは関係ありません。





仕事帰りにスマホを落としたことに気づいたのは、改札を出てからだった。

ポケットを探っても、カバンの中をひっくり返しても、どこにもない。
冷たい汗が背中を流れる。

「……駅で落としたか」

駅員に聞くと、「忘れ物取扱所で確認してください」と言われた。
案内されたのは、普段は通らない通路の突き当たり。
防火扉みたいな灰色の扉の上に、小さなプレートが掲げてある。

忘れ物取扱所(関係者以外立入禁止)

「すみません、ここですよ」

制服姿の若い駅員が、カードキーで扉を開けてくれる。
油の切れた蝶番が、低い音を立てた。

中は、思っていたよりも広かった。
図書館の閉架書庫みたいに、金属製の棚がびっしりと並んでいる。
空調の音と、どこかから聞こえる蛍光灯のジジジというノイズだけが、静かな空気を揺らしていた。

「では、あちらのカウンターで職員にお声がけください」

駅員はそう言って、扉を閉めてしまった。
外のざわめきは、きれいに切り離される。

カウンターの中には、年配の男がひとり座っていた。
グレーの事務服に、名札だけがぶら下がっているが、名前の部分はすり減って読み取れない。

「すみません。スマホを落として……この駅で、たぶん」

男は無言で、観音開きのノートを出した。
何十年分も使われてきたような、角の丸くなった分厚い台帳だ。

「お名前と、落とした時間帯を」

低い声が、湿った空気に沈む。
言われるままに記入すると、男は台帳をめくり、何かを確認してから頷いた。

「こちらへ」

促されて棚の間を歩く。
歩くたび、上の蛍光灯がわずかに揺れて、影が伸びたり縮んだりする。

途中、視界の端にスーツの袖が見えて、思わずそちらを見る。
しかしそこには誰もいない。

代わりに、棚のラベルが目に入った。

2023年10月 傘・手袋・マフラー
2023年11月 定期券・社員証
2023年12月 スマートフォン・モバイルバッテリー

「こちらです」

男が立ち止まった先の棚の一角には、透明なケースが整然と並んでいた。
ひとつひとつに番号札が貼ってある。
中には、いくつものスマホが沈んでいた。

「形や色の特徴は?」

「黒で、角が少しかけてて、裏に小さいシールが……」

説明していると、男は慣れた手つきでケースを引き出す。
中の一台を取り出し、電源ボタンを押した。

ロック画面に、自分と同じ壁紙が映る。
無駄に撮った空の写真だ。

「これですね」

「……はい、ありがとうございます」

受け取ろうとした手を、男が少しだけ引いた。

「身分証の確認だけ、させてください」

財布から免許証を出すと、男はじっとそれを見つめた。
名字と名前、住所、生年月日。
黒い目が、ひとつひとつ舐めるようになぞっていく。

「……なるほど」

なにが“なるほど”なのか、よくわからなかった。
スマホを返してもらい、礼を言う。

「すみません、助かりました」

背を向けようとしたとき、男がふいに声をかけてきた。

「他にも、お預けになっているものがありますが——確認されますか?」

「え?」

振り返ると、男は台帳の別のページを開いていた。

「こちらに、お名前がありますので」

指し示された行には、自分の名前がいくつも並んでいた。
日付の列には、今日のものとは違う数字が書かれている。

「いや、今日落としたのはスマホだけで……」

「物とは限りませんよ」

男はさらりと言った。

「ここでは、さまざまな“忘れ物”を扱っていますから」



男は、通路の別の方向を指差した。

「こちらの棚です」

さっき通ってきたエリアとは違う。
そこには、傘や鞄の代わりに、紙箱やファイルのようなものが整然と並んでいた。
大きさも形もまちまちだが、どれも白いラベルが貼られている。

『高校時代の友人関係』
『実家との電話』
『元恋人との話し合い』

走り書きみたいな字で、そう書かれていた。

「……これ、なんですか」

「お客様方が“置いていかれたもの”ですよ」

男は淡々と答える。

「扱いづらくて、持ち歩きたくないもの。
でも、完全に捨ててしまうには、少しだけ未練のあるもの。
そういうものを、ここで預かっています」

意味が掴めず、眉をひそめる。

「冗談、ですよね?」

「冗談にしては、こちらの棚がずいぶんいっぱいでしょう」

男の視線の先には、「家族関係」「職場の飲み会」「SNSのつながり」といったラベルが並んでいる。
どの箱も、きっちりとピッタリの隙間に収まっていた。

「……俺のは、どれなんですか」

自分でも驚くくらい素直に、そう訊いていた。
逃げるように帰ってしまえばよかったのに、目を逸らせなかった。

男は台帳を確認し、ひとつの棚を指さした。

「三段目の、右から二番目」

そこにあったのは、細長い白い箱だった。

『同期飲みのLINEグループ』

黒いマジックでそう書かれている。
見覚えのある字だった。
自分の字だ。

「……こんなもの、預けた覚えは」

「はい、たいていの方は、そうおっしゃいます」

男は少しだけ口角を上げた。

「“既読スルーが面倒になったから退会しただけだ”とか、
“放っておけば自然に消えると思ってた”とか」

図星だった。

数ヶ月前まで、毎週のように通知が鳴っていた。
飲み会の誘い、他部署の噂話、しょうもないスタンプの応酬。
ある日、ふと、それが耐えられなくなった。

(もういいだろ、こんなの)

そう思って、グループから抜けた。
それきりだ。

「中をご覧になりますか?」

男が訊く。
躊躇いながらも、箱のふたに指をかける。

カチリ、と小さな音を立てて開いた中から、冷たい空気がふわりと漏れた。

そこには、ぎっしりと折りたたまれた紙片が詰まっていた。
一枚を指先でつまむと、勝手にひらいていく。

——お前、最近全然顔出さないな
——大丈夫?
——忙しいなら無理すんなよ

見覚えのある文章が並んでいた。
名前の欄には、“自分以外のメンバー”のアイコンが印刷されている。

「これは……」

「届かなかったメッセージですね」

男が説明する。

「お客様が距離を取りたいあまり、見てないふりをしたもの。
“既読にもしなかった返事”の数々が、ここに保管されています」

紙片を手放すと、ひらひらと箱の中に落ちた。
その瞬間、胸の奥が妙に重くなる。

「……勝手にこんなところに保管しないでくださいよ」

精一杯、軽口を叩いたつもりだった。
しかし声は掠れていた。

男は、こちらを見ずに別の箱を指す。

「こちらも、お客様のものです」

『父への折り返し電話』

少し大きめの箱だった。
ラベルの角が、何度も触られたように擦り切れている。

「結構たくさん、預けておられますね」

男は、淡々とした口調のまま言った。

「“今度かけ直すから”とか、“落ち着いたら話そう”とか。
そういう形で置いていかれたものは、腐りやすいんです」

箱のふたに触れようとして、手が止まる。
開けたら、きっと後悔する。
それくらいは、直感的にわかった。

「……これ、引き取ったらどうなるんですか」

自分でも意外な質問だった。
一生見なかったことにしてもいいはずなのに、口が勝手に動く。

男は、ようやくこちらに視線を向けた。

「単純な話ですよ。
未処理の分だけ、“まとめて”戻ってきます」

「まとめて?」

「ええ。
あのとき返さなかった一通分の重さも、
あのとき折り返さなかった一回分の沈黙も、
“いまのあなた”の肩に、全部乗るだけです」

肩が、実際に重くなった気がした。

男は続ける。

「それでも引き取る方は、ほとんどいません」
「……ですよね」

「だったら」と、男は軽く台帳を叩いた。

「ここに置いていけばいい。
“距離を取ったまま”保管しておきたい方は、たくさんいらっしゃいますから」



気づけば、息が浅くなっていた。
世界が、棚と箱のラベルの文字だけになっていく。

「他にもありますよ」

男は、さらりと言った。

「『元カノに送らなかった謝罪』、『職場の後輩にやらせたままの仕事』、
『自分自身への説明』——」

最後のひとつで、言葉が途切れる。

「なんですか、それ」

自分でも情けないほど、震えた声だった。

男は、少しだけゆっくりした動作で、最下段の棚に手を伸ばした。
そこには、ひとつだけ、他と違う箱が置かれていた。

黒い箱。
ラベルには、こう書かれている。

『自分自身への説明』

「これは、まだ中身が半分ほどしか入っていません」

男は箱を持ち上げ、カウンターの上に置いた。

「開けてはいけないって、感覚ではわかっているんでしょう」

「じゃあ、なんで……」

「預けたんですよ。あなたが」

自分の喉の奥で、何かがきしんだ。

「“なんでこんな仕事してるんだろう”とか、
“なんであのとき別れ話を切り出したんだろう”とか、
“なんであの約束を守れなかったんだろう”とか」

男の声は淡々としているのに、ひとつひとつの言葉が耳に刺さる。

「そういう問いへの説明を、面倒くさくなって、ここに置いていく方が多いんです。
最近は特にね」

黒い箱が、じっとこちらを見ているように見えた。

「……返してください」

自分でも驚くほど、はっきり言っていた。

「それ、返してください。
こんなところに置いてたら、なんか……」

なんか、どうなるのか。
最後まで言えなかった。

男は、少しだけ目を細めた。

「返却……ですか」

「はい」

唇が乾く。
その一言に、全力を込める。

「わかりました」

男は台帳の余白に何かを書き込むと、スタンプをひとつ押した。

「では、サインをお願いします」

差し出されたペンを握る。
自分の名前を書こうとして、手が止まった。

紙の上で、苗字の最初の一文字がぐにゃりと歪む。
二文字目が、うまく出てこない。

「……あれ」

焦りが滲む。

「すみません、ちょっとだけ、字が……」

男はじっとこちらを見ていた。
さっきまで事務的だった目に、わずかな興味の色が混じる。

「よくあることです。
“自分への説明”を長く放置していた方ほど、サインに時間がかかる」

なんとか書き終えた署名は、どこか他人の名前みたいだった。
線が一本多い気もするし、少ない気もする。

男はそれを確認し、頷いた。

「では、返却処理を行います」

黒い箱のふたに手を置き、ゆっくりと持ち上げる。

中には、細い糸のようなものが絡まり合っていた。
銀色とも、灰色ともつかない色合いで、ひとつひとつが小さな結び目になっている。

見た瞬間、頭痛がした。
どこかで見たことがある気がする。
吊革を握りながら俯いた電車の窓、会議室の白い壁、真夜中のスマホの画面。
全部、その糸と結び目の模様に見えてくる。

「……これが、なんなんですか」

「あなたが、あなた自身に説明しそこねた理由の数々です」

男の声が、遠くなる。

「仕事を選んだ理由。
友人を切った理由。
誰かを傷つけたときに、見ないふりをした理由。
“なんとなく”って棚上げしたことの、すべての結び目です」

糸の塊が、ゆっくりと蠢いた。

「返却をご希望なら、これをそのまま——」

男は、箱をこちらへ押しやった。

「—お持ち帰りいただくだけです」

目の前に、黒い穴が開いたように感じた。
そこから、冷たく湿った風が吹き上げてくる。

(これを、全部?)

肩が、さっきまでとは比べものにならない重さで沈む。
呼吸が浅くなり、心臓が痛いほど早く打ち始める。

「……無理だ」

喉から漏れた声は、自分のものとは思えなかった。

「こんなの、全部抱えて生きていくなんて、無理だ」

男は、待っていたかのように頷いた。

「ですよね」

箱のふたが、静かに閉じられる。

「多くの方が、そうおっしゃいます」



気づけば、カウンターにもたれかかっていた。
足に力が入らない。

「じゃあ、どうすれば……」

搾り出すように問うと、男はさも事務的に答えた。

「簡単です。
“捨てるわけにはいかないが、自分では持てない”ということでしたら——」

少しだけ間を置いてから、続ける。

「——持ち主ごと、お預かりします」

意味を理解するのに、数秒かかった。

「持ち主ごとって、どういう……」

言い終える前に、背筋に冷たいものが走る。
さっき通ってきた棚が、急に別のものに見えた。

白い箱。
紙ファイル。
黒い箱。

どれも、“中身”が見えないように、きっちりと封がされている。

「ここにある箱は、みんな……」

声が震える。

「ええ。
持ち主の方を“少しだけ”お預かりしている箱も、多いですよ」

男は、淡々とした口調のまま言った。

「生活には支障が出ません。
仕事も続けられるし、周りの人から見れば、何も変わりません。
ただ、“自分に説明をしなくて済む部分”を、こちらで保管しているだけです」

それは、つまり——

「じゃあ、俺は今まで……」

呟いた途中で、言葉は喉に貼りついた。

いくつも距離を置き、いくつも“見なかったこと”にしてきた。
そのたびに、ここに小さな箱が増えていったのだろうか。
知らないうちに、自分の一部を切り離して、ここに置いてきたのだろうか。

男は黙って、ひとつの棚を指さした。

そこには、何のラベルも貼られていない空のスペースがあった。
小さな紙だけが、そこに伏せられている。

「ここが、空いています」

紙には、薄い鉛筆の字でなにか書かれていた。

『——さんの“説明しない部分”』

自分の名字と名前が入るはずのところだけ、空欄になっている。

「サインをいただきましたので」

男は、さっきの台帳を軽く持ち上げて見せた。

「ここに、お名前を書き入れれば手続き完了です。
あとは、必要なぶんだけ“説明しないで済む人生”を、お過ごしいただけます」

喉がカラカラに乾く。
頭の中で警報のような音が鳴っているのに、身体は動かなかった。

「……断ったら?」

やっと絞り出した言葉だった。

男は、ほんの少しだけ首を傾げる。

「断られた場合は、もちろん強制はしません。
その代わり——」

黒い箱を、指先で軽く叩いた。

「“中身”は、すべてあなたのもとに戻ります」

さっき見た糸の塊が脳裏によみがえる。
あの重さを、今の自分が受け止められるはずがないことだけは、はっきりしていた。

沈黙が落ちた。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響く。

「……わかりました」

口が勝手に動く。
誰か別の人間が、自分の声帯を借りて喋っているみたいだった。

「預けます」

そう言った瞬間、男は初めて、はっきりとした笑みを見せた。

「かしこまりました」

鉛筆が、紙の上を滑る。
空欄だった場所に、自分の名前が埋まっていく。



気づくと、改札の前に立っていた。

手には、しっかりとスマホが握られている。
さっきまでいた忘れ物取扱所の扉は、振り返っても見つからなかった。

(なんだったんだ、今の)

夢だったのかと思うほど、現実感が薄い。
ただ、ひとつだけはっきりしている。

胸の奥の重さが、嘘みたいに軽くなっていた。
ずっと引っかかっていたはずの後悔や言い訳が、綺麗に消えている。

(まあ……いいか)

電車に揺られながら、そんな言葉が自然と浮かぶ。

父親に折り返すはずだった電話のことも、
退会した同期のグループのことも、
最近会っていない友人の顔も——

思い出そうとすれば、思い出せる気がする。
でも、もうそこに「説明をしなきゃいけない理由」が残っていない。

「どうせ、たいしたことじゃなかったんだろ」

ひとりごとのように呟いて、スマホの画面をスワイプする。
SNSのタイムラインには、いつもの他人の愚痴や自慢が流れていた。

どれも、自分には関係のない話だ。
そう思った途端、画面の情報が急に薄っぺらく見えてくる。

電車の窓に映る自分の顔は、いつもと変わりない。
ただ、目の奥だけが、どこか空っぽだった。



駅の地下、普段は誰も通らない通路の突き当たり。

灰色の扉の向こう側では、年配の男がひとり、台帳を閉じていた。

新しく埋まった棚の空きスペースには、ラベルの貼られた箱がひとつ増えている。

『——さんの“説明しない部分”』

名前の部分だけ、誰にも読めないように、うすく滲んでいた。

男は、静かに棚の明かりを落とした。

今日もまた一人、
少しだけ身軽になった持ち主が、何も知らないふりをして帰っていく。

忘れ物取扱所の奥には、
もう帰ってこない「説明」が、静かに積み上がっていった。

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