人間の値段は10億円もしない。セックス1回数万円の虚無
乾いた見積書
オフィスの冷房が効きすぎた部屋で、画像処理のレンダリング作業を発注する。しばらくして、PDFで数万円の見積書が届く。
その数字の羅列に、感情の入り込む余地はない。あるのはマシンの稼働時間と、技術者の拘束時間、そして納品される成果物の対価だけ。不備があれば修正を求め、納期が遅れれば契約を盾に話をすればいい。それはどこまでも「乾いた」、清潔な取引だ。少なくとも、この取引で誰かが傷ついたり、夜中に独り、身につまされて泣くようなことはないだろう。
けれど、仕事を終えて灯影が揺れる夜の街に佇むとき、ふと心に兆すものがある。
この街のどこかで今も売買されているセックスの値段もまた、同じ数万円の桁に収まっているという事実に。
立ち尽くしてしまうのは、単に安いからではない。高度な計算処理を行うマシンの「作業」と、かけがえのないはずの人間の「尊厳」。市場という天秤の上では、その二つが驚くほど同じ重さで釣り合って見えてしまう。その光景が、どこか浅ましく、グロテスクに映るからだ。

溝に沈む
セックスで10億円を稼ぐ。そんな話は、個人の身体レベルではまず起こり得ない。それは遠い国のファンタジーか、あるいは雲の上の出来事だ。
物理の壁が立ちはだかる。どんなに単価を上げようと、生身の身体には限界がある。1日は24時間しかなく、精神と肉体の回復には、絶対的な時間が必要になる。レンダリングのようにマシンを増設して一気に処理することも、成果物をデータで納品して終わりというわけにもいかない。
経済学的に言うのなら、セックスワークは極めて労働集約的で、拡張性のない営みである。無理に回転率を上げれば、丁寧さや安全、あるいは合意の余白といった、人間関係の根幹にある湿潤な部分が削がれていく。この構造的な制約がある限り、価格は生活実感のある桁――数万円という、あまりに生々しい金額――に落ち着かざるを得ない。
理屈としては分かる。需給曲線も、限界効用も、教科書の通りだ。
分かるからこそ、一度足を踏み入れたら二度と浮き上がれない、底なしの濁り江に足を絡め取られたような恐怖を覚える。「これが一生か」。底冷えするような心許なさが、ふとした瞬間に背筋をよぎる。
季節が巡り、軒先の風鈴が寒々しい音を立てるようになっても、陋巷の奥に澱んだ空気は動かない。
永井荷風が『濹東綺譚』で描いた世界のように、そこにはいつの時代も変わらぬ、湿った蚊の鳴く声と、溝の臭いが漂っている。ラディオから流れる流行歌が変わっても、スマートフォンの通知音が鳴り響くようになっても、身体を切り売りするやる瀬なさは、変わらない。もがけばもがくほど、泥が身体にまとわりつく。

値札という名の呪い
なぜ、私たちはこれほどまでに居心地が悪いのか。
社会心理学者のアラン・ペイジ・フィスクとフィリップ・テトロックは、愛や名誉、忠誠といった「聖なる価値」を、金銭という「世俗的な価値」と交換しようとすることを「タブー・トレードオフ」と呼び、人々がこれに生理的な嫌悪感を抱くことを指摘した。
私たちが抱く「忌避」の源泉は、おそらくここにある。
レンダリング代の数万円は、成果物と技術への対価だ。そこには「技術を買った」という納得がある。
だが、セックスの数万円は違う。買い手の無意識下で、それは「行為」への対価を超え、「人間そのもの」への対価として処理されやすい。成果物が残らない泡沫の体験だからこそ、支払われた金額はそのまま「相手の価値」として誤読されてしまう。
これが一晩10億円の御伽噺なら、生々しい人間性は捨象され、「王族の身代金」という記号のように響くだろう。しかし、数万円はあまりに現実的すぎる。それは家賃の一部であり、食費の足しであり、新しいコートの値段だ。その生活臭のする金額が、人間の尊厳に貼り付けられる。
「お前の尊厳の値段は、この程度だ」。レシート越しに、そう突きつけられている気がしてならない。

鋳型と白粉
その誤読は、時に暴力を孕む。
ある時は聖女のように、ある時は家庭を壊す鬼や蛇のように。樋口一葉が『にごりえ』でお力に語らせたように、世間は勝手に作った「鋳型」に人間を流し込もうとする。
「私はそんな鋳型に入った女ではない」
厚い白粉の下にある素顔でそう訴えようにも、声は頼りなく、値札の説得力にかき消されてしまう。市場は複雑な人間性を必要としない。必要なのは、消費しやすいパッケージと、適正な価格タグだけだ。
買い手は、金を払った瞬間に、相手を「理解可能な商品」として手に入れたと錯覚する。その錯覚こそが、最も深い断絶を生む。
鶯谷の安ラブホテル、古びたベッドに横たわり文字通りシミのある天井を見つめる夜。そこにあるのは「10億円のゴージャスな夜」ではない。あるのは、自分の魂の一部が誰かの財布の中身と等価交換されたという、身につまされるような虚無感だけだ。

渡らねばならぬ橋
社会学者ヴィヴィアナ・ゼライザーは『親密さの購入』で、人々が親密な関係と金を必死に区分けし、意味づけようとする姿を描いた。私たちは、ケアや愛に値段がつくことを恐れながら、それでも値段をつけざるを得ない社会に生きている。
セックスの価格が安いこと。それは単に市場の需給バランスの結果に過ぎないのかもしれない。だが、その「安さ」はあまりに雄弁だ。
市場というシステムが人間を評価するとき、身体的接触や精神的ケアといった最も個人的で繊細な領域さえ、スーパーに並ぶ日用品と同じように値付けしてしまう。その残酷さを露呈している。
レンダリングはやり直しが効く。不備があれば修正できるし、責任の範囲も契約で切れる。
しかし、値札に翻訳された尊厳は、検収もできなければ、返品もできない。一度貼られた値札を剥がそうとすれば、皮膚ごと剥がれるような痛みを伴う。
渡るには怖いが、渡らねば生きていけない。そんな脆い丸木橋の上を、たどたどしい足取りで、誰かの都合の良い幻想を演じながら歩くしかない。橋の下を流れる水は暗く、行方も知れぬまま、ただ流れていく。
その先にあるのは、荷風が見た諦念か、あるいは一葉が描いた破局か。今の私にはわからない。
ただ、立ち尽くしてしまうのは、セックスが安いからではない。
市場という物差しだけで測れば、かけがえのないはずの人間の尊厳が、マシンの計算処理と同じ程度の価値しかないと、数字で証明されてしまう。その証明があまりに合理的で、反論の余地がないこと。それが、どうしようもなく悲しい。
人間の値段は、悲しいことに10億円もしない。
少なくとも、この濁った水面を覗き込む限りにおいては。

